第十話 橋の向こうの糸
――受託票 No.010
品名:旧型針板一枚・送り押さえ小ばね・補修用青糸一巻・色見本片
届先:大三島 宗方 相馬補修(青ひさし補修室)
指定時刻:本日九時四十分
今日である理由:閉室前の最終縫製。子ども向け海辺教室用タオルと風待館予備タオルを今夜中に仕上げるため
代替:困難(旧型機種・色番指定)
朝、窓口のガラス戸の向こうで、海はまだ少し白かった。
昨夜のうちに風はかなり落ちていた。橋の通行規制は十八時に解除されたあと、深夜に短い再規制が入り、明け方には完全に解けている。電柱や看板の鳴り方は、もう昨日のそれではない。
白地図の横には、浜野が並べ直した赤いマグネットが残っていた。
今治港北岸便 午前縮小運航
宗方港便 午前便のみ見合わせ
橋上風 午前中まで残る
大三島橋自歩道 午前七時通行再開予定
受託数制限
昨夜の赤が四つ。それに今朝の浜野が一つだけ書き換えた。伯方・大三島橋の項目が、自歩道再開未定から午前七時通行再開予定に変わっている。
窓口のガラス戸には、紬が自分で書いた紙が貼ってあった。
【本日、天候により受託数を制限します】
昨日の欠航で、今日へ押し出された荷がいくつもある。荷だけではない。子ども向け海辺教室は明後日へ、宿の予備の濡れ対応は今夜の追加へ、それぞれ予定を組み替えられていた。それでも全部を受ければ、どこかで落ちる。風の残る日は、最短距離より、落とさない数の方が大事だ。東京で身についた判断は、こういう朝だけはまだ役に立つ。
机の上には、昨夜のまま、久世から渡された提案書が開いていた。
SETOUCHI RIDE LIGHT / プレミアム手荷物転送再設計案
今治から大島へ、一本の細い青線。景色のいい道。見せやすい商品。単価の立つ案件。昨日の公開便は成功した。数字も、運営も、きれいだった。あの一便が何件分に当たるか、紬はもう考えなくても分かる。
その隣に、川北からの短いメモが置かれている。
部品が先。青は、同じ番手を一巻。
昨夜、紬が自分の字で確認票へ書き加えた一行も、まだそのままだった。
明朝 部品便 今治発→大三島宗方 青ひさし補修室
橋筋。
紬は鞄のなかへ、川北で受け取った部品袋と糸の小箱を入れ直した。湊が前日に整えてくれた透明ケースには、針板と小ばね、補修用の青糸一巻、それに見本片が、湊の手の癖通りの順序で並んでいる。
六時五十分。
橋の車道は午前六時に再開していた。けれど、自転車で渡る紬には、自歩道の開放を待つしかない。船便が動かない以上、七時の橋が唯一の線だった。
「お前のお母さんがな」
浜野がぽつりと言った。
紬は手を止めた。浜野は窓の外を見たまま続ける。
「昔、青いひさしのとこを始めるとき、配達のことで一度うちへ相談に来てな」
「……母が」
「お父さんが亡くなった、すぐあとや。あの人、子どもひとり抱えて、よう一人で店を立てたわ」
浜野はそこで一度言葉を切った。
「お前が東京に行くって決めたとき、あの人は何も言わんかった。引き止めもせんかったし、行けとも言わんかった。ただ、店を黙って閉めて、お前を駅まで送って、それで戻ってきた」
紬の手元の確認票が、ほんの少しだけずれた。
「あの人は昔から、肝心なことを言葉にせん人や」
浜野は湯のみへ目を落とした。
「俺がここでお前を雇うたんは、頼まれたわけやない。ただ、お前があの人の娘やと知っとったから、目の届くとこにおってもらえたら、と思っただけや」
窓の外で、海はまだ白かった。
紬の喉の奥で、何かが詰まった。
昔から、嫌だったのだ。
島には自分のことを知っている人が多すぎる。母の店を覚えている人、父が亡くなったときのことを覚えている人、自分が小さいころ寺の境内で泣いていたのを覚えている人。みんな、何も言わずに、ただ覚えている。
東京に出れば、自分は名前と職務だけで判断される。それが楽だった。
けれど今朝、浜野の口から出た言葉は、自分が逃げてきたはずの「目の届くとこ」だった。
その言葉が、いま身体の真ん中に落ちている。
紬は確認票へ視線を戻した。
「ありがとうございます」
言ってから、もう一度言い直した。
「ずっと、です」
浜野はそれ以上何も言わなかった。ただ赤いマグネットの位置を、また少し直した。
◇
七時前。橋の入口に着いたとき、係員が赤旗をたたんでいるところだった。
「自歩道、開きます」
紬は短く礼を言って、自転車を押す手を進めた。
来島海峡大橋を渡り、馬島、大島、伯方島と連なる橋を一つずつ越えていく。風は午前のうちに残ると赤いマグネットには書いてあったが、橋の上の風はもう昨日の暴風ではなかった。海面は鈍い銀色をしていて、白い飛沫の幅は確かに狭くなっている。
大三島橋に差し掛かると、紬はペダルを少しだけ緩めた。
ここから先は、まだ自分の白地図に引かれていない一本だ。
橋の中ほどで、欄干寄りに自転車を停める。風はまだ少し冷たい。前なら衣装ケースを支えていた脚で、今日は小さな鞄だけを押さえた。
大三島側の山が見える。山裾に小さな集落が散らばり、その奥に宗方の入江が浅く湾を作っている。
線を引くのは、渡ったあとだ。
紬はそう自分に言って、ペダルを踏み込み直した。
◇
宗方の青いひさし。
引き戸は半分開いていて、内側からミシンの音がしている。奥にはミシンが二台あった。動いているのは一台だけで、もう一台には白い布が掛けられている。足元には、川北返却、と太い字で書かれた段ボール箱が置かれていた。壁の納品札はほとんど外され、釘の跡だけが青い壁に残っている。
「潮継ぎ当日便です」
紬が声をかけると、ミシンの音が止まった。
奥から出てきたのは、紬の母だった。前掛けの胸に糸くずが少し付いていて、左手の指に短いガーゼが巻かれている。
「来たんか」
声はそれだけだった。
紬は透明ケースを差し出した。
「川北さんから、針板と小ばね、それと青糸が一巻。色見本の切れ端も同じケースに入っています」
母は針板を確かめ、小ばねを指の腹で軽く押した。
「合っとる」
それから、青糸を見た。
「これで最後まで縫える」
「最後、ですか」
母は奥のミシンを見た。白い布を掛けられた一台は、もう店の道具というより、運び出される荷物に見えた。
「明日の朝、川北さんが引き取りに来る。青いひさしも、今月で外す」
紬は返事を探した。けれど、出てこなかった。
母は透明ケースの中の青糸を、もう一度見た。
「子どもの分も、宿の分も、最後は同じ青で縫うんよ」
その言い方が、昔からの母そのものだった。大きなことを言うのではなく、目の前の布と糸の話にしてしまう。
「店を継がんかったこと」
紬は、自分でも思っていなかった声で言った。
「怒ってましたか」
母は少しだけ眉を寄せた。
「怒る暇なんかなかった。縫わんと、食べていけんかったけん」
それから、針板をケースへ戻した。
「でも、あんたを店に残すために縫っとったんやない」
紬は、胸の奥に落ちたものを、すぐには言葉にできなかった。
許された、と言い切るにはまだ早かった。けれど、許されるまで動けないと思っていた荷は、そこに少しだけ置いていける気がした。
「今日、私が運べてよかったです」
母はケースの蓋を閉じながら言った。
「仕事やろ」
責めるでも、許すでもない。その言い方で、紬はようやく息をした。
母は引き出しから、角の欠けたゴム印を出した。
相馬補修。
朱肉の赤は薄く、押した文字の端が少し欠けた。母はその下へ、小さく幸子と書いた。欠けた印影が乾くまでの数秒、相馬補修という名前だけが、紙の上でまだ店を開けていた。
九時三十一分 受領完了 相馬補修 幸子
紬は控えに同じ時刻を書き込んだ。数字は、自分でも驚くほどまっすぐだった。震えていなかった。
奥で、ミシンがもう一度回り始めた。
最後まで縫える、と母が言った仕事が、いま本当に最後へ向かっている。
紬はその音を背中で聞きながら、青いひさしの下を出た。
◇
窓口へ戻ったのは、十一時半を少し過ぎてからだった。
浜野が白地図の前に立っていた。紬が入ると、浜野は短く言う。
「線、引け」
紬は青鉛筆を取り、白地図の前へ立った。
伯方から大三島橋を渡り、宗方へ降りる、ほんの短い線。昨夜は引けなかった一本だ。
紬は鉛筆の先を地図に置き、ゆっくりとなぞった。
線は、思っていたより短かった。けれど、それだけのことを紬はずっとできずにいた。
「引けました」
浜野は地図を見て、それから一度だけ頷いた。
その瞬間、机の上で電話が鳴った。
紬が受話器を上げる。
「潮継ぎ当日便です」
久世だった。
「おはようございます。本日午後、今治側で簡単にお時間いただけますか」
紬は時計を見た。十一時四十二分。
「午後二時で構いません。窓口でお待ちしています」
通話を切ると、湊が整備台から顔を上げていた。
「久世さんですか」
「うん」
湊は透明ケースの留め金を磨きながら言った。
「うちの実家、タオル作っとったんです」
紬は顔を上げた。
「最後の荷が、違う先へ届いた。それで終わりました」
湊は手を止めずに続けた。
「物が同じでも、誰に渡したかで違うんです」
紬は、あの時、湊が札に書いた一行を思い出した。
本人確認優先。
あれは専門知識ではなく、湊の身体に残っている記憶だった。
「だから、紛れるのを嫌うのね」
湊は小さく頷いた。
「最後の一回で消える仕事もありますから」
紬は、今朝押された欠けたゴム印を思い出した。最後の一回で消える仕事もあれば、最後の一回を間違えずに終わらせて、ようやく畳める仕事もある。
窓口の中で、しばらく誰も何も言わなかった。
紬の机の上には、久世の提案書と川北のメモが、まだ並んだままだった。
◇
十二時十分。電話が鳴った。
篠原からだった。
「相馬さん、団体便のご相談です」
「件数を」
「明後日の旅行会社下見団体、四組で合計八点。風待館宿泊。風で乱れた予定の振替で入りました。手ぶら移動の価値が立つ機会だと思っています」
紬は確認票へ書き込みながら言った。
「件数が多いですね。配置完了まで含むと」
「含みます。前回の試験便のレベルで」
「内訳は」
「トランク五点、衣装一点、機材一点、それと割れ物一点」
紬はしばらく黙った。
頭の中で線を引く。今治から大島へ、橋筋と港筋の二本。前回の試験便で組んだ手順がそのまま使える。日程も悪くない。
ただ、明後日は別の便もある。
「明後日、子ども向け海辺教室の本番です」
紬は言った。
「宮浦の海辺交流館。タオル配布。原田さんからの便です」
篠原が一拍置いた。
「同じ日でしたか」
「はい」
「では、当日は」
紬はそこで、答えを保留した。
受話器を置いて、白地図の前へ立つ。
明後日の二本の線。風待館の団体便と、宮浦海辺教室のタオル便。観光の荷と、暮らしの荷。
同じ構図だ。
違うのは、いまの紬の中に、もう一つの線があることだった。
◇
午後二時、久世と篠原が窓口に来た。
久世は昨夜と同じ白い封筒を抱えている。今日はもう一冊、薄い見積書も追加されていた。
「正式な提案書です」
久世は座って、紙を広げた。
「お見せした再設計案を、もう少し具体的に詰めました。週末便を中心に、平日は限定枠。生活便は時間帯で残す」
紬は紙を見ながら、しばらく黙った。
数字はやはりきれいだった。週末の高単価便で固定収入を取り、平日と早朝は今までの生活便で繋ぐ。理屈としては正しい。
ただ、その表のどこにも「青ひさし補修室へ部品を運ぶために橋筋を渡る」と書ける欄はなかった。
「久世さん、一つ確認させてください」
紬は言った。
「明後日、団体便のご依頼をいただきました」
「篠原から聞いています」
「同じ日に、子ども向け海辺教室の本番が入っています。タオル配布。宮浦の交流館へ向かう便です」
「ええ」
「両方、お受けしたいです」
そう言ったとき、紬は今朝の青糸を思い出していた。子どもの分も、宿の分も、最後は同じ青で縫う。母はそう言った。帳票では別の案件でも、現場では同じ手から出てくるものがある。
久世は紙から顔を上げた。
篠原もすぐ隣で、わずかに目を見開く。
「両方、ですか」
「はい」
紬は白地図の前へ立った。
今治から大島への線が、もう何度もなぞられて濃くなっている。その同じ橋を、明後日も渡る。
「団体便はA枠で組みます。風待館側の配置完了まで、前回の試験便と同じ手順で。これは久世さんの提案する商品の側に近い」
「はい」
「海辺教室のタオルはB枠で組みます。原田さんが受け取り、宮浦の交流館で配布まで。これは生活便の側です」
「同じ日に、それを両方」
「橋を一日二度渡ります。トランクの便は午前。タオルの便は午後の早い時間。橋上風の窓を二回使います」
紬は鉛筆を置いて、二人を見た。
「無理に両立する案ではありません。ただ、どちらもその日でなければ意味がない便です。観光の便と暮らしの便を、同じ橋筋で別々の時間に運ぶ。やってみないと、商品としての強度は分からない」
久世はしばらく紙を見ていた。
「商品としての強度、ですか」
「風の日でも成立する観光便を組めるなら、生活便と並走する観光便も組めるはずです。並走できないなら、それは風の日に強い商品でもない」
久世は薄く笑った。
「面白い考えですね」
「久世さんが昨日おっしゃった通りです。晴れの日だけ回る商品では意味がない。だったら生活便の動く日にも回る商品が、本当の商品だと思います」
篠原が、そこで初めて口を挟んだ。
「明後日、私も橋筋に立ちます。宿の側からも応援を出します」
「お願いします」
久世は提案書をゆっくり閉じた。
「再設計案は、一度こちらで持ち帰ります。明後日の結果を見てから、もう一度ご相談させてください」
それは昨夜の「明日の朝の判断で結構です」より、ずっと長い保留だった。だが紬は頷いた。
「お待ちしています」
二人が出ていったあと、湊が小さく息を吐いた。
「やりますね」
「うん」
「両方落とすかもしれませんよ」
「分かってる」
紬はそれだけ言って、白地図の前へ戻った。
明後日の二本の線。橋筋で交差する観光と暮らし。
その同じ橋を、紬はもう何度も渡っている。
◇
夕方、紬は窓口の戸締まりをしながら、白地図の前に立った。
今治から大島まで、何本もの青線が走っている。その先、伯方から大三島橋を渡り、宗方へ降りる短い一本も、今朝引いた。
白地図の上にはまだ、引かれていない線がいくつもある。だが今夜は、それでよかった。
浜野が背中越しに言った。
「明後日、二本いけるか」
「いきます」
紬は振り返った。
「浜野さん、湊くんも橋筋に出てもらいます。私一人では足りません。窓口は誰かに任せたい」
「俺がおる」
浜野はそれだけ言った。
「お前一人の計算やない、と言うたやろ」
「はい」
紬は頷いた。それから、もう一度言った。
「ありがとうございます」
浜野は窓の外を見た。
「明後日、海も少しは落ち着くやろ」
紬も窓の外を見た。
夕方の海は、もう昨日のような白さではなかった。橋の方角はここから見えない。だが見えなくても、あの線がそこにあることを、紬はもう知っている。
白地図の上で二本の線は、まだ引かれないまま、明後日の朝を待っていた。
◇
二日後の夕方、白地図の上に二本の線が増えた。
一本は風待館へ。もう一本は宮浦の海辺交流館へ。
どちらも、予定どおりきれいに進んだわけではなかった。橋上風で一度、湊が荷の積み方を直し、篠原が宿の玄関で配置順を組み替えた。原田は海辺交流館で、濡れた子どもたちへタオルを一枚ずつ広げて渡し、戻ってきた分を畳み直した。
それでも、どちらの荷も落ちなかった。
二本の線には、どちらにも別の手が混じっていた。
紬は青鉛筆の先を置いた。二本の線は地図の上では離れているのに、二日前まで母の店にあった同じ青糸の気配を持っていた。
青いひさしは、今月で外れる。
けれどその青は、白地図の上で、線になって残った。




