if - もうひとつの結末
本文の決定的な分岐点と、それによって生まれた“もしも”の物語。
投稿するか迷いましたが、どうしてもヴィンセントが報われる世界を描きたくなり、筆を執りました。
本編とは異なる展開となり、ある意味で台無しにしてしまうお話ですので、ご覧の際はご注意ください。
今、この瞬間、彼女の心の奥に何があるのかを知りたかった。
ヴィンセントは、ふっと僅かに微笑むと、手元のカップを持ち上げる。
けれど、その瞳だけは彼女から逸らさなかった。まるで、彼女の心の奥底を覗き込むように。
「では、今はどのような方がお好きですか?」
問いかける声は、先ほどよりもさらに柔らかく、けれど核心を突く響きを孕んでいた。
ルシアは、再び口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込む。
カップの中の紅茶をじっと見つめ、ゆっくりとスプーンでかき混ぜながら、まるで答えを探すように唇をきゅっと結んだ。
窓の外では、庭園の木々が風に揺れ、遠くで小鳥の囀りが響いている。
けれど、このカフェの片隅だけは、まるで時間が止まってしまったかのように静寂が支配していた。
そして、ようやく——
「……それは……」
迷いを含んだ声が落ちる。
「私を深く愛してくれる方……というのは、今も変わりません……」
その言葉が庭園に溶けると、ヴィンセントの胸の奥に、名状しがたい何かが広がった。
「……」
彼女は、愛されることを求めている。
けれど、それだけなのだろうか?
彼女の望む“愛”とは、一体どのようなものなのか——。
静かにカップを置き、ヴィンセントは視線を落とす。
そして、もう一度問いを投げかけた。
「では、理想の関係はいかがですか?」
その言葉に、ルシアの指がわずかに震え、持っていたカップの取っ手を強く握る。
「私は……求められたい、ですわ……」
「求める?」
思わず聞き返すと、ルシアはそっと顔を上げた。
その瞳は、どこか怯えたようで、それでいて何かを求めるように、僅かに潤んでいた。
「えぇ……」
彼女は、小さく息を吸い、震える声で続ける。
「エリオット様がそばにいない間に思いましたの……私は、必要とされたいのだと……」
「そばにいる必要がない、と言われてしまうのは……とても、悲しかったのです」
震える声が風に乗って消えていく。
彼女の肩がわずかに揺れ、まつげが震える。
「私は、私を見ていてほしい……そばにいてほしい……」
唇を噛みしめながら、彼女は絞り出すように言葉を紡ぐ。
「私の気持ちを求めてほしい……」
涙を堪えるかのように、ぎゅっと手を握りしめる。
「他の方を見ないで、私だけを愛してほしい……」
そう囁いた彼女の声は、ひどく儚げで、今にも壊れてしまいそうだった。
ヴィンセントの喉が詰まる。
彼は、そっと手を伸ばし、彼女の肩に優しく触れる。
この言葉を、どれほどの思いで口にしたのか。
どれほどの孤独を感じ、どれほどの不安を抱えていたのか——。
彼女を誰よりも愛し、そばにいたいと願っていたのに、その思いを伝えることもできず、ただ遠くから見つめているだけだった自分。
——そうか、これが……独占欲、なのか。
ルシアを、自分のものにしたい。
この役目を、誰にも渡したくない。
少なくとも、彼女にこんな思いをさせたエリオットには、絶対に渡したくない。
「ルシア様……」
ヴィンセントは、強くルシアの手を摑んだ。
ルシアが驚いたように目を見開く。
けれど、手を振り払うことはなかった。
ヴィンセントは身を乗り出し、まっすぐに彼女を見つめる。
「そんな思いをあなたにさせた彼よりも……どうか、私を選んでください」
ヴィンセントの声は静かだった。
けれど、その言葉には確固たる想いが込められていた。
「私はあなたを、長年ずっと想ってきたのです。そばにいたいと、何度願ったか……」
ルシアの瞳が揺れる。
「私が愛しているのは……ルシア様、あなただけです。これまでも、これからも、あなたただ一人を。」
ヴィンセントは、そっと彼女の手を取り、ゆっくりと口づける。
「ルシア様。私のすべてを差し上げます……だから……」
彼は、彼女をまっすぐに見つめ、震える声で囁いた。
「私に、あなたをいただけませんか」
「……っ」
ルシアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
その涙が、ゆっくりと頬を伝い、震える唇から、かすかな言葉がこぼれた。
「……私を、奪ってくださいますか……?」
ヴィンセントの目が揺らぐ。
「ええ……」
彼は、迷いなく囁いた。
「なんとしてでも」
「——危ない!」
突如、上階のバルコニーから、大きな植木鉢がバランスを崩し、落下した。
「ルシア!」
エリオットの声が響く。
だが、彼が駆け寄るよりも先に——
隣にいたヴィンセントが、素早くルシアの細い肩を引き寄せた。
「っ……!」
とっさに彼は彼女を抱え込むように身をひねり、そのまま背後の柱に背中を打ちつける。
鋭い衝撃が全身を襲う。
痛い。ひどく痛い。
背中に走った衝撃がじわじわと広がり、肘に走った痛みも鈍く響く。
それでも——。
腕の中で震えるルシアのほうが、よほど心配だった。
ルシアの指が、ぎゅっと彼のブレザーを掴んでいる。
「ルシア様……お怪我はありませんか?」
震えたまま顔を伏せる彼女に、ヴィンセントはそっと声をかける。
しかし、返事はない。
ただ、彼の胸元を強く握りしめたまま、怯えたように小さな動作で身を寄せるだけ。
「ルシア様……」
再び名前を呼ぶ。
だが——ルシアは彼の言葉に反応しない。
代わりに、彼のブレザーを握る指がわずかに震え、そのまま固まるように動かなくなった。
エリオットが駆け寄り、ヴィンセントに問いかける。
「っ……ヴィンセント! ルシアは!?」
「……怪我はないと思います、ただ——」
その瞬間、周囲の生徒たちがどよめきながら集まってくる。
「誰か、先生を呼んで!」
「植木鉢が落ちてきたって本当か!?」
「エリオット様! 大丈夫ですか!?」
人々の騒がしさが増していく。
エリオットは唇を噛みしめた。
——今は、説明をしている場合じゃない。
ルシアのそばにいるべきなのに。
けれど、今この場に残れば、怯えたルシアが人目にさらされてしまう。
仕方なく、エリオットは人々を落ち着かせるため、その場を離れる決断をする。
「ごめん、すぐ戻る。ヴィンセント——」
彼を一瞥し、静かに頼んだ。
「ルシアを、頼む」
——その間も、ルシアは震えていた。
ヴィンセントは、彼女の顔を見ようと、そっと体勢を変えようとした。
しかし、その瞬間——
「っ……いや……っ」
怯えたような声が零れる。
ヴィンセントの動きが止まる。
「ルシア様……?」
「いや、です……まだ……怖くて……ごめん、なさい……」
かすかに震える声。
けれど、その言葉に彼の名はなかった。
ルシアの指は、縋るようにブレザーを握りしめたまま、微かに震えている。
彼女の意識は、いまだ恐怖の中に囚われているのかもしれない。
ヴィンセントは、静かに息を整え、いつもよりさらに優しく、そっと囁いた。
「ルシア様——」
名を呼ぶ。
今度は、できるだけ柔らかく、穏やかに。
「私は、ここにいます」
その声が、少しずつ、ルシアの心の奥へと染み込んでいく。
彼女の肩が、かすかに震えた。
「大丈夫です。もう何も起こりません。私が、あなたを守ります」
静かな約束のような言葉。
そのとき——
ルシアのまつげが、ふるりと揺れた。
長い沈黙のあと、ぎゅっと握られていた指が、ほんのわずかに力を緩める。
「……ヴィンセント、様……」
震えながらも、彼女の声がようやく彼のもとに届く。
「ルシア様……」
彼がそっと呼ぶと、ルシアは唇をかすかに震わせながら、静かに言葉を紡いだ。
「怖かったの……でも……ヴィンセント様が……」
彼女の声は、震えていた。
「あなたが守ってくれたから……私は……」
ヴィンセントの胸に、そっと額を預ける。
「……あなたのそばを、離れたくありません」
その言葉に、ヴィンセントの心臓が大きく跳ねた。
目の前の少女は、恐怖に震えながらも、自分を求めている。
ルシアが、自分を——。
「ルシア様……」
彼は、彼女の肩をそっと抱きしめる。
「もう、大丈夫です。私は、ずっとあなたのそばにいます」
ルシアは、安堵するように目を閉じた。
彼の温もりに包まれながら、ゆっくりと息を整えていく。
——この瞬間、ヴィンセントは悟った。
彼がずっと望んできたのは、この言葉だったのではないか、と。
彼女が、自分の名を呼び、求めてくれること。
「……離れません」
ルシアの耳元で、静かに誓うように囁く。
彼女が、自分から離れたいと思わない限り。
自分は、どこまでもそばにいよう。
「あなたを……守ります」
そう、強く誓いながら——ヴィンセントは彼女をそっと抱きしめた。
「ルシア!」
その時、エリオットが戻ってきた。
「ルシア、大丈夫?」
だいぶ落ち着いた様子で、ヴィンセントに安心したように寄りかかる彼女の姿を見て、エリオットの胸が強く痛む。
「今日はもう学院にいる必要はない。屋敷に戻ろう」
そう言いながら、彼はルシアを立たせようと手を伸ばす。
——しかし、その瞬間。
「っ……!」
ルシアの体がビクッと震え、わずかに揺れた。
けれど、彼の手に応じることなく、ヴィンセントのそばから動こうとしない。
「ルシア……?」
エリオットの声が低く沈む。
「ご、ごめんなさい……でも、離れるのが……まだ、怖くて……」
ルシアの声は震えていた。
「離れなくては、と思うのですが……体が、動かなくて……」
そう言いながら、彼女の指は無意識にヴィンセントのブレザーを強く握りしめる。
まるで、離れてしまえばまた何かが崩れてしまうかのように。
「ルシア様、大丈夫ですよ。私はそばにいますから」
ヴィンセントの静かな声に、ルシアがかすかに顔を上げる。
「ヴィンセント様……」
その囁くような声に、エリオットの眉間にしわが寄る。
「……僕が支えるから、こっちにおいで」
低く、落ち着いた声色——それは、これ以上ヴィンセントに頼らせないという、どこか強引な響きを孕んでいた。
彼は、ルシアの手を取ろうとする。
だが、その瞬間——
ルシアの体が硬直し、怯えるようにヴィンセントの影に隠れた。
「っ……」
エリオットの手が、空を切る。
完全に拒絶していた。
「……ルシア様が落ち着くまで、私がおそばにいさせていただいてよろしいですね?」
ヴィンセントは、静かにそう言った。
エリオットの目が、鋭く細められる。
「……ルシアが望むなら」
低く、唸るような声が零れる。
その声音には、抑えきれない苛立ちと嫉妬が滲んでいた。
「……本当に、ごめんなさい……」
ルシアが、苦しそうに言葉を絞り出す。
「今だけは……ヴィンセント様の……おそばに……いさせてください……」
「ルシア……」
エリオットの喉が詰まる。
彼が呼んだのに、彼女は振り向かない。
ヴィンセントの腕の中で、まだ小さく震えながら、ルシアはそっと目を閉じた。
——彼女を守るのは、私だ。
ヴィンセントは、決して彼女を手放さないと誓うように、そっとルシアの肩を抱いた。
昼下がりの静寂が広がる中、吹き抜ける風が葉を揺らし、木漏れ日が微かに揺れた。
向かい合う二人の間に、緊迫した空気が張り詰めている。
「……また君とここで話すことになるとはね」
エリオットが腕を組み、ふっと鼻で笑う。
「こんなところで話って、何?」
「エリオット様。単刀直入に申し上げます」
ヴィンセントは落ち着いた声音で、しかし真っ直ぐに彼を見据えた。
「ルシア様を諦めてください」
「はっ……頷くわけないじゃん」
エリオットの表情が一瞬にして険しくなる。
「君もそんなの、わかってるだろ?」
「ええ。あなたは彼女へ、とてつもなく執着している」
静かに、けれど鋭い視線を向けながら、ヴィンセントは言葉を続けた。
「それがわかっていて、なんでわざわざ話を?」
「……力づくで奪える算段が付きました」
「……なに?」
低く睨みつけるエリオットを前に、ヴィンセントは微かに口元を緩めた。
「以前から考えていた事業を急ぎ、進めたのです。次期公爵のお力を借りて」
「……なっ、義兄さんに?」
「ええ。次期当主も、あなたのルシア様への態度に疑問を抱いていたようです。ご存じですよね、彼がどれほどルシア様を大切に愛されているか」
エリオットの表情が歪む。
「彼は、どんなに忙しくても、空いた時間があれば必ず屋敷へ帰り、ルシア様と談笑のお時間を作られるそうです」
「それに対し、あなたは……」
ヴィンセントの声音が僅かに冷たくなる。
「社交を言い訳に、ルシア様と過ごされる時間を最低限にしている」
「それは……!」
エリオットの拳が握られる。
「ルシアの自由を尊重して……!」
「ええ。あなたの葛藤は理解しています」
ヴィンセントの口調は静かだったが、その眼差しはまるで切り込む刃のようだった。
「けれど、はたから見れば、ただ彼女を放置しているようにしか見えない」
エリオットが、息を呑む。
「そして、なにより——ルシア様が悲しんでいた」
その一言が、深く刺さった。
「……っ」
「それだけで、見限られるには十分なのです」
ヴィンセントの瞳が鋭く光る。
「公爵家から婚約の白紙を申し出ることは可能だそうですね」
「……っ!」
「けれど、できれば穏便に解消させてあげたい、と公爵様はお考えのようで」
ヴィンセントは冷静に言葉を続ける。
「そのために、私がこうしてお話しさせていただいております」
「……わからないな」
エリオットは苛立たしげに髪をかき上げた。
「現時点で無関係な第三者の君が、ここまででしゃばることを許されるなんて」
「無関係……?」
ヴィンセントの目がわずかに細められる。
そして、彼ははっきりと言い放った。
「次の婚約者候補は私ですから。当然です」
「……!」
「次の目処が立っているからこそ、公爵家も動くことにしたそうです」
エリオットは、ヴィンセントを睨みつける。
「候補といったって、君は次男だろ?」
鋭い声が東屋に響く。
「家から爵位をもらうにしたって、侯爵以下だ。そんなやつに嫁いで、ルシアが不自由することになると思うけど?」
「ええ」
ヴィンセントは、まるで予想していたかのように頷く。
「もらうのは伯爵位の予定です」
「……!」
「でも、だからこそ、今次期当主とともに功績を上げているのです」
ヴィンセントの言葉には、一点の迷いもなかった。
「このままいけば、私は次期侯爵への昇爵が確定するだろうと、侯爵様にも企画を認めていただいております」
「……っ!」
エリオットの表情が険しくなる。
「エリオット様——あなたがルシア様を大切にしなかったわけではない」
ヴィンセントは、静かに言葉を紡ぐ。
「けれど、大切にするだけでは、人の心は繋ぎ止められない」
「……」
「あなたが手を伸ばさなかった分、私は手を伸ばしました」
ヴィンセントの瞳が、僅かに熱を帯びる。
「あなたが守れなかった分、私はルシア様を守りました」
「そして——これからも」
「私は、彼女を誰よりも大切にし、決して手放しません」
「……」
エリオットは、強く奥歯を噛み締める。
ヴィンセントの言葉には、怒りも、挑発もない。
ただそこにあるのは、揺るぎない確信と決意だった。
「……ふざけるなよ」
エリオットが、低く呻く。
「君がどれだけ計画を立てようと、ルシアが選ばなければ、それはすべて意味がない」
その声には、余裕を装う響きがあった。
しかし、ヴィンセントは彼の視線の奥に焦燥があることを見逃さなかった。
「ルシアが僕以外を選ぶわけがない。仮に選んだとしても、絶対に渡さない」
ヴィンセントはゆっくりと目を伏せ、静かに息を整える。
風が僅かに吹き抜け、彼の髪を揺らした。
「……あなたは本当に、ルシア様が“ほしい”だけなのですね」
エリオットの肩が微かに揺れた。
「……何?」
「だから、彼女が悲しもうと、苦しもうと放置し、いずれ自分のものになるとたかを括っていた。そのくせ、奪われそうになれば突然態度を変える」
ヴィンセントの瞳は冷ややかに光る。
「そんな接し方をしていて、ルシア様がどう思うか、お考えになられなかったのですか?」
エリオットは唇を噛み、拳を握りしめる。
「ルシア様は、もうあなたを望んでいませんよ」
「——君になにがわかる!」
鋭い声が張り詰めた空気を裂く。
「知った風な口で、ルシアの気持ちを代弁しないでくれ!」
ヴィンセントはふっと小さく息を吐き、しなやかに指先を動かす。
「エリオット様……私は、あなたが羨ましかった。ルシア様の婚約者という立場、人好きのする容姿、誰とでも親しくなれる社交性」
エリオットは彼を睨みつけるが、ヴィンセントは静かに続けた。
「そんなあなたなら、ちゃんと考えることができれば、ルシア様を本当に大切にできたはずなんです」
「……何が言いたいわけ?」
「もしあなたが誠実に反省し、ルシア様に向き合うことができる人であれば——私も、身を引いていたかもしれません」
エリオットの表情が一瞬強張る。
「……」
「友にだって、なれていたかもしれない」
静かな失望の響きを帯びた言葉に、エリオットの指が僅かに震える。
その僅かな動揺を見届けると、ヴィンセントはゆっくりと目を細めた。
「……残念ですよ。お伝えしたこと、公爵様に報告いたします」
エリオットが息を詰まらせる。
「侯爵家としての意向を、後日公爵家へ申し出てください」
ヴィンセントは淡々と告げた。
「ルシア様は、私が幸せにします」
最後の言葉は静かだったが、その瞳には確固たる熱を宿していた。
ヴィンセントは踵を返し、東屋を後にする。
エリオットは、その背中を睨みつけながら、一歩も動けずにいた。
今まで、当然のように隣にいると信じていた彼女の存在が——静かに、しかし決定的に、自分の手から零れ落ちていくのを感じながら。
夜の帳が降りた屋敷のバルコニー。
静寂の中に甘い緊張が満ちる。
柔らかな月光が降り注ぎ、微かに揺れるカーテンの隙間から、二人の影をぼんやりと映し出していた。
「ヴィンセント様……」
そっと名前を呼ぶ声は、震えるほどに甘く、切ない。
「ルシア様、お待たせいたしました。」
ヴィンセントの声音は、微かに掠れていた。
彼女を見つめる瞳は、抑えきれない情熱を孕んでいる。
「婚約は……」
「無事、結ばれましたよ。」
「まあ……」
ルシアの頬に、幸福が滲む。
ヴィンセントはゆっくりと彼女へと歩み寄る。
その歩調は慎重でありながら、もう迷いはない。
伸ばされた指先が、彼女の頬を撫でる。
「これで……やっと……堂々とあなたに触れられる……」
囁くような声に、ルシアは微笑む。
「ヴィンセント様……私もずっと……あなたに触れられたかった……」
静かに触れ合う指先。
互いの温もりが、すぐにでも溶け合いそうなほどに近い。
ヴィンセントの腕の中で、ルシアの温もりがゆっくりと馴染んでいく。
彼女の小さな手がそっと背を撫でるたびに、体の芯が溶けるように熱を帯びていった。
「偶然ではなく、自らあなたに触れたかったのです」
甘く紡がれた言葉が、胸の奥を震わせる。
「……ルシア様……!」
震える指先で彼女の頬を包む。
白く滑らかな肌が、月光を受けて淡く輝いていた。
引き寄せたい。
唇を重ねたい。
だが、今触れれば、抑えきれない——。
「私のために兄とたくさん戦ってくださったのでしょう?」
問いかける声音が、彼の理性をさらに揺さぶる。
「あなたと共にあるためなら、何も惜しくはない」
そう言い切ることで、自らを落ち着かせようとする。
だが、目の前の彼女があまりに愛おしすぎた。
「ふふっ……私、随分と愛されていますのね」
微笑む唇があまりにも艶やかで、思わず喉が詰まる。
「それはもう……幼い頃から、あなたを愛し続けてきました」
言葉に滲むのは、決して誇張ではない真実。
長い年月、彼女だけを想い続けてきた。
「そんなにも想ってくださっていたあなたと、この先ずっと共にいられるなんて……幸せですわ」
柔らかく細められる瞳。
瞼の影が、上品な色気を帯びる。
「ルシア様……心から、愛しています」
思いのすべてを込めて告げると、彼女は静かに微笑んだ。
「私もです……愛していますわ、ヴィンセント様」
甘く囁かれた瞬間、触れた指先がじんわりと熱を帯びる。
胸の奥で脈打つ音が強まり、その振動が身体の芯まで響いていく。
そして——。
ルシアがそっと背伸びをする。
ふわりと薔薇の香りが鼻先をかすめたかと思うと、次の瞬間、柔らかな感触が唇に触れた。
ただ触れるだけの軽いものではない。
そっと押し付けられ、甘く沈み込むように、しばし離れない。
ぬくもりと吐息が交じり合い、意識がすべてそこに集中する。
時間が止まったかのように、まわりの音が遠のき、鼓動の音だけが耳の奥で響いた。
——思考が追いつかない。
そして、ゆっくりとルシアが身を引く。
柔らかな感触が名残惜しく離れ、微かな息遣いだけが残された。
何が起こっているのか理解できずにいると、唇に残る熱が、遅れて現実を突きつける。
ゆっくりと見下ろすと、ルシアの唇はわずかに濡れ、微かに震えていた。
「……っ、ルシア様……?」
心臓が跳ね上がる。
彼女の頬に浮かぶ薄紅が、彼の理性をさらに揺さぶった。
「な、何を……」
言葉にならない。
何を、と尋ねたところで、その答えは分かっている。
だが、理解はできても、受け止める余裕がない。
「……ル、ルシア様……?」
顔が熱い。
鼓動が異常なほど速い。
彼女の行動が頭の中で何度も反芻されるが、まったく処理できない。
不意打ちのような口づけに、どうすることもできず、ただ茫然と立ち尽くす。
そんな彼の様子を、ルシアはじっと見つめていた。
微かに唇を噛み、頬を赤らめながら、それでも目を逸らさない。
こぼれそうな笑みを必死に堪えているようにも見えるし、ただ純粋に彼の反応を楽しんでいるようにも思えた。
ヴィンセントが口を開きかけると、彼女の肩がわずかに揺れる。
「ふふっ」
まるで隠しきれない気持ちが零れ落ちるように、楽しそうな笑い声が響いた。
頬を染め、瞳をきらきらと輝かせながら、ルシアはヴィンセントをじっと見つめ続ける。
彼の狼狽える姿があまりにも可愛くて、つい、くすぐったそうに唇を噛んだ。
「ごめんなさい、我慢できなかったの」
囁く声はどこまでも甘く、幸せそうで、心の奥をくすぐる。
本当に、彼女には敵わない。
いとおしさが、胸の奥から込み上げてくる。
気づけば、ヴィンセントの唇から息の音が漏れていた。
驚きと戸惑いで硬直した身体が、彼女の笑顔につられるように、ふっと緩む。
「……もう……ルシア様……」
零れた声の奥には、隠しきれないほどの愛しさが滲んでいた。
こんなにも無邪気に、こんなにも嬉しそうに笑う彼女を、誰よりも近くで見ることができるのは、自分だけだ。
そしてそれは——この先も、ずっと変わらない。
「もう一度……いいですか?」
低く甘く囁きながら、ヴィンセントはルシアの頬を優しく撫でた。
ルシアの表情がぱっと綻ぶ。
嬉しさを隠すこともなく、愛しさそのままに微笑み、すぐに瞳を閉じる。
まるで、「どうぞ」と言わんばかりに、彼を信じ切っているその仕草が、たまらなく愛おしい。
ヴィンセントはそっと身をかがめ、彼女の頬へと唇を寄せる。
ふわりと彼女の香りが鼻先をかすめた瞬間、胸の奥が熱くなる。
そして——。
唇が、優しく重なった。
触れるだけの軽いものではない。
慈しむように、確かめるように、ゆっくりと深まる。
腕の中のルシアが、彼にすべてを預けるようにそっと指先を添えた。
その仕草に、ヴィンセントの心が震える。
——もう、離せない。
何があっても、何を失っても、彼女だけは手放さない。
彼が生涯をかけて守るべきものは、目の前にいるこの愛しい人だけだ。
彼女の幸せを奪うものすべてから、この腕で守り抜く。
涙一つ流させることなく、笑顔だけを捧げたい。
この唇は、彼女を誓うためのもの。
この手は、彼女を抱きしめるためのもの。
この心は、彼女だけに捧げるためのもの。
ヴィンセントは、そっと唇を離し、息を吐くように囁いた。
「愛しています……ルシア様」
たとえ何が起ころうとも、この想いが揺らぐことは決してない。
それは誓いであり、願いであり、そして——彼のすべてだった。
これにて番外編の投稿も終わり、本作品は完結となります。
最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
もしお楽しみいただけましたら、ブックマークやリアクション、⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎でのご評価をいただけますと励みになります。
また、感想に「もっと見たかったシーン」などをお寄せいただけましたら、もしかすると番外編として追加させていただくかもしれません。
皆さまのご感想やご反応を、心よりお待ちしております。




