幼い頃の記憶
エリオット・アシュフォードは、深くため息をつきたい衝動をこらえながら、椅子の背にゆるくもたれかかっていた。
「エリオット、もう一度言うが、礼儀正しく、紳士的にふるまうのだぞ」
「女の子には優しく、誠実に! 何があっても、粗相のないように!」
「会話の際は、相手の言葉をきちんと受け止めなさい。落ち着いて、慌てず、相手の話を大切にすること」
「そして何より——笑顔だ! どんなときでも柔らかな笑みを忘れずに」
ここまででも十分耳にたこができるほどなのに、父も母もまだ続ける。
「ご令嬢が困っている様子を見せたら、すぐに気づいて手を差し伸べなさい」
「言葉遣いには細心の注意を払って。雑な言葉遣いは決してしないこと」
「話題が尽きたら、天気や庭園の話でもすればよい。決して沈黙が続かぬように」
「……わかっていますよ、お父様、お母様」
エリオットは軽く肩をすくめながら、適当に相槌を打った。
「わかっている、ではない。そういう油断が命取りになるのだ」
父の厳しい声に、母が微笑みながら付け加える。
「でもまあ、ルシア様は評判の良いお嬢様ですし、あなたならきっとうまくやれますわ」
評判の良いお嬢様。
それはエリオットも知っていた。
だが、公爵家の姫君が、侯爵家に嫁ぐのだ。
少しでも不満を持たれていたら、それを態度に出されることくらいは覚悟していた。
どうせ、気位が高く、優雅に微笑みながらも距離を取られるのだろう。
大丈夫だ、そういう相手なら、手のひらで上手く転がしてやればいい。
しかし、彼はまだ知らなかった。
ルシア・ウェストウッドという少女が、そんな思惑を一瞬で消し去るほどの存在であることを。
扉が静かに開かれ、ゆったりとした動作で、少女が部屋へと入る。
彼女が一歩足を踏み入れた瞬間、客間の空気がふんわりと和らいだ。
まるで春風がそっと吹き抜けたかのように。
淡い色のドレスの裾がふわりと揺れ、光を受けた髪が柔らかく輝く。
その姿はまるで、小さな妖精のようだった。
エリオットの視線が、思わず吸い寄せられる。
次の瞬間——世界が色づいた。
これまで何をしても、つまらなかった。
どんなことでもそつなくこなせた。
期待に応えれば周囲は称賛し、すべてが順調に進む。
けれど、それがどうした?
何もかもが色あせて見えていた。
どれほど華やかな場にいても、どんな美しいものを目にしても、心は動かなかった。
それなのに、彼女を見た瞬間、すべてが変わった。
想像していたよりも、ずっと可愛らしかった。
いや、可愛いというだけでは言い足りない。
淡い陽射しを受けた横顔、やわらかく揺れる髪、品のある佇まい。
そして、ゆっくりと浮かべられた微笑み。
心臓が、一気に跳ね上がった。
なんだ、この感覚は——?
「アシュフォード侯爵家の皆さま、初めまして。ウェストウッド公爵家の末娘、ルシアと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
透き通るような声が、客間に静かに響く。
その音は、ただの言葉ではなく、心に沁み込むように響いた。
彼女の言葉には、作り物めいた響きがない。
完璧に整った礼儀作法。
だが、それだけではない。
一つ一つの言葉を、大切に紡いでいるのが伝わってくる。
エリオットは、息をするのを忘れていた。
——こんなに、愛らしい人がいるのか。
「ルシア、エリオット君に相手をしてもらいなさい。我々は少し、大人の話をしよう」
公爵が微笑ましげに言うと、ルシアは静かに頷いた。
「はい、お父様」
そして、エリオットへと向き直る。
「エリオット様、お願いできますか?」
名を呼ばれた瞬間、胸が大きく跳ねるのを感じた。
たった一言だけで、こんなにも心が揺れるものなのか。
「……ええ、喜んでお供させていただきます」
この愛らしい少女に動揺が悟られぬよう、精一杯平静を装った。
優雅で、穏やかで、まるで春の陽だまりのような微笑み。
色あせて見えていた世界が、今、鮮やかな色を帯び始めていく。
彼女だけが、特別だった。
同世代の子供たちは皆、夢見がちで、わがままで、幼い。
貴族の子としての立場に甘え、周囲の大人にちやほやされながら、自分が特別な存在であるかのように振る舞う。
少し褒められただけで得意になり、少し注意されただけで機嫌を損ねる。
そんなものだと、そういうものなのだと、半ば諦めていた。
——それがどうだ。
彼女の振る舞いは完璧だった。
淀みない言葉遣いも、流れるような所作も、幼さを微塵も感じさせないほど洗練されている。
あまりにも見事で、思わず自分の所作が不安になるほどの仕上がり。
初めて——話をしてみたいと思った令嬢だった。
この少女こそが、特別なのだと。
その瞬間、エリオットは悟った。
この先、彼女に尽くし、慈しむ人生になることを。
庭園の石畳を並んで歩く。
すぐ隣に、小さな足音が重なっていた。
エリオットはこれまで"特別"と思えるものに出会ったことがなかった。
でも、彼女は違った。
初めて目にした瞬間から、言葉を交わすたびに、何かが胸の奥で引っかかる。
気になって、もっと知りたくなって、目を離せなくなる。
ルシア。
彼女がどんな人間なのか、どういうことを考えているのか、なぜこんなにも惹かれるのか——それが、知りたくてたまらない。
彼女の一つ一つの仕草を、無意識のうちに追ってしまう。
ルシアはふいに足を止め、前を向いたままぽつりと呟いた。
「とても綺麗ですわ……」
その声が、風に溶けていく。
庭園の花々を見つめる彼女の瞳は、驚くほど澄んでいて、まっすぐだった。
まるでそこに映るすべてを愛おしむような、優しい色をしていた。
だけど、その瞳に僕は映っていない。
僕を見てほしい。
僕のことだけを考えてほしい。
初めて会ったばかりなのに、そんな気持ちが胸の奥を締め付ける。
ふいに、風が強く吹いた。
花弁が舞い上がり、ルシアのドレスの裾がふわりと揺れる。
そして——彼女の小さな身体が、ふらりと傾いだ。
「——おっと!」
咄嗟に腕を伸ばし、彼女を支える。
華奢な身体が、すっぽりと腕の中に収まった。
あまりにも軽くて、あまりにも柔らかくて、息を呑む。
「……!」
ルシアは驚いたように目を瞬かせる。
すぐに体勢を整え、そっと距離を取ると、頬を薄紅に染めながら視線を伏せた。
その仕草に、心臓がひどく跳ねる。
「すみません……つい、足元が……」
ほんの少しの戸惑いと、申し訳なさが滲む声。
その微かな恥じらいが、どうしようもなく胸をざわつかせる。
もっと、この距離を保ちたかった。
もう少し、彼女の体温を感じていたかった。
「いや、大丈夫? 怪我はない?」
「ええ、問題ありませんわ。ですが、みっともなくよろけてしまい……お恥ずかしいですわ」
「何を言ってるのさ。転ばなくてよかったよ」
微笑みながら言ったが、ふと自分の言葉に気づいた。
「……と、すみません。とっさのことで、口調が崩れてしまいました」
「いえ……そちらのほうが、お話ししやすくて、私は嬉しいですわ」
彼女はふわりと微笑む。
その笑顔が、まるで触れたら壊れてしまいそうなほど儚く見えて、無性に焦る。
「……そう? それじゃあ、楽に話させてもらっていいかな?」
「ええ、ぜひ!」
ぱっと明るくなる彼女の笑顔に、思わず息をのむ。
それまでの優雅で淑女らしい微笑みとは違った。
年相応の、あどけなさが残る無邪気な笑顔。
まるで春の日差しをたっぷり浴びた花が、一瞬で咲き誇るように。
もっと知りたい。
こんな表情を見せる子だったんだ。
もしも、この笑顔が僕だけに向けられたものなら——
そんなことを思ってしまう。
「ルシア様は、いつもそのしゃべり方なのかい?」
「そうですわね……使用人にも家族にも、いつもこの話し方をしていますわ」
「そうか、それなら無理に変えてとは言えないな。でも、気を楽に話せたら嬉しいな」
「ふふ、ありがとうございます、エリオット様」
自然と目を合わせ、にこやかに笑い合う。
こんなにも暖かく穏やかな気持ちで誰かと話したのは、初めてかもしれない。
そんなことを思っていたとき、ふと、ルシアの髪にひらりと舞い落ちた花弁が目に入った。
「……ちょっと失礼するよ?」
「え?」
ルシアがきょとんとする間に、そっと彼女の髪に触れ、花弁を摘み取る。
ほんの小さなことなのに、それを取り除くという行為を口実に、彼女に触れられることが嬉しくて仕方がなかった。
指先が彼女の髪をかすめる。
それだけのことなのに、全身がざわつく。
思わず息を呑んでしまうほど、彼女はやわらかくて、温かい。
「……花弁、ついてたよ」
小さく囁くと、ルシアの頬がふわりと紅く染まる。
僕を意識している?
一瞬、そんな期待がよぎる。
大きな瞳が、自分を映して揺れる。
唇がわずかに開かれ、何かを言おうとして、でも言葉にならなくて——。
この反応が、たまらなく愛おしい。
今度こそ、僕だけを見て。
心の奥で必死に願う。
「……ルシア様って、本当にかわいいね」
心の中に浮かんだ言葉が、そのまま零れていた。
言葉にするつもりなんてなかったのに、もう、どうにも抑えられなかった。
「あ……」
ルシアは小さく息を呑む。
戸惑うように瞬きをし、そっと彼を見上げた。
「エリオット様……」
静かに名を呼ばれる。
その声音が、驚くほど甘く心を揺さぶる。
「ねえ、ルシア様」
ルシアがゆっくりと顔を上げる。
「今日は、僕たちの婚約を決める日だって知っているよね?」
「ええ」
静かに、けれど確かに頷く。
彼女の目の中に、僕が映っている。
そのことが、たまらなく嬉しい。
「僕、君のことが好きになっちゃった」
ルシアの瞳が、大きく揺れた。
「え、あの……」
「きっと問題なくまとまるんだろうけど、政略とだけ思われるのは嫌だからさ。僕から伝えさせて」
そう言いながら、そっと彼女の手を取る。
驚いたように小さく肩を揺らすルシア。
その反応すら、愛おしい。
手の甲へと唇を寄せながら、優雅に膝を折る。
貴族の格式を守りながらも、それを超えた"誓い"として。
「ルシア様、僕の婚約者になってくださいませんか?」
その言葉に、ルシアの頬がさらに赤くなる。
しばしの沈黙。
静かに、けれど確かに微笑む。
「エリオット様……ふふ、ええ、喜んで」
ふわりと綻ぶ笑顔。
指先に、少しだけ力が込められる。
その小さな仕草が、胸をぎゅっと締めつけた。
——もう、決めた。
この子を、一生守る。
何を犠牲にしても、手に入れる。
「ありがとう、ルシア様」
二人は、そっと手をつないで歩き出す。
柔らかな風が吹き抜けた。
ルシアの指先が、ほんの少しだけ僕の手をきゅっと握る。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「そうですわ、エリオット様」
「ん?」
「私のことは、ぜひルシアと呼んでいただけませんか?」
「いいのかい?」
「ええ、ぜひに」
ルシアは穏やかに微笑む。
こんなに可愛らしく微笑まれたら、断る理由なんてない。
「ふふ、ありがとう……ルシア」
彼女の名前を、初めて優しく呼ぶ。
「これから、よろしくね」
ルシアは、嬉しそうに微笑んだ。
手を重ねたまま、二人はゆっくりと歩き出す。
屋敷へ戻る道のりは、これまでよりもずっと短く感じた。
先ほどまでの庭園の余韻が、まだ残っている。
手のひらに伝わる彼女の温もりを確かめるたび、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
ふと横を見ると、ルシアは少し恥ずかしそうに俯きながらも、つないだ手をそっと握り返してくれた。
——可愛い。
ただそれだけで、心を奪われる。
僕はもう、彼女なしでは生きられないだろう。
だから、ずっとそばにいて。
誰にも渡さない。
僕のものになってね、ルシア。
広間へ入ると、すぐに大人たちの視線が二人に向けられた。
手をつなぎ、寄り添うように歩く僕たちの姿を見て、公爵たちはどこか満ち足りたような微笑みを浮かべる。
「まあまあ、なんだかとても仲が良さそうですね」
侯爵夫人が穏やかに笑うと、公爵夫人も優しく頷いた。
「ええ、本当に。庭園でのひとときは楽しめたかしら?」
母からの穏やかな問いかけに、ルシアはふわりと瞬きをし、嬉しそうに微笑んだ。
「はい、とても」
その声音には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
澄んだ声がわずかに弾み、頬には淡い紅が灯る。
彼女の柔らかな微笑みが、まるで陽だまりのように温かくて。
「それはよかった」
公爵夫人が満足そうに頷く。
けれど僕は、ルシアの横顔から目を離せなかった。
どこか熱を帯びた頬。ふと伏せられた長いまつげ。
その小さな仕草のすべてが、僕の胸の奥をくすぐる。
公爵も穏やかに頷きながら、僕たちを優しい目で見つめる。
「それはよかった。さて、どうかな? 二人はこの先、うまくやっていけそうか?」
僕はルシアを見つめた。
彼女も静かに視線を向けてくる。
柔らかな光を湛えた瞳が、そっと僕を映し、ふわりと微笑んだ。
その瞬間、胸の奥が強く跳ねる。
彼女の微笑みは、ただの作法ではない。
どんな美辞麗句よりも、どんな誓いの言葉よりも、ただその笑顔だけで、僕はすべてを信じることができた。
迷いは、どこにもない。
「ええ。彼女となら……きっと、幸せな未来を築いていけます」
そうはっきりと言葉にしながら、僕は彼女の手を握る力をそっと強めた。
ルシアは、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに頬を染める。
まつげを伏せ、そっと視線を落とした指先が、ほんの少しだけ僕の手を握り返す。
そのささやかな仕草に、心の奥がじんわりと熱を持った。
「あらあら」
公爵夫人が微笑ましげに頷く。
「エリオット君ったら、もうすっかり夢中なのね」
「お、お母様……っ!」
ルシアは、ぎゅっと手を握りながら肩をすくめ、恥ずかしさに耐えきれないように顔を伏せる。
紅潮した頬の熱を持て余すように、小さく息をつく彼女の姿が、あまりにも愛おしくて仕方がなかった。
その様子に、公爵も満足げに頷く。
「うん、いい表情だ。ルシアも、彼に惹かれているようだな」
「お父様まで……!」
戸惑いを隠すように、そっと目を伏せたルシアだったが、頬の赤みは引くことなく、僅かに伏せた瞳の奥には、隠しきれない喜びがにじんでいた。
一方、侯爵は少し驚いたような顔で、僕をじっと見つめる。
「エリオット、お前がここまでなにかに興味を惹かれるなんて初めてではないか?」
「ええ。間違いありません」
ルシアから目を逸らさず、はっきりと答える。
彼女の存在は、もう僕の世界の中心にあった。
「この子は、僕にとってかけがえのない存在になります」
小さく交わした会話だったが、近くにいたせいで耳に入ったのか、その言葉にルシアがふるりと肩を震わせる。
長い睫毛が揺れ、そっと見上げた瞳に、僕の姿が映る。
「エリオット様……」
掠れるような、小さな声。
戸惑いと、喜びと、恥じらいが入り混じるその表情が、あまりにも愛おしい。
「あなたを、誰よりも大切にします」
ゆっくりと、彼女の手を持ち上げ、優雅に口づけを落とした。
指先が、微かに震える。
彼女の温もりが、甘く心を溶かすようだった。
「……っ!」
ルシアは驚いたように僕を見つめたまま、さらに頬を赤く染める。
その姿があまりにも可愛らしく、胸が締め付けられる。
「ルシア」
そっと彼女の名を呼ぶ。
ルシアは、少しだけ戸惑いながらも、ゆっくりと微笑んだ。
「……私も、エリオット様を大切にいたしますわ」
侯爵夫人が、そっと微笑む。
「ふふ、いいご縁になりそうね」
「うむ、まったく」
公爵も、満足げに深く頷いた。
そして、侯爵もまた、静かに息をつきながら言葉を紡ぐ。
「エリオット、しっかりとルシア様をお守りするのだぞ」
「ええ。誓います」
真っ直ぐにルシアを見つめながら、静かに答えた。
彼女の瞳の奥に、僕が映っている。
もう迷いはない。
彼女を、必ず幸せにする。
——誰にも渡さない。
石畳を踏みしめる馬の蹄が、規則正しく響いていた。
馬車はゆっくりと揺れながら、目的地へと進んでいる。
今日は貴族の子息が集う乗馬会に招かれ、ルシアとともに向かっていた。
乗馬会は、貴族の子供たちが馬に慣れ、礼儀作法を学ぶための場のひとつで、年の近い者同士が親しくなる機会でもある。
だが、そんなことはどうでもよかった。
対面に座る彼女の姿を、僕は静かに見つめていた。
正式に婚約が結ばれたのち、こうして彼女と顔を合わせるのは数えるほどしかない。
それでも、彼女はまるで小さな宝石のように、ひとつひとつの仕草まで目を奪われるほど愛らしかった。
陽の光を受け、窓際でふわりと揺れる髪。
細くしなやかな指は、重ねられた白い手の上にそっと置かれ、まるで儚い宝物を守るような仕草をしていた。
この手も、彼女の表情も、言葉も、全部僕だけのものになればいいのに。
「ルシア、乗馬って好き?」
隣に座るエリオットが、気楽そうに微笑んだ。
「ええ、とても楽しみにしていましたの」
ルシアはふわりと微笑む。
優雅で、穏やかな声音。
まるで雪解けのように、柔らかく耳に届く。
その一言を聞いた瞬間、エリオットの表情がわずかに変わった。
「そっか。でも……危ないしなあ」
軽い口調ながら、言葉の奥にある意図を読み取るのは難しくなかった。
ルシアが小さく瞬きをする。
「ルシアはまだ小さいし、もし落馬したら大変だよ?」
「まあ……」
たった一言。
それなのに、その声があまりにも可愛らしくて、胸の奥がじんわりと熱を持つ。
小さな唇が動くたび、どうしようもなく惹きつけられる。
もっと話してほしい。もっと僕だけに笑ってほしい。
ほかの誰にも、このかわいい声を聞かせたくない。
彼女と話をすることも、触れることも許したくない。
「テラスから見守っているのはどう?馬場はテラスから一望できるんだってさ。ルシアが見ててくれたら、僕もかっこいいところを見せられるかもしれないし」
エリオットが冗談めかして笑うと、ルシアはそっと微笑んだ。
「エリオットがそうお望みでしたら」
迷いなく応じるその声は、最初から彼の言葉に従うことを決めていたかのようだった。
エリオットの表情が満足げに和らぐ。
「よかった。じゃあ、僕頑張るからね」
「ええ、応援しておりますわ」
ルシア小さな唇が静かに弧を描く。
エリオットはその姿を一瞬だけ見つめ、それから窓の外へ視線を向けた。
小さな手も、優しく響く声も、柔らかくほころぶ笑顔も——僕だけのものならいいのに。
誰にも見せたくない。
誰にも話しかけさせたくない。誰にも触れさせたくない。
この手を握るのは、僕だけでいい。
この声を聞くのも、僕だけでいい。
ルシアの目が映すのは、僕だけでなければならない。
彼女は僕の婚約者。僕のもの。
それなのに、エリオットと向き合いながら微笑むルシアは、あまりにも自然で、まるでずっと彼の隣にいるのが当然だったように見えた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
僕はまだ幼く、何の権力もない。
彼女を囲い込むには、時間が必要だった。
だからこそ、今は静かに、ただ彼女を見つめるだけでいい。
ルシアは、僕のものになるのだから。
屋敷に到着すると、すぐに子供たちが集まってきた。
「ルシア様、ご機嫌いかが?」
「本日もとてもお綺麗ですね」
「お会いできて光栄です!」
次々にかけられる言葉は、まるで貴婦人へ向けるような丁寧なものばかりだった。
声をかける子供たちは皆、どこか誇らしげで、自分が彼女と話せることに優越感を抱いているようにも見える。
それも当然だった。
ルシア・ウェストウッド——この場にいる誰よりも高位の貴族の娘。
僕らの世代では最も格の高い家柄に生まれ、その振る舞いは優雅で、どんなときも穏やかで品がある。
それでいて冷たさは微塵もなく、話しかければ誰にでも柔らかな微笑みを向けてくれる。
けれど、ただ親しみやすいだけではない。
姿勢のひとつ、仕草のひとつに至るまで洗練され、同年代とは思えないほどの気品を備えている。
その存在が特別なのは、誰の目にも明らかだった。
——だからこそ、彼女の周囲には、いつも人が集まる。
そんな中、一人の少年が意を決したようにルシアの前へ進み出た。
「ル、ルシア様……!」
名門伯爵家の令息で、僕らより少し年上だろうか。
彼は顔を真っ赤に染め、手をぎゅっと握りしめながら、小さく震える声で続ける。
「よ、よろしければ……僕と一緒に、馬場を回っていただけませんか?」
途端に、周囲の子供たちが息をのんだ。
精一杯の勇気を振り絞ったのだろう。
声がわずかに裏返り、こわばった笑みが浮かぶ。
ルシアは驚いたように瞬きをし、それから柔らかく微笑んだ。
「まあ……」
穏やかで、けれどどこか戸惑いを含んだ声音だった。
——何を言っているんだ、こいつは。
僕が隣にいるのに、平然と誘おうとするなんて。
喉の奥に、じわりと熱が広がる。
馬鹿げている。
彼女は僕の婚約者だ。
それなのに、まるで競争相手のように振る舞うことが許されるとでも?
ルシアが誰かと話すこと自体、嫌だった。
誰かが彼女の声を聞き、微笑みを向けられることが、ひどく不快だった。
少しでも長く一緒にいたいと願う気持ちも、彼女に手を伸ばす勇気も、全部疎ましい。
僕は、ごく自然にルシアを隠すように一歩前に出る。
そして、にこやかに口を開いた。
「すみません。ルシアは今日、僕を応援してくれる予定で乗馬はしないんですよ」
明るく、軽やかに、けれど誰にも反論させない口調で。
少年は、はっと息を呑み、視線を落とす。
「そ、そうですか……それは残念です。では、また次の機会に……」
少年たちは、名残惜しそうにしながらも、一歩下がる。
エリオットは、満足げに微笑んだ。
そして、すぐにルシアへ手を差し出す。
「それじゃあルシア、お屋敷の部屋までエスコートさせてね。上からちゃんと僕のこと、見ててよ?」
ルシアは、ゆるやかに微笑みながら手を取る。
「ええ」
まるで、それが当たり前であるかのように。
周囲の子供たちの視線が、静かにルシアの後ろ姿を見送っていた。
僕は、何も言わずにそのまま歩き出す。
ただ、手を引くその指先に、わずかに力を込めた。
案内された部屋は、馬場を遠くに見渡せる場所だった。
窓辺に歩み寄り、外を見下ろすと、冬の澄んだ空気の下で馬場の中央に集まる子供たちの姿が見える。
ルシアはそっとテラスへ出た。
冷たい風が頬を撫で、柔らかな髪をさらう。
薄手のケープの上からでも、肌を刺すような冬の冷気が伝わり、思わず肩をすくめる。
遠くでは、楽しげな笑い声が響いていた。
賑やかな輪の中、エリオットの姿が見える。
彼は仲間たちと談笑しながら馬にまたがり、何かを話しては微笑んでいた。
ときおり軽やかに笑い声を上げ、その輪の中心にいることが自然であるかのように、誰とでも親しげに言葉を交わしている。
——本当に楽しそう。
ルシアは静かにその様子を見つめた。
彼は、ああして笑っているときが一番幸せなのかもしれない。
婚約者である自分のことなど、ほんの一瞬も考えていないのかもしれない。
「……私も、乗馬がしたかった……」
かすかに零れた言葉が、冷たい風に紛れて消えていく。
けれど、それよりも——
「せっかくなのだから、エリオット様と過ごしたかった」
この乗馬会は、ただの催しではない。
貴族の子息たちが親しくなり、将来の関係を築く場。
そして、彼とともに過ごし、少しずつ絆を深める予定だった。
ほんの数回しか顔を合わせていないのに、彼のことをもっと知りたいと思った。
彼がどんなものを好み、どんな考えを持ち、どんな夢を抱いているのか、少しでも知りたかった。
それなのに、彼は私を遠ざけるように、一緒に過ごすことを選ばなかった。
——私は、いらない婚約者なのかしら。
胸がじくじくと痛む。
初めて顔を合わせたときは、あんなにも優しく微笑んでくれたのに。
私を見つめる瞳は穏やかで、そっと差し伸べられた手のひらは温かかったのに。
あの時の言葉は、あの時の優しさは、ただの礼儀だったのかしら。
彼にとって、私はただ決められた婚約者でしかないの?
彼にとって、私との時間は、わざわざ作るほどのものではないの?
まぶたの奥がじんわりと熱を帯びる。
喉の奥が詰まるように痛んで、視界がぼやける。
——こんな気持ちになるなんて、思わなかった。
ふと、頬を伝うものに気づき、驚いたように指先を添える。
「……あ」
指先が濡れている。
零れ落ちたのは、涙だった。
風が吹く。
冷たく乾いた空気が、静かに頬を撫でた。
今日の催しに、ヴィンセントは半ば無理やり参加させられたが、やはりこんな寒い日に外で乗馬など馬鹿らしい。
冬の冷たい風に晒されながら馬を走らせるより、暖炉のそばで本を読んでいる方が、よほど有意義な時間になるはずだ。
そう思い、馬場ではなく屋敷の中へ案内してもらうことにした。
廊下を進むにつれ、屋敷の中の静けさが心地よく感じられる。
窓の外からは子供たちの笑い声が微かに聞こえたが、ここは別世界のように穏やかだった。
案内役の使用人が広間の大きな扉を開き、ヴィンセントは静かに足を踏み入れる。
暖炉の薪が静かに燃え、部屋の中は柔らかな温もりに包まれていた。
奥の大きな窓からは、馬場を見渡すことができ、その先にはテラスが続いている。
歩を進めると、窓の向こうに人影があるのが目に入った。
屋外の光を受け、淡く浮かび上がるその姿を見た瞬間、ヴィンセントの足がふと止まる。
外の景色を静かに見つめる、繊細な横顔。
ルシアだった。
彼女は、何度かこうして貴族の子供たちの集まりで顔を合わせたことのある少女だった。
華やかに笑いさざめく子供たちの中で、彼女だけはどこか儚げで、いつも浮世離れした雰囲気を纏っていた。
そんなイメージが、彼の記憶の中にあった。
何を話したかなんて、とうに忘れてしまってもおかしくないのに、彼女がアールグレイではなくカモミールを好むことを、ヴィンセントは今でも覚えている。
そっと目を細める。
彼女はひとりでテラスに立ち、遠くを見つめている。
風に揺れる髪が柔らかく靡き、肩をわずかにすくめながら、じっと馬場を見つめる姿は、どこか寂しげで儚かった。
冬の冷たい風に晒されながら、ただ静かに立ち尽くす彼女の姿に、ヴィンセントはしばし目を奪われた。
——なぜ、彼女はひとりでいるのか。
こんなに寒いのに、どうして室内に戻らないのか。
暖かな暖炉のそばではなく、冷たい風が吹き抜けるテラスで。
その肩が、ほんのわずかに震えるのが見えた。
何かを考え込むように、ドレスの裾をそっと指先でつまむ仕草が、彼女の内にある感情を静かに滲ませている。
その姿を見て、ヴィンセントは迷わずテラスへと向かった。
扉を押し開けると、冬の冷たい風が頬を撫でる。
外の空気は思っていた以上に冷たく、コートの襟を立てながら彼女のもとへ歩み寄る。
「ルシア様?」
呼びかけると、彼女はふっと振り向いた。
「まあ、ヴィンセント様……」
微笑んでいる。
けれど、その目元がわずかに赤い。
「どうかされたのですか?」
そう尋ねると、ルシアは少しだけ困ったように微笑み、そっと首を横に振った。
「……いえ、少し、風が冷たかっただけですわ」
嘘だ。
彼女は泣いていた。
だが、それを指摘することはできなかった。
沈黙が落ちる。
彼女の視線は再び馬場へと向けられる。
遠くでは、子供たちが楽しげに乗馬をしていた。
「ルシア様は、乗馬はなさらなかったのですね」
「ええ……危ないと、心配いただいてしまったので」
彼女の言葉は優雅に整えられていたが、微かにこぼれた寂しさを、ヴィンセントは確かに感じ取った。
誰よりも品格があり、誰よりも優雅な彼女が、ほんのわずかに寂しさを滲ませる。
その事実が、妙に胸に引っかかった。
「ルシア様、寒くはございませんか?」
問いかけると、ルシアは一瞬だけ驚いたようにこちらを見た。
「……まあ」
小さく微笑む。
けれど、風に揺れる髪をそっと押さえる仕草が、その言葉とは裏腹に冷えた指先を物語っていた。
「もし、寒いようでしたら、中へ戻られますか?」
ルシアは、しばらくの間迷うように目を伏せ、それから静かに頷いた。
「ええ、ご一緒してくださるのなら」
その一言に、ヴィンセントは自然と手を差し出す。
ルシアは迷うことなくその手を取り、ゆっくりと屋敷の中へと歩き出した。
屋敷の温もりが近づくにつれ、ヴィンセントはふと彼女の横顔を盗み見る。
あの時、彼女は泣いていた。
だが、その理由を聞くことはできなかった。
けれど、ヴィンセントは強く思った。
——彼女を守りたい、と。
その微笑みが、ただの飾りではなく、本当の安らぎに包まれる日が来るように。
それが、彼にできることであるならば——。
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