↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/40

if - もうひとつの結末

本文の決定的な分岐点と、それによって生まれた“もしも”の物語。


投稿するか迷いましたが、どうしてもヴィンセントが報われる世界を描きたくなり、筆を執りました。

本編とは異なる展開となり、ある意味で台無しにしてしまうお話ですので、ご覧の際はご注意ください。


今、この瞬間、彼女の心の奥に何があるのかを知りたかった。


ヴィンセントは、ふっと僅かに微笑むと、手元のカップを持ち上げる。

けれど、その瞳だけは彼女から逸らさなかった。まるで、彼女の心の奥底を覗き込むように。


「では、今はどのような方がお好きですか?」


問いかける声は、先ほどよりもさらに柔らかく、けれど核心を突く響きを孕んでいた。


ルシアは、再び口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込む。

カップの中の紅茶をじっと見つめ、ゆっくりとスプーンでかき混ぜながら、まるで答えを探すように唇をきゅっと結んだ。


窓の外では、庭園の木々が風に揺れ、遠くで小鳥の囀りが響いている。

けれど、このカフェの片隅だけは、まるで時間が止まってしまったかのように静寂が支配していた。


そして、ようやく——


「……それは……」


迷いを含んだ声が落ちる。


「私を深く愛してくれる方……というのは、今も変わりません……」


その言葉が庭園に溶けると、ヴィンセントの胸の奥に、名状しがたい何かが広がった。


「……」


彼女は、愛されることを求めている。

けれど、それだけなのだろうか?


彼女の望む“愛”とは、一体どのようなものなのか——。


静かにカップを置き、ヴィンセントは視線を落とす。

そして、もう一度問いを投げかけた。


「では、理想の関係はいかがですか?」


その言葉に、ルシアの指がわずかに震え、持っていたカップの取っ手を強く握る。


「私は……求められたい、ですわ……」


「求める?」


思わず聞き返すと、ルシアはそっと顔を上げた。

その瞳は、どこか怯えたようで、それでいて何かを求めるように、僅かに潤んでいた。


「えぇ……」


彼女は、小さく息を吸い、震える声で続ける。


「エリオット様がそばにいない間に思いましたの……私は、必要とされたいのだと……」


「そばにいる必要がない、と言われてしまうのは……とても、悲しかったのです」


震える声が風に乗って消えていく。

彼女の肩がわずかに揺れ、まつげが震える。


「私は、私を見ていてほしい……そばにいてほしい……」


唇を噛みしめながら、彼女は絞り出すように言葉を紡ぐ。


「私の気持ちを求めてほしい……」


涙を堪えるかのように、ぎゅっと手を握りしめる。


「他の方を見ないで、私だけを愛してほしい……」


そう囁いた彼女の声は、ひどく儚げで、今にも壊れてしまいそうだった。


ヴィンセントの喉が詰まる。


彼は、そっと手を伸ばし、彼女の肩に優しく触れる。


この言葉を、どれほどの思いで口にしたのか。

どれほどの孤独を感じ、どれほどの不安を抱えていたのか——。


彼女を誰よりも愛し、そばにいたいと願っていたのに、その思いを伝えることもできず、ただ遠くから見つめているだけだった自分。


——そうか、これが……独占欲、なのか。


ルシアを、自分のものにしたい。


この役目を、誰にも渡したくない。


少なくとも、彼女にこんな思いをさせたエリオットには、絶対に渡したくない。


「ルシア様……」


ヴィンセントは、強くルシアの手を摑んだ。


ルシアが驚いたように目を見開く。

けれど、手を振り払うことはなかった。


ヴィンセントは身を乗り出し、まっすぐに彼女を見つめる。


「そんな思いをあなたにさせた彼よりも……どうか、私を選んでください」


ヴィンセントの声は静かだった。

けれど、その言葉には確固たる想いが込められていた。


「私はあなたを、長年ずっと想ってきたのです。そばにいたいと、何度願ったか……」


ルシアの瞳が揺れる。


「私が愛しているのは……ルシア様、あなただけです。これまでも、これからも、あなたただ一人を。」


ヴィンセントは、そっと彼女の手を取り、ゆっくりと口づける。


「ルシア様。私のすべてを差し上げます……だから……」


彼は、彼女をまっすぐに見つめ、震える声で囁いた。


「私に、あなたをいただけませんか」


「……っ」


ルシアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

その涙が、ゆっくりと頬を伝い、震える唇から、かすかな言葉がこぼれた。


「……私を、奪ってくださいますか……?」


ヴィンセントの目が揺らぐ。


「ええ……」


彼は、迷いなく囁いた。


「なんとしてでも」









「——危ない!」


突如、上階のバルコニーから、大きな植木鉢がバランスを崩し、落下した。


「ルシア!」


エリオットの声が響く。

だが、彼が駆け寄るよりも先に——


隣にいたヴィンセントが、素早くルシアの細い肩を引き寄せた。


「っ……!」


とっさに彼は彼女を抱え込むように身をひねり、そのまま背後の柱に背中を打ちつける。

鋭い衝撃が全身を襲う。

痛い。ひどく痛い。

背中に走った衝撃がじわじわと広がり、肘に走った痛みも鈍く響く。


それでも——。


腕の中で震えるルシアのほうが、よほど心配だった。

ルシアの指が、ぎゅっと彼のブレザーを掴んでいる。


「ルシア様……お怪我はありませんか?」


震えたまま顔を伏せる彼女に、ヴィンセントはそっと声をかける。

しかし、返事はない。

ただ、彼の胸元を強く握りしめたまま、怯えたように小さな動作で身を寄せるだけ。


「ルシア様……」


再び名前を呼ぶ。

だが——ルシアは彼の言葉に反応しない。

代わりに、彼のブレザーを握る指がわずかに震え、そのまま固まるように動かなくなった。


エリオットが駆け寄り、ヴィンセントに問いかける。


「っ……ヴィンセント! ルシアは!?」


「……怪我はないと思います、ただ——」


その瞬間、周囲の生徒たちがどよめきながら集まってくる。


「誰か、先生を呼んで!」

「植木鉢が落ちてきたって本当か!?」

「エリオット様! 大丈夫ですか!?」


人々の騒がしさが増していく。

エリオットは唇を噛みしめた。


——今は、説明をしている場合じゃない。


ルシアのそばにいるべきなのに。


けれど、今この場に残れば、怯えたルシアが人目にさらされてしまう。

仕方なく、エリオットは人々を落ち着かせるため、その場を離れる決断をする。


「ごめん、すぐ戻る。ヴィンセント——」


彼を一瞥し、静かに頼んだ。


「ルシアを、頼む」


——その間も、ルシアは震えていた。

ヴィンセントは、彼女の顔を見ようと、そっと体勢を変えようとした。


しかし、その瞬間——


「っ……いや……っ」


怯えたような声が零れる。

ヴィンセントの動きが止まる。


「ルシア様……?」


「いや、です……まだ……怖くて……ごめん、なさい……」


かすかに震える声。

けれど、その言葉に彼の名はなかった。


ルシアの指は、縋るようにブレザーを握りしめたまま、微かに震えている。

彼女の意識は、いまだ恐怖の中に囚われているのかもしれない。


ヴィンセントは、静かに息を整え、いつもよりさらに優しく、そっと囁いた。


「ルシア様——」


名を呼ぶ。

今度は、できるだけ柔らかく、穏やかに。


「私は、ここにいます」


その声が、少しずつ、ルシアの心の奥へと染み込んでいく。

彼女の肩が、かすかに震えた。


「大丈夫です。もう何も起こりません。私が、あなたを守ります」


静かな約束のような言葉。


そのとき——


ルシアのまつげが、ふるりと揺れた。

長い沈黙のあと、ぎゅっと握られていた指が、ほんのわずかに力を緩める。


「……ヴィンセント、様……」


震えながらも、彼女の声がようやく彼のもとに届く。


「ルシア様……」


彼がそっと呼ぶと、ルシアは唇をかすかに震わせながら、静かに言葉を紡いだ。


「怖かったの……でも……ヴィンセント様が……」


彼女の声は、震えていた。


「あなたが守ってくれたから……私は……」


ヴィンセントの胸に、そっと額を預ける。


「……あなたのそばを、離れたくありません」


その言葉に、ヴィンセントの心臓が大きく跳ねた。

目の前の少女は、恐怖に震えながらも、自分を求めている。


ルシアが、自分を——。


「ルシア様……」


彼は、彼女の肩をそっと抱きしめる。


「もう、大丈夫です。私は、ずっとあなたのそばにいます」


ルシアは、安堵するように目を閉じた。

彼の温もりに包まれながら、ゆっくりと息を整えていく。


——この瞬間、ヴィンセントは悟った。


彼がずっと望んできたのは、この言葉だったのではないか、と。

彼女が、自分の名を呼び、求めてくれること。


「……離れません」


ルシアの耳元で、静かに誓うように囁く。

彼女が、自分から離れたいと思わない限り。

自分は、どこまでもそばにいよう。


「あなたを……守ります」


そう、強く誓いながら——ヴィンセントは彼女をそっと抱きしめた。




「ルシア!」


その時、エリオットが戻ってきた。


「ルシア、大丈夫?」


だいぶ落ち着いた様子で、ヴィンセントに安心したように寄りかかる彼女の姿を見て、エリオットの胸が強く痛む。


「今日はもう学院にいる必要はない。屋敷に戻ろう」


そう言いながら、彼はルシアを立たせようと手を伸ばす。

——しかし、その瞬間。


「っ……!」


ルシアの体がビクッと震え、わずかに揺れた。

けれど、彼の手に応じることなく、ヴィンセントのそばから動こうとしない。


「ルシア……?」


エリオットの声が低く沈む。


「ご、ごめんなさい……でも、離れるのが……まだ、怖くて……」


ルシアの声は震えていた。


「離れなくては、と思うのですが……体が、動かなくて……」


そう言いながら、彼女の指は無意識にヴィンセントのブレザーを強く握りしめる。

まるで、離れてしまえばまた何かが崩れてしまうかのように。


「ルシア様、大丈夫ですよ。私はそばにいますから」


ヴィンセントの静かな声に、ルシアがかすかに顔を上げる。


「ヴィンセント様……」


その囁くような声に、エリオットの眉間にしわが寄る。


「……僕が支えるから、こっちにおいで」


低く、落ち着いた声色——それは、これ以上ヴィンセントに頼らせないという、どこか強引な響きを孕んでいた。

彼は、ルシアの手を取ろうとする。


だが、その瞬間——


ルシアの体が硬直し、怯えるようにヴィンセントの影に隠れた。


「っ……」


エリオットの手が、空を切る。

完全に拒絶していた。


「……ルシア様が落ち着くまで、私がおそばにいさせていただいてよろしいですね?」


ヴィンセントは、静かにそう言った。

エリオットの目が、鋭く細められる。


「……ルシアが望むなら」


低く、唸るような声が零れる。

その声音には、抑えきれない苛立ちと嫉妬が滲んでいた。


「……本当に、ごめんなさい……」


ルシアが、苦しそうに言葉を絞り出す。


「今だけは……ヴィンセント様の……おそばに……いさせてください……」


「ルシア……」


エリオットの喉が詰まる。

彼が呼んだのに、彼女は振り向かない。

ヴィンセントの腕の中で、まだ小さく震えながら、ルシアはそっと目を閉じた。


——彼女を守るのは、私だ。


ヴィンセントは、決して彼女を手放さないと誓うように、そっとルシアの肩を抱いた。







昼下がりの静寂が広がる中、吹き抜ける風が葉を揺らし、木漏れ日が微かに揺れた。

向かい合う二人の間に、緊迫した空気が張り詰めている。


「……また君とここで話すことになるとはね」


エリオットが腕を組み、ふっと鼻で笑う。


「こんなところで話って、何?」


「エリオット様。単刀直入に申し上げます」


ヴィンセントは落ち着いた声音で、しかし真っ直ぐに彼を見据えた。


「ルシア様を諦めてください」


「はっ……頷くわけないじゃん」


エリオットの表情が一瞬にして険しくなる。


「君もそんなの、わかってるだろ?」


「ええ。あなたは彼女へ、とてつもなく執着している」


静かに、けれど鋭い視線を向けながら、ヴィンセントは言葉を続けた。


「それがわかっていて、なんでわざわざ話を?」


「……力づくで奪える算段が付きました」


「……なに?」


低く睨みつけるエリオットを前に、ヴィンセントは微かに口元を緩めた。


「以前から考えていた事業を急ぎ、進めたのです。次期公爵のお力を借りて」


「……なっ、義兄さんに?」


「ええ。次期当主も、あなたのルシア様への態度に疑問を抱いていたようです。ご存じですよね、彼がどれほどルシア様を大切に愛されているか」


エリオットの表情が歪む。


「彼は、どんなに忙しくても、空いた時間があれば必ず屋敷へ帰り、ルシア様と談笑のお時間を作られるそうです」


「それに対し、あなたは……」


ヴィンセントの声音が僅かに冷たくなる。


「社交を言い訳に、ルシア様と過ごされる時間を最低限にしている」


「それは……!」


エリオットの拳が握られる。


「ルシアの自由を尊重して……!」


「ええ。あなたの葛藤は理解しています」


ヴィンセントの口調は静かだったが、その眼差しはまるで切り込む刃のようだった。


「けれど、はたから見れば、ただ彼女を放置しているようにしか見えない」


エリオットが、息を呑む。


「そして、なにより——ルシア様が悲しんでいた」


その一言が、深く刺さった。


「……っ」


「それだけで、見限られるには十分なのです」


ヴィンセントの瞳が鋭く光る。


「公爵家から婚約の白紙を申し出ることは可能だそうですね」


「……っ!」


「けれど、できれば穏便に解消させてあげたい、と公爵様はお考えのようで」


ヴィンセントは冷静に言葉を続ける。


「そのために、私がこうしてお話しさせていただいております」


「……わからないな」


エリオットは苛立たしげに髪をかき上げた。


「現時点で無関係な第三者の君が、ここまででしゃばることを許されるなんて」


「無関係……?」


ヴィンセントの目がわずかに細められる。

そして、彼ははっきりと言い放った。


「次の婚約者候補は私ですから。当然です」


「……!」


「次の目処が立っているからこそ、公爵家も動くことにしたそうです」


エリオットは、ヴィンセントを睨みつける。


「候補といったって、君は次男だろ?」


鋭い声が東屋に響く。


「家から爵位をもらうにしたって、侯爵以下だ。そんなやつに嫁いで、ルシアが不自由することになると思うけど?」


「ええ」


ヴィンセントは、まるで予想していたかのように頷く。


「もらうのは伯爵位の予定です」


「……!」


「でも、だからこそ、今次期当主とともに功績を上げているのです」


ヴィンセントの言葉には、一点の迷いもなかった。


「このままいけば、私は次期侯爵への昇爵が確定するだろうと、侯爵様にも企画を認めていただいております」


「……っ!」


エリオットの表情が険しくなる。


「エリオット様——あなたがルシア様を大切にしなかったわけではない」


ヴィンセントは、静かに言葉を紡ぐ。


「けれど、大切にするだけでは、人の心は繋ぎ止められない」


「……」


「あなたが手を伸ばさなかった分、私は手を伸ばしました」


ヴィンセントの瞳が、僅かに熱を帯びる。


「あなたが守れなかった分、私はルシア様を守りました」


「そして——これからも」


「私は、彼女を誰よりも大切にし、決して手放しません」


「……」


エリオットは、強く奥歯を噛み締める。

ヴィンセントの言葉には、怒りも、挑発もない。

ただそこにあるのは、揺るぎない確信と決意だった。


「……ふざけるなよ」


エリオットが、低く呻く。


「君がどれだけ計画を立てようと、ルシアが選ばなければ、それはすべて意味がない」


その声には、余裕を装う響きがあった。

しかし、ヴィンセントは彼の視線の奥に焦燥があることを見逃さなかった。


「ルシアが僕以外を選ぶわけがない。仮に選んだとしても、絶対に渡さない」


ヴィンセントはゆっくりと目を伏せ、静かに息を整える。

風が僅かに吹き抜け、彼の髪を揺らした。


「……あなたは本当に、ルシア様が“ほしい”だけなのですね」


エリオットの肩が微かに揺れた。


「……何?」


「だから、彼女が悲しもうと、苦しもうと放置し、いずれ自分のものになるとたかを括っていた。そのくせ、奪われそうになれば突然態度を変える」


ヴィンセントの瞳は冷ややかに光る。


「そんな接し方をしていて、ルシア様がどう思うか、お考えになられなかったのですか?」


エリオットは唇を噛み、拳を握りしめる。


「ルシア様は、もうあなたを望んでいませんよ」


「——君になにがわかる!」


鋭い声が張り詰めた空気を裂く。


「知った風な口で、ルシアの気持ちを代弁しないでくれ!」


ヴィンセントはふっと小さく息を吐き、しなやかに指先を動かす。


「エリオット様……私は、あなたが羨ましかった。ルシア様の婚約者という立場、人好きのする容姿、誰とでも親しくなれる社交性」


エリオットは彼を睨みつけるが、ヴィンセントは静かに続けた。


「そんなあなたなら、ちゃんと考えることができれば、ルシア様を本当に大切にできたはずなんです」


「……何が言いたいわけ?」


「もしあなたが誠実に反省し、ルシア様に向き合うことができる人であれば——私も、身を引いていたかもしれません」


エリオットの表情が一瞬強張る。


「……」


「友にだって、なれていたかもしれない」


静かな失望の響きを帯びた言葉に、エリオットの指が僅かに震える。

その僅かな動揺を見届けると、ヴィンセントはゆっくりと目を細めた。


「……残念ですよ。お伝えしたこと、公爵様に報告いたします」


エリオットが息を詰まらせる。


「侯爵家としての意向を、後日公爵家へ申し出てください」


ヴィンセントは淡々と告げた。


「ルシア様は、私が幸せにします」


最後の言葉は静かだったが、その瞳には確固たる熱を宿していた。


ヴィンセントは踵を返し、東屋を後にする。

エリオットは、その背中を睨みつけながら、一歩も動けずにいた。


今まで、当然のように隣にいると信じていた彼女の存在が——静かに、しかし決定的に、自分の手から零れ落ちていくのを感じながら。










夜の帳が降りた屋敷のバルコニー。


静寂の中に甘い緊張が満ちる。

柔らかな月光が降り注ぎ、微かに揺れるカーテンの隙間から、二人の影をぼんやりと映し出していた。


「ヴィンセント様……」


そっと名前を呼ぶ声は、震えるほどに甘く、切ない。


「ルシア様、お待たせいたしました。」


ヴィンセントの声音は、微かに掠れていた。

彼女を見つめる瞳は、抑えきれない情熱を孕んでいる。


「婚約は……」


「無事、結ばれましたよ。」


「まあ……」


ルシアの頬に、幸福が滲む。


ヴィンセントはゆっくりと彼女へと歩み寄る。

その歩調は慎重でありながら、もう迷いはない。

伸ばされた指先が、彼女の頬を撫でる。


「これで……やっと……堂々とあなたに触れられる……」


囁くような声に、ルシアは微笑む。


「ヴィンセント様……私もずっと……あなたに触れられたかった……」


静かに触れ合う指先。

互いの温もりが、すぐにでも溶け合いそうなほどに近い。


ヴィンセントの腕の中で、ルシアの温もりがゆっくりと馴染んでいく。

彼女の小さな手がそっと背を撫でるたびに、体の芯が溶けるように熱を帯びていった。


「偶然ではなく、自らあなたに触れたかったのです」


甘く紡がれた言葉が、胸の奥を震わせる。


「……ルシア様……!」


震える指先で彼女の頬を包む。

白く滑らかな肌が、月光を受けて淡く輝いていた。


引き寄せたい。

唇を重ねたい。


だが、今触れれば、抑えきれない——。


「私のために兄とたくさん戦ってくださったのでしょう?」


問いかける声音が、彼の理性をさらに揺さぶる。


「あなたと共にあるためなら、何も惜しくはない」


そう言い切ることで、自らを落ち着かせようとする。

だが、目の前の彼女があまりに愛おしすぎた。


「ふふっ……私、随分と愛されていますのね」


微笑む唇があまりにも艶やかで、思わず喉が詰まる。


「それはもう……幼い頃から、あなたを愛し続けてきました」


言葉に滲むのは、決して誇張ではない真実。

長い年月、彼女だけを想い続けてきた。


「そんなにも想ってくださっていたあなたと、この先ずっと共にいられるなんて……幸せですわ」


柔らかく細められる瞳。

瞼の影が、上品な色気を帯びる。


「ルシア様……心から、愛しています」


思いのすべてを込めて告げると、彼女は静かに微笑んだ。


「私もです……愛していますわ、ヴィンセント様」


甘く囁かれた瞬間、触れた指先がじんわりと熱を帯びる。

胸の奥で脈打つ音が強まり、その振動が身体の芯まで響いていく。


そして——。


ルシアがそっと背伸びをする。


ふわりと薔薇の香りが鼻先をかすめたかと思うと、次の瞬間、柔らかな感触が唇に触れた。


ただ触れるだけの軽いものではない。

そっと押し付けられ、甘く沈み込むように、しばし離れない。


ぬくもりと吐息が交じり合い、意識がすべてそこに集中する。

時間が止まったかのように、まわりの音が遠のき、鼓動の音だけが耳の奥で響いた。



——思考が追いつかない。



そして、ゆっくりとルシアが身を引く。

柔らかな感触が名残惜しく離れ、微かな息遣いだけが残された。


何が起こっているのか理解できずにいると、唇に残る熱が、遅れて現実を突きつける。


ゆっくりと見下ろすと、ルシアの唇はわずかに濡れ、微かに震えていた。


「……っ、ルシア様……?」


心臓が跳ね上がる。

彼女の頬に浮かぶ薄紅が、彼の理性をさらに揺さぶった。


「な、何を……」


言葉にならない。

何を、と尋ねたところで、その答えは分かっている。

だが、理解はできても、受け止める余裕がない。


「……ル、ルシア様……?」


顔が熱い。

鼓動が異常なほど速い。

彼女の行動が頭の中で何度も反芻されるが、まったく処理できない。


不意打ちのような口づけに、どうすることもできず、ただ茫然と立ち尽くす。


そんな彼の様子を、ルシアはじっと見つめていた。

微かに唇を噛み、頬を赤らめながら、それでも目を逸らさない。


こぼれそうな笑みを必死に堪えているようにも見えるし、ただ純粋に彼の反応を楽しんでいるようにも思えた。


ヴィンセントが口を開きかけると、彼女の肩がわずかに揺れる。


「ふふっ」


まるで隠しきれない気持ちが零れ落ちるように、楽しそうな笑い声が響いた。

頬を染め、瞳をきらきらと輝かせながら、ルシアはヴィンセントをじっと見つめ続ける。


彼の狼狽える姿があまりにも可愛くて、つい、くすぐったそうに唇を噛んだ。


「ごめんなさい、我慢できなかったの」


囁く声はどこまでも甘く、幸せそうで、心の奥をくすぐる。


本当に、彼女には敵わない。


いとおしさが、胸の奥から込み上げてくる。


気づけば、ヴィンセントの唇から息の音が漏れていた。

驚きと戸惑いで硬直した身体が、彼女の笑顔につられるように、ふっと緩む。


「……もう……ルシア様……」


零れた声の奥には、隠しきれないほどの愛しさが滲んでいた。


こんなにも無邪気に、こんなにも嬉しそうに笑う彼女を、誰よりも近くで見ることができるのは、自分だけだ。


そしてそれは——この先も、ずっと変わらない。


「もう一度……いいですか?」


低く甘く囁きながら、ヴィンセントはルシアの頬を優しく撫でた。


ルシアの表情がぱっと綻ぶ。

嬉しさを隠すこともなく、愛しさそのままに微笑み、すぐに瞳を閉じる。

まるで、「どうぞ」と言わんばかりに、彼を信じ切っているその仕草が、たまらなく愛おしい。


ヴィンセントはそっと身をかがめ、彼女の頬へと唇を寄せる。

ふわりと彼女の香りが鼻先をかすめた瞬間、胸の奥が熱くなる。


そして——。


唇が、優しく重なった。


触れるだけの軽いものではない。

慈しむように、確かめるように、ゆっくりと深まる。


腕の中のルシアが、彼にすべてを預けるようにそっと指先を添えた。

その仕草に、ヴィンセントの心が震える。


——もう、離せない。


何があっても、何を失っても、彼女だけは手放さない。


彼が生涯をかけて守るべきものは、目の前にいるこの愛しい人だけだ。


彼女の幸せを奪うものすべてから、この腕で守り抜く。

涙一つ流させることなく、笑顔だけを捧げたい。


この唇は、彼女を誓うためのもの。

この手は、彼女を抱きしめるためのもの。

この心は、彼女だけに捧げるためのもの。


ヴィンセントは、そっと唇を離し、息を吐くように囁いた。


「愛しています……ルシア様」


たとえ何が起ころうとも、この想いが揺らぐことは決してない。

それは誓いであり、願いであり、そして——彼のすべてだった。


これにて番外編の投稿も終わり、本作品は完結となります。

最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。


もしお楽しみいただけましたら、ブックマークやリアクション、⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎でのご評価をいただけますと励みになります。

また、感想に「もっと見たかったシーン」などをお寄せいただけましたら、もしかすると番外編として追加させていただくかもしれません。


皆さまのご感想やご反応を、心よりお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。