二十.誓言
今度こそ、屹度、お救いする。
だからどうか、独りで苦しまないで。
――また、お会いしましょう。次の世で。
そう誓ったのは、何時であったか。
誓った相手は、誰であったか。
生まれ変わり、別の少女に為っても尚、守りたいと思う。貴方の御名を、思い出せない。
黒の気に捕らわれた紗柄は、眼前で雪を奪われた。攫ったのは妖の女狐で、誰の遣いかも分かっている。分かっているからこそ、歯痒くて耐えられない。
あの男の名など、呼びたくはなかった。呼んでしまえば思う壺だと知っていた。然れど、迷っている暇は一瞬たりとも無い。
「妖王!」
努めて冷静に、感情を抑えようとしたが、怒りに任せた声が出た。すると読み通り、待ち構えていた妖しの王が、何処からともなく姿を現した。
「雪を何処へやった」
虚ろな光の宿る眼と、人を食ったような彼の笑みが、何時も以上に紗柄の癪に触る。
「答えろ!」
眉を釣り上げ、有らん限りの軽蔑を投げた。其れでも未だ、凛鳴は鞘に収まっている。
「黒の気を追って行けば良い。おまえの他に目を掛けてやった娘が、あの王子に会いたがっていたゆえ、手を貸したまで」
遠退いたものの、確かに残る気の片鱗を探り、紗柄は方向を見定めた。妖王が偽りを言っていないのなら、雪は闇龍の元に運ばれたのだろう。
当人の言動から、妖王や闇龍に関する依水の推察が当たっていたと判る。
「直ぐにでも追いたいか? もう一人の巫女と対峙すれば、おまえも只では済むまい。友の悲願を果たす、最後の機会かもしれぬぞ」
妖王は、獣皮の外套の下から、腰に差していた神剣・虎狼を外した。此の後に待ち受ける紗柄の死、或いは剣士としての終わりを予言し、二度と無いかもしれぬ再戦を挑んでいる――紗柄はそう受け取った。
ところが、紗柄は一歩も動かなかった。妖王が剣を取り挑発してこようが、依水や珪楽の民の怨恨を持ち出そうが、乗らないと決めているのだ。
「聖安で会った時には明らかだった戦意が、今は無い。己が戦えなく為れば、命を狙われている王子を守る者が居なく為るからか」
不服げな妖王は、小さく舌打ちした。
「とっくに気付いていたのだろう? 親兄弟を犠牲とし、光を開かせたのは俺だと」
紗柄の両親と兄弟たちは、妖に騙されて拷問された。駆け付けた紗柄は、変わり果てた彼らを斬り、苦しみから解放した。
『「開光」には犠牲が要る。真の神巫女に為るには、相応しい対価を支払わねばならない』
『犠牲?』
『直に分かる。俺が教えてやろう』
紗柄も、何時しか勘付いていた。妖狩りに出た紗柄を捕らえたと偽り、助けに来た家族を配下に襲わせたのは、妖王であろう。紗柄が暴走して一家を惨殺したと嘯き、殺して身を守れと人々を扇動したのもまた、妖王であろう――と。
しかし勘付きながらも、敢えて答えを求めはしなかった。光龍の宿を捨ててまで、雪を守ると決めた以上、余所見をしたくはなかった。
堰を切ったように押し寄せる憎悪が、怨嗟の激流が、紗柄を圧倒する。剣を突き付け復讐したく為るが、足元の土を踏み締めた。呪詛を吐きたいところを、唇を真一文字に引き結んだ。
「おまえは幼子の頃から俺の玩具だった。『鬼』のままで在り続け、俺を愉しませていれば良かったのだ」
達観して人を見下す、掴みどころの無い妖王とは思えぬ程、苛立ちを露わにしていた。
「貴様は、其のためだけに父上や母上たちを壊し、依水から生きる術と恋人を奪い……今は闇龍に加担して此の国を乱しているのか」
嫌悪を籠めて、垣間見えた妖王の本質を確かめるように、紗柄が尋ねた。
「ああ、そうだ。気を紛らわさねば、鬱屈して死んでしまいそうだからな」
妖王は、事も無げに紗柄の間合いに立ち入り、指で顎先に触れ顔を上げさせた。
「興醒めさせるな。また五百年待たされるなど、耐えられん」
笑ってはいるが、翡翠の双眸には愉楽が見出せない。
「光と闇、どちらを助けようが、さして拘りは無い。おまえが俺と戦い、勝ったなら、雪王子を守るのに加勢してやろうか」
見詰め合ううちに、紗柄は此の男の奥を覗けた気がした。己でも奇妙な程一直線に、妖王の思考と行動が繋がった。
彼の手を振り払うこと無く一笑し、得心して言った。
「思った通り。貴様には、命や誇りを懸ける価値が無い」
虚勢ではない。妖王の隙を突き、凍り付かせるために選んだ言葉だった。
天人でありながら下界に落とされ、魔にも人にも為れぬ唯一無二の存在。自分に近い妖という種を産み殖やし、根付かせて尚、虚無を抱えて永く生きねばならぬ。ゆえに、常に心が渇いているのだろう。
――妖王は、私を自身と同じ迷宮に引き摺り込みたいのだ。
だとすれば、戦う必要は無い。紗柄の採るべき手段は一つである。
「下の異母兄は天を滅しようとして此の世の脅威と為り、上の異母兄は其の弟に引導を渡して天の王と為った。貴様ときたら、落とされた人界で非力な者たちを相手に暇を持て余しているだけではないか」
想定し得る、最大の侮辱であった。怒る素振りも見せぬ妖王は、口を閉じ耳を傾けている。
「私は、貴様には関わらない。相手にして欲しいのなら、次の光龍に期待することだ」
全身全霊で拒絶し、突き放す。恨みや殺意など微塵にも表さず、一切の憐れみも示さなかった。こうすることが、然るべき報復だと断じた。
昔妖王の企みに依り、人ではない『鬼』に為り掛けたからこそ。妖王が沈むのと同じ、誰とも分かち合えぬ孤独を味わったからこそ、想像出来た。
先に目を逸らしたのは、妖王だった。
「分かった。そうしよう」
あっさり引き下がるのは何故か、紗柄にも分からない。自分の読みが正しかったのか疑わしく為る。
「行くが良い。おまえが王子を守り抜けるか否か、見届けてやろう」
妖狐が雪を連れて消えた、黒の気が在る方角を指差すと、妖王は虎楼を腰元に戻した。
ところが紗柄の予感した通り、彼は此れだけで終わらせなかった。
「宿に抗い身を挺して王子を守っている積もりだろうが、何時まで続く?」
今の紗柄にとっては愚問である。分かっていながら尋ねる妖王は、何処から来るのか自信を持っていた。
「長くは保つまい。思い出すのは時間の問題だ。おまえが真に守りたかったのは――誰なのか」
言い残し、姿を消失させた。仕掛けられた最後の謀略に、紗柄はまんまと乗せられてしまう。魂の記憶が急激に襲い来て、己ではない己が成した誓言に目醒め始める。
かつて命を懸けて愛し抜き、幾度生と死を繰り返しても救い出すと決めた、尊き者。失われていた『彼』への想いが、光龍よりも紗柄であれという誓いを揺るがそうとしていた。
言葉を発さぬまま、瞬きすら出来ぬまま、紗柄は立ち尽くしていた。意識せぬ内に、此処何年も持たずにいた光龍の剣、天陽を右手に呼ぶ。
美しい装飾の付いた柄を握り、鞘から引き抜いて切っ先を天へと向けた。煌めく刀身に映されたのは『紗柄』ではなく、薄群青色の髪を持つ見知らぬ女だった。




