第五章 覚醒 第二節 ぬらりひょん 第三話「激突」
第五章 覚醒 第二節 ぬらりひょん 第七話「激突」
京都駅の喧騒を背に、神代一家は冷え切った空気の流れる大江山駅へと降り立った。山々に囲まれたこの地には、どこか異界の気配が濃密に漂っている。電車の窓越しに景色を眺めていた蒼也は、隣に座る父、蒼真の様子にふと目を奪われた。
何気なく置かれた蒼真の左手の甲。そこには、赤々と記された小さな円形の印が刻まれていた。何かの呪印だろうか、それとも儀式の証だろうか。蒼也の胸に小さな疑問が芽生えたが、今はそれを口にする時ではないと直感し、飲み込んだ。
大江山の静寂を切り裂くように、レイカがゆっくりと歩みを進める。彼女は一歩前に出ると、周囲を睥睨するように静かに右手を掲げた。
「天つ光よ、地の理を結べ。邪を隔て、清き境をここに成せ――結界!」
その詠唱と同時に、足元から白銀の光が奔流となって駆け抜けた。光は蛇のように地を這い、周囲の住宅街を飲み込むようにして巨大な光の壁を天高く立ち上げる。
「……さすがだな、レイカ。これなら、どれほど激しくやり合っても住民を巻き込む心配はない」
蒼真が信頼を込めた眼差しで言い放つ。戦いの準備は整った。
一行はまず、大江駅の交番へ向かった。討魔庁からの派遣であることを告げると、警察官は慌てた様子でパトカーを用意した。しかし、道中の混乱はそこから始まった。
「えーと、目的地への道順は……。申し訳ありません、少々失念してしまいました」
運転席の警察官が困惑した表情で頭をかく。先ほどまで明確だった目的地が、霧に包まれるように記憶から零れ落ちていく。
「いえ、私の方こそ……何処へ向かうつもりでしたか。住所さえ思い出せません」
助手席の同僚もまた、蒼白な顔で言葉を詰まらせた。この異常事態に、蒼真は即座に懐から住所が記された紙を取り出し、彼らに手渡した。カーナビに目的地が入力され、パトカーは再び静かに動き出す。十数分の走行の末、ようやく目的地にたどり着いた。
そこは、古めかしい佇まいの和菓子屋だった。しかし、その周囲には異様な光景が広がっていた。ぬらりひょんの護衛と思われる妖たちが、所狭しと百体ほどひしめき合っている。
車を降りた瞬間、重苦しい妖気が彼らを襲った。蒼也は緊張で手が小刻みに震えるのを隠しきれない。
「蒼也、落ち着いて……まだよ」
レイカが冷静な声で彼を制する。見たこともない異形の者たちが、獲物を狙う獣のような眼差しで一行を取り囲んでいく。蒼真と葛の葉は、迷いのない足取りで和菓子屋の暖簾をくぐった。
奥の座敷には、ぬらりひょんが悠然と座り、湯気を立てる茶を啜っていた。
「ここの饅頭は美味いぞ。お前たちも食ってみろ」
ぬらりひょんは悪戯っぽく笑いながら、目の前の饅頭を口に運び、蒼真に問いかけた。
「ところで、お前は何しにここへ来た? 饅頭を買いにでも来たのか?」
蒼真は問いかけに応じようとしたが、言葉が喉の奥で止まった。先ほどの警察官と同じ現象だ。目的が、記憶が、ぬらりひょんの放つ精神干渉によって霧散していく。
葛の葉は瞬時に状況を悟った。このままでは全滅する。作戦を中止し、即座に撤退すべきだ。しかし、蒼真は自らの頭を抱え、必死に抗っていた。
(……何のために……俺は……)
朦朧とする意識の中、蒼真は自分の手を見つめた。左手の甲に描かれた、あの赤い印。そう、これは自分自身への道しるべだ。記憶を奪われた時、痛みによって現実を繋ぎ止めるための、命の刻印。
蒼真は迷わず、腰の草薙の剣を抜き放ち、その切っ先を左手の甲に深く突き刺した。
鮮血が飛び散り、蒼真の顔を赤く染め上げる。走った激痛が、霧に包まれていた脳を冷徹に覚醒させた。
「――全員、作戦実行!」
蒼真の叫びが、和菓子屋に響き渡った。
その瞬間、ぬらりひょんの姿が五人に増殖し、座敷を埋め尽くした。だが、蒼真は怯まない。葛の葉と一瞬の視線を交わす。
「秘術、影縛り!」
葛の葉の合図と共に放たれた術が、正確に「影」を持つ一体を捉えた。本体の動きが封じられる。ぬらりひょんは焦燥し、外の妖たちに助けを求めた。
しかし、外には蒼也とレイカという鉄壁の守りが控えていた。蒼也は伝説の刀、童子切安綱を抜き放ち、襲い来る妖を舞うように次々と斬り伏せていく。レイカの二丁拳銃が火を噴き、光の弾丸が戦場を支配した。
その隙に、蒼真は拘束されたぬらりひょんの懐に飛び込んだ。草薙の剣が銀の弧を描き、心臓を深く貫き、そのまま縦に切り裂く。凄まじい悲鳴を上げたぬらりひょんだったが、次の瞬間、その傷口は不気味なほど速く再生を始めた。
「ぬっ……小童が!」
「葛の葉! 心臓を貫いても死なない! どうすればいい!」
討魔庁のデータベースにも、ぬらりひょんの討伐記録は存在しない。葛の葉ですら冷や汗を流しながら、必死に知識の海を探索する。そして、一つの答えにたどり着いた。
「心臓ではありません。あの大きな頭です! そこを切り落としてください!」
蒼真は草薙の剣に全霊の念を込め、力任せに振り抜いた。
――シュパッ!
ぬらりひょんの首が宙を舞い、地面に転がった。
蒼真は生首を掴み、外へと引きずり出した。
「戦いはやめろ! お前らの親分、ぬらりひょんは俺が討ち取った! それでも戦いたい奴は前に出ろ、相手をしてやる!」
その圧倒的な覇気と親分の首を目の当たりにし、妖たちの闘志は霧散した。一匹、また一匹と、蜘蛛の子を散らすように姿を消していく。
静寂が戻った大江山で、蒼真は討魔庁の担当者にぬらりひょんの首を託した。
その一部始終を見ていた蒼也は、自らの左手の甲を見つめた。何も描かれていない、無垢な自分の手。そして、血に濡れながらも揺るぎない覚悟を宿した父の手。
父の背中を追い、草薙の剣を振るおうとした自分に欠けていたもの。それは、命を懸ける覚悟だった。
蒼也の目には、父の背中が、先ほどよりも遥かに大きく映っていた。
第七話 了




