第四話 写真の行き先
――受託票 No.004
品名:十三回忌祭壇用修復写真(一葉)・焼き増し写真(六葉)
届先:大三島 常楽寺 客殿
指定時刻:本日十三時三十分
今日である理由:十三回忌法要・親族帰路前
代替:不可(本日仕上がり分のみ)
軽い荷は、楽だと思っていた。
重さがなければ速度が出る。容積がなければルートも選べる。
だから写真の依頼を聞いたとき、紬は最初、それを扱いやすい荷の側に置いた。
「潮継ぎ当日便です」
相手は女で、声の底に疲れより先に段取りがあった。
「大三島の常楽寺で、今日、母の十三回忌をする岡部真紀と申します。今治の野村写真修復室に預けている写真を、法要の前までに届けていただけませんか」
紬はすぐに受託票へ書き込む。
「品目を詳しくお願いします」
「祭壇に置く大きい写真が一枚と、焼き増しが六枚です。古い写真で先週から野村さんに預けていました。昨日、今治へ出た兄が確認に寄ったら、今朝には出せると分かって。受け取りは潮継ぎさんにお願いするつもりで、野村さんにも伝えてあります」
「指定時刻は」
「十三時半までに客殿へ。法要は十四時からですが、その前に祭壇へ置きたいんです」
「なぜ今日ですか」
電話の向こうで、真紀は少しだけ黙った。それから、事実を並べる声で答える。
「兄弟が今日しか揃いません。法事が終わったら、それぞれ松山と大阪へ戻ります。母の写真も、今日ここで渡さないと、また誰かの家の引き出しで止まってしまうので」
紬は手を止めなかった。
「差出元の仕上がり予定は」
「十一時十分です。受け取りの話は通してあります」
「状態条件はありますか」
「折れないように。あと、指で触らないでほしいと写真屋さんに言われました」
「分かりました。折れ、湿気、指紋を避ける条件で受けます」
通話を終えると、浜野が湯のみの縁から目だけ上げた。
「法事か」
「十三回忌です」
紬は票の余白に追記した。
使用開始時刻:十三時三十分
遅延時影響:法要準備・親族持ち帰り不可
浜野はその文字を見て、小さく頷く。
「法事の荷は、僧侶の時間で締まるようで、ほんとは帰りの船で締まるんよな」
「帰りの船」
「遠くから来た親族は、法事が終わったら散る。今日渡せんかった写真は、だいたい次の法事まで止まる」
それは紬にも理解できた。十四時のあとに時間が続いているようで、実際には続いていない荷だ。
窓口の奥で、湊が整備台から顔を上げた。
「写真なら、背負わない方がいいです」
「軽いですよ」
「軽いからです」
湊は作業用の小棚から、黒い薄型のケースを取り出した。書類鞄のように見えるが、骨材が硬いらしく、片手で持ってもたわまない。
「背中に当てると汗と体温を拾います。湿気るし、少し反ります。肩にも掛けない方がいいです」
「そこまで変わりますか」
「戻らない跡がつくことがあります」
湊はケースの内側に薄紙を敷きながら言った。
「写真って、軽いわりに根に持つんで」
紬は少しだけ眉を上げた。
「根に持つ」
「曲げた人のことを」
真顔で言うので、冗談なのか事実なのか分からない。
白地図の前へ立ち、紬は大三島への線を頭の中で引いた。
今治から橋を渡って大島、伯方、そこから大三島へ入る道。もう一つは、今治港から島側の港へ渡る船の道。橋は速い。港は遅い。数字の上ではそれで終わるはずだった。
なのに紬は、白地図の空白に青鉛筆を当てる前から、すでに別の線を選んでいた。
「宗方へ回ります」
自分で言ってから、少しだけ早口だったと気づく。
浜野は何も言わずに、白地図の橋筋と港筋を見比べた。
「橋の方が早いぞ」
「写真は風と振動を拾います。橋より船の方が平らです」
「今日は凪やけどな」
「待ち時間込みでも、間に合います」
間に合う。たしかにそうだった。だから理屈としては成立している。
浜野は追及しなかった。ただ「そうか」とだけ言って、窓の外へ視線を戻した。
その「そうか」が、紬には少しだけ居心地悪かった。
◇
野村写真修復室は、古い商店街の二階にあった。階段の踊り場に、薄く退色した子どもの記念写真が何枚も飾ってある。店内は写真屋というより、小さな修復工房に近かった。ライトテーブル、刷毛、綿手袋、薄い定規。空気には薬品というほど強くない、乾いた紙の匂いがあった。
「潮継ぎさんですか」
店主の野村は、細い白手袋を外しながら立ち上がった。年のころは五十代後半。言葉より先に指先へ気を配る人の動きだった。
「これです」
差し出されたのは、黒台紙に挟まれた大きめの写真一葉と、封筒に入れられた小さな焼き増し。どちらもさらにグラシン紙で包まれている。
「もとの写真は二十年ほど前のものでしてね。まだお元気で、店先に立たれとったころだそうです。表面がかなり荒れてました。大きい方は今日の法事で使うと聞いたので、まず一枚だけ出せる状態にしました。焼き増しは親族の方に持って帰ってもらう用です」
野村は写真の縁だけを持って、紬に中を見せた。
ひとりの女が写っていた。きちんと結った髪に、紺のカーディガン。どこかの店先か、家の前か、少し斜めに立って笑っている。写真館の遺影よりずっと生活に近い顔だった。
「この方が」
「亡くなる前の顔より、このころの顔を覚えている人が多いそうです。だから今日、兄弟が散る前に渡したいと。写真は軽いけれど、時間より痕を覚えます。端だけ持ってください」
紬は何も言わずに受け取った。
軽い。やはり軽い。けれど、今まで扱ってきたどの荷よりも、持ち方に制約が多いのが分かる。曲げない。濡らさない。指を置かない。日差しを当てすぎない。軽いからこそ、油断がすぐ痕になる。
「自転車で運びます」
紬が言うと、野村は一瞬だけ眉を上げた。
「でしたら、揺らさないで。あと、途中で中身を確かめるなら必ず端だけ。表を撫でたら、それが最後まで残ることがあります」
「分かりました」
「写真は、時間より痕の方を覚えますから」
店を出て階段を下りるあいだ、その言葉が残った。
時間より痕。
東京では逆だった。荷物は時刻だけで評価される。十一時五十九分と十二時一分の差がすべてで、その途中にどう運んだかは、壊れない限り記録に残らない。
だがこの窓口では、途中の方が荷に残ることがある。
商店街を抜け、港へ向かう道で、紬は一度だけ橋の方角を見た。塔の上に雲が薄くかかっている。風は弱い。今日なら、橋でも行ける。数字だけなら、その方がいい。
それでも彼女は港へ向かった。
◇
今治港の待合には、菊の束を抱えた女が二人と、黒い喪服の上に薄いカーディガンを羽織った老人がいた。どちらも、遠くから来たわけではない顔をしている。荷物の持ち方に、その土地の人間の時間が出る。紬は東京にいたころ、それをノイズだと思っていた。いまはまだ、ノイズと呼び切れない。
船は定刻だった。
紬は黒いケースを膝の上に水平に置いたまま座る。窓の外では海が白くほどけ、遠くに橋の塔が見えた。あの橋の向こうに入れば、もっと早い。もっと簡単だ。なのに、そう考えた瞬間に胸の内側がわずかに硬くなる。
理由を考える前に、紬は視線を逸らした。
船内に、菊の匂いと海水の乾いた匂いが混じる。向かいの席の老人が、紬のケースを見て訊いた。
「書類かい」
「写真です」
「ああ、法事のか」
島では答えの方が先にあるらしい。
「今日はあちこちでお経やっとるよ。春の終わりは、まとめて寄るけんね」
老人はそう言って窓の外を見た。特別なことを言ったつもりはないのだろう。法事も船も、島では同じくらい生活の側にある。
宗方港へ着くと、空気が少しだけ変わった。今治側より甘い匂いがする。柑橘の倉庫が近いのかもしれない。港前の道には軽トラックが二台、菓子箱のような段ボールを積んで停まっていた。
自転車を押して港前の道へ出た紬に、売店の前にいた女が声をかけた。
「どこまで行くん」
「常楽寺です」
「ああ、法事の。じゃったら、下の相馬補修の角から左へ上がったら早いよ。青いひさしの店、すぐ分かるけん」
相馬。
その一言で、紬の足が止まった。
紬は売店の脇に立てかけられた古い観光地図を見た。
最短は、青いひさしの角を折れる道だった。
港から上がり、細い坂をそのまま寺へ抜ける。
「裏から行きます」
売店の女がきょとんとした。
「裏? 裏の石段の方? そっちは遠いよ」
「道幅があるので」
自分でも、理由になっていないと思った。
けれど紬は、その道へは曲がれなかった。
女はなおも何か言いかけたが、紬は一礼して自転車を押し出した。背中に視線が刺さる。分かりやすい近道を捨てる人間は、たぶん島では少ない。
裏道は、実際に遠かった。
港からいったん南へ回り、農道の脇を抜け、寺の裏手の石段に出る。車一台がようやく通る幅で、ところどころ道の端に草が張り出している。最短の道なら五分で着くところを、こちらは倍近くかかる。
紬は時計を見ないようにした。
見れば、数字が正しい方向を指すからだ。
坂の途中で、屋根の切れ間から海が見えた。その向こうに、さっき避けた方角の町並みが少しだけ見える。青いひさしの店があるのも、たぶんあちらだ。
胸の内側がまた硬くなる。
紬は呼吸を整えて、自転車を降りた。石段の手前からは乗れない。ケースを片手に持ち替え、もう片方でハンドルを引く。写真を水平に保つために歩幅が小さくなる。軽いはずのケースが、腕の角度だけをじわじわ奪っていく。
寺の鐘が鳴った。
低い一打が、坂の途中の空気を押し下げる。
時刻を見なくても分かる。十三時半が近い。
◇
常楽寺の客殿には、すでに人が集まっていた。
玄関には黒い靴が並び、廊下には供花の匂いが満ちている。線香ではなく、まだ生きている菊の匂いだ。寺の手伝いらしい女が紬を見るなり「あ、写真の方」と言って奥へ通した。
客殿の奥、祭壇の手前で、電話の声の主が振り返る。
「岡部です。ありがとうございます」
四十代半ばほどの女だった。黒の喪服にエプロンだけ白い。法事の席で動く人間の格好をしている。後ろには、年の離れた兄弟らしい男女が三人、焼香の前の小さな沈黙で立っていた。
紬は畳へ膝をつかず、ケースを座卓の上へ置いた。
「写真、こちらです。大きい方は端だけ持ってください。表は触らないようにと、写真修復室から」
岡部が息を詰めたように頷く。
ケースが開く。黒台紙から女の顔が現れる。さっき野村の店で見たときより、ここではまるで別のものに見えた。写真そのものは同じなのに、置かれる場所が変わるだけで意味が変わる。祭壇の白、菊の黄、位牌の黒、その前で笑っている、生活の中の顔。亡くなった人の写真というより、これから席に着く人の顔だった。
岡部の隣にいた男が、思わず声を漏らす。
「こんな顔やったなあ」
それは思い出したというより、思い出し直した声だった。
高校生くらいの娘が、母親の肩越しに写真を覗き込む。
「おばあちゃん、こんな顔やったん?」
「そうよ。まだ家におったころのね」
岡部は笑いかけて、少しだけ声を詰まらせた。
焼き増しの封筒も渡すと、別の姉らしい女が中を確認した。六枚の小さな写真が、薄紙の間に整っている。
「これなら、兄ちゃんにも持たせられる」
「大阪に帰る前に渡したかったんよ」
誰かがそう言う。別の誰かが「松山の分も」と返す。法事の席は静かだが、静かなだけではない。散っていくための話が、すでにその中に混じっている。
紬は受領票を差し出した。
「サインをお願いします」
岡部が名前を書きながら言う。
「こういうの、宅配じゃ間に合わんので。本当に助かりました」
「今日でなければ意味がない荷でしたから」
口にしてから、その文句が前より少しだけ他人事でなくなっているのに気づく。
寺の手伝いの女が、玄関の方を気にしながら言った。
「下の道、混んでなかった? 今日、相馬さんとこの前にも供花が何本か来とったけん」
紬は顔を上げなかった。
「裏から来ました」
「え、裏から?」
女が驚いたように笑う。
「石段の方? あっち遠かったろ。下の補修屋の角から上がったらすぐなのに」
岡部も、そこで初めて顔を上げた。
「ほんとだ。相馬さんとこの青いひさしを曲がれば近かったのに。今日は店、開いとるはずですよ」
紬は受領票を受け取って、ペン先の乾きを見ているふりをした。
「道を間違えました」
それだけ言うと、誰もそれ以上は追わなかった。法事の席で、配送員の道選びを詮索する理由はない。
けれど自分の中では、その一言がひどく空疎だった。
間違えたのではない。避けたのだ。
誰に言われるまでもなく、紬自身がそれを知っていた。
◇
寺を出ると、午後の光が少しだけ白くなっていた。
帰りは荷がない。
ケースも空で、港へ戻るなら青いひさしの角を抜ける方が早い。
紬は石段の方へ向きを変えた。
迷ったのではない。身体が先に決めていた。
港へ戻る途中、売店の女がまた紬を見つけた。
「届けられた?」
「はい」
「よかった。帰りは下の道からでもよかったのに」
紬は曖昧に笑っただけで、船着場へ向かった。
船の待合で黒いケースを膝に乗せる。今は空だ。なのに、さっきより重く感じる。中身ではなく、選ばなかった道の重さだと分かる。
海の向こうに橋が見えた。
塔と塔のあいだに張られた線は細く、島の人間にとってはただの生活路なのだろう。だが紬には、その一本だけが妙に遠い。大島までの橋も、伯方までの橋も渡れているのに、その先だけ距離の質が変わる。
理由を言葉にしようとすると、うまくいかない。ただ、青いひさしという語だけが、なぜか幼いころの台所のミシンの音といっしょに胸の奥に残っている。東京へ出るとき、紬は今治より先には自分の足を向けなかった。その先の島には、まだ自分が運んだことのない名字が、家ごと置いてきた形で残っているはずだった。
◇
窓口へ戻ると、浜野は帳面を開いたまま、白地図を見ていた。
「間に合ったか」
「十三時二十六分着です」
浜野は頷きもせず、帳面に時刻を書いた。
湊が空のケースを受け取って、中の紙の湿りを確かめる。
「反ってないですね」
「ええ」
紬は受領票の控えを置き、白地図の前へ立った。今治港から宗方港へ、そこから寺の裏手へ回る線を引く。青鉛筆の先は素直に動く。行った道は引ける。引けるのに、橋の方には伸びない。
「宗方からか」
浜野の声が背中に来る。
「はい」
「帰りも」
「はい」
そこで初めて、紬は少しだけ嫌な予感がした。
浜野は湯のみを置いて、地図の大三島の南側を指した。
「行きは写真やけん、まあええ。橋より船の方がええ言う理屈も、なくはない」
紬は黙っていた。
「でも帰りはカラやったろ」
白地図の上、伯方と大三島のあいだの橋筋だけが白い。
「カラなら、橋へ抜けた方が早い」
紬は青鉛筆を持ったまま答えなかった。
浜野は責める口調ではなかった。事実を置いているだけだった。だから余計に、逃げ場がない。
「今日は港やったな」
静かな声だった。
「橋は使わん」
窓口の外で、自転車のベルが一度鳴った。海の匂いが少し遅れて入ってくる。
紬は鉛筆を置いた。
「写真を守るには、その方がよかったです」
「今日はな」
浜野はそれ以上何も言わなかった。
湊も、ケースを拭く手を止めない。誰も追及しない。追及されないことの方が、紬には堪えた。
白地図には、今までの四本の線が増えていた。学校へ行く線。試作品を乾いた机へ運んだ線。午後そのものを動かした線。そして今日、写真を法事の席へ届けた線。
どれも青い。どれも、行った道だ。
ただ一か所だけ、伯方から先の橋筋だけが、紙の白を残している。
海より近いはずの道なのに、そこだけがまだ遠かった。




