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03

 

 曾祖母はいつもその日の前に、スイカを買っておいで、と菜々美の母に言う。

 菜々美の母・好美は曾祖母の一番のお気に入りの孫だった。

 好美が結婚して、一緒に住むと言った時には手を叩いて喜んだそうだ。


「一郎大伯父さんの命日には、必ず駅で、スイカよね」

 好美が、小ぶりの細長いスイカを片手に抱いて戻ってきた。 

「こんなの見つけたんだ。こんなに小さいけど、これでも甘いんだって」

 それから、汗を拭いて笑う。

「前みたいに大きいと、また駅員さんに迷惑かけちゃうでしょ?」

 それでも十分、迷惑には違いないが、菜々美は敢えて何も答えず、ガレージに向かった。


 菜々美が運転して、母の好美が助手席に収まりながら後ろを向いて、後部席に車いすごと収まる曾祖母の見守りをする、というのがここ三年ほどの習慣となっていた。

 そして、助手席の足元には小さなスイカ。『姫まくら』と言って皮が薄く、甘みも強いらしい。

 一度はちゃんと食べてみたいものだ、と菜々美は思いながらハンドルを切る。


 駅近くの駐車場、車いすスペースは相変わらずほかの車で埋まっていたが、菜々美が窓から身を乗り出すようににらみつけると、まず営業車らしい白いバンが、ほかに用事を思い出したふりをしてさっさと出て行った。

 もう一台分は黒いワンボックスで、確かにグリーンの札をフロントガラスの上に出していたが、運転席の男はこちらを一瞥して、また手元のスマホに目を落としてしまった。誰かを待っている様子だった、手の動きからしてゲームで時間つぶしをしているようだった。菜々美と好美とがリモコン片手に曾祖母を車から降ろしているのを、ちらりと一瞥しただけでまた手元に目を戻している。

「いやね、空いてるからって何にも不自由ない人が」

 好美の大声に、また目を上げて三人をにらみつける。

 すでに自分たちの車が停められたのだから何も言わないでいてくれればいいのに、と菜々美はあわてて車いすを押す。曾祖母の軽い体がぴょこんと上り、そのはずみで曾祖母は黒い車に気付いたようだ。

「あら、一郎のお迎えですか」

 曾祖母が丁寧にその運転手に頭を下げる。

 ゲームに夢中な男は気づかないふりをしているようだった。

 年寄りにはもっと親切にすればいいのに、と少しむっとして、車いすを押しながら駅舎へと向かった。


 ホームに上がり、時間を待つ間も、数本の列車がホームに滑り込み、また、出発していった。

 そしてやはり、例年のように背後にたたずむ駅員がひとり。

 すでに、散らばったゴミを片付けるべく、水を張ったバケツと、デッキブラシを用意している。

 近くの並木からだろう、かしましいというよりも殺人的なセミの大合唱が、菜々美のところにも届いている。

 汗が止まらない。母の好美も同じようで、ハンカチでしきりに額をぬぐっている。


 ホームは正午の光にじりじりと焼かれ、そんな中、なぜか曾祖母だけはひんやりとした笑みのままで、車いすに収まって、じっと待っている。


 空気がいちだんと重く感じられ、菜々美は空を見上げる。

 いつの間にか空はすっかりと黒雲で覆われている。しかし、空気はさらに熱苦しい湿気を帯びてきたようだ。

 どこかで遠雷がとどろく。


「ほら」

 細い指を持ち上げ、曾祖母がつぶやく。

「行ってらっしゃい。どうぞ、手柄を立てて、無事に戻りますよう」

 好美がいつものように、スイカを曾祖母の膝に乗せる。

 そして、曾祖母はそのスイカを持ち、顔の高さまで上げて言った。

「一郎」

 放り投げたスイカは、やはり、線路までは届かなかった。

 それははかない放物線を描き、ホームの地面に落ちる。

 くしゃ、と紙が丸まったような音とともに、それは粉々に砕け、赤い汁を四方に飛び散らせる。


 一郎は、乗った列車から大きく身を乗り出し、ずっと手を振っていた。

 そのせいで、線路脇の信号台に激突したのだった。

 列車はすぐに停止した。


 曾祖母は、いつも嫌々ホームの掃除をする駅員に対して、

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 と、深く頭を下げていた。

「あの人たちはね、涙を流しながらずっと、一郎を拾ってくださったんだよ」

 まだ少しはまともに話ができた頃、曾祖母がそう言ったことがあった。

「おかげで、私は一郎のほとんどすべてをお墓に入れることができたんだ、細かくなっちまってたけどね。それでも、あの時代、そんなにありがたいことがあっただろうかね?」


 それでも毎年、夏のこの暑い時期、何の罪もないスイカがホームで散り散りになるのを、どうにもいたたまれない思いで菜々美は見送っていた。


 赤い汁が、黒い種の粒つぶが。

 むっとする空気の中で漂う、どこか青臭くて甘い香りが。

 そしていぶかしげに見送る、ただの乗車客の目線が。

 機械的にバケツを持ち上げる駅員の伏目が。


 いたたまれない。


 遠雷がまた、低くとどろいた。


「出征の日に亡くなったのは、逆に幸せだったのかな」

 ホームから去ろうという時になると、好美は毎年、同じ問いを菜々美にぶつける。

「同郷の4人は、遺骨すら戻らなかったんだってさ、それ考えるとさ」


 あれ、と曾祖母が唐突に発した声に、菜々美は手を止める。

「どうしたの? ばあちゃん」

 曾祖母は、東の方――当時、一郎が去っていった方角、ずっと伸びた線路を伸びあがるように見つめて、ことばを継いだ。


 ―― 一郎がさ


「何?」


 ―― たくさん連れて帰るよ、って


 駐車場に帰った時、黒いバンはまだ停まっていた。しかし、運転手は先ほどのだるそうな表情から一転して、けんめいに誰かと通話しようとしていた。


「……待て、お前、落ち着け、何? 電車が止まってて? 雷雨で止まって? 遅れるって? いいよまだ待ってるからさ、いや? なんだって? ちょっと待てお前落ちつけよ、とりあえず電車から降りろよ、えっ?」


「お宅様も、スイカを買っておいでに?」


 曾祖母がまた、運転手に愛想よく問いかける。

 しかし、運転手はすっかり、呆然とした表情だった。

 手から、スマートフォンが滑り落ちた。

 絶叫が、菜々美のところまで漏れ聞こえ、菜々美は思わず目を伏せ、急ぎ車に戻る。


 暗い空に一閃、青白い光が走る、急に風が冷たくなって、菜々美と好美は急ぎ、曾祖母を車に乗せ、その場を去った。


 土砂降りには、当たらずに済んだ。

 しかし最速で動かすワイパーの前方には、わずか目と鼻の先しか視界が開けていない。

 菜々美はアクセルから足を離し、前のめりになって車を操る。


 とにかく、前にだけ集中したかった。

 余計なことは、何も考えず。


「急に涼しくなったね」

 好美は相変わらず、曾祖母の方を振り向いた格好だった。

「少し待ってくれれば、駅員さん、お掃除しなくて済んだのにね。ねえ、ばあちゃん」

 曾祖母の答えはない。いつものことなので、好美は気にもしていないようだった。


「あら、菜々美」

 急に運転席に目をやる。

「寒いの?」

「ううん、全然」


 しかし、ハンドルを握る菜々美の腕はいつまでも、震えたままだった。




(了)

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