炎と水と銃と矢と
轟くように叫んだ炎堂の周囲をこれまでで最大の爆風が包み込む。その勢いは惇とテレスを吹き飛ばしたバニシングフィンガーでさえ比べ物にならないレベルだった。屋敷のあちこちで火災報知器が警報を鳴らし、スプリンクラーの雨が廊下に降り注ぐ。炎堂の変身した炎の巨人、ヘラクレイトスはその渦中で大粒の水飛沫に晒されていたが、堪えている様子はまるでない。
むしろ天井の水を一瞬で水蒸気に変える程の熱気を放ち、辺りには濃い霧が立ち込めていた。霧の中、恐ろしい眼光を向けられたピタゴラス教団も流石に動揺を隠せないのか最前列にいた周防はひとまず後退し、若き信者たちはボウガンを構える手の震えを抑えようと必死だった。
「うろたえるでない! 狙う的が大きくなったに過ぎぬ!」
信者たちの恐怖をかき消すような鋭い叫びが霧と熱風に包まれた空間にこだまする。それが教祖ソフィアの鼓舞する声だと気づいた時、彼らの腕の震えは収まり、代わりに奮い立つ若き少年少女たちの声が満ち溢れていた。
互いに敵意を剥き出しにして向かい合う炎の巨人と緑矢の軍勢。一方、そんな両者から半ば忘れ去られたように優の部屋の奥へと避難していたソクラテス教団の面々はというと……
「おいおい! 何なんだよあの化け物ども! さっきから僕だけ置いてけぼりなんだけど?」
「どうせ説明したって解りっこないさ。お前は賢人に興味ないんだから」
「喧嘩している場合じゃないでしょう。どうするんですか、この状況」
「どうするってそりゃお前。優を連れてさっさと逃げ出すに決まってんじゃねえか」
「でもあの炎を越えて、更に矢の雨の中を抜けていくなんてできるわけ……」
「誰が正面突破するなんて言ったよ。そこにドでかい逃げ道があんだろ?」
哲夫が指差した先には、今やこの部屋で唯一閉じられた出入り口である西側の大きな出窓。
「な、なるほど。確かにあそこから飛び降りるほかになさそうですね」
「幸いにもここは二階で、下は芝生だ。飛び降りたところで大した怪我にはなるまいよ」
「その前にまずこの馬鹿でかいカーテンを開けないと――」
テレスが巨大な布の裾に手をかけようとした瞬間、突如部屋を覆っていた血界が炎に包まれ、それを伝って部屋中の壁や天井、本棚がメラメラと燃え始めた。振り返る一同。その先には、ピタゴラス教団の矢をまるで意に介すことなくこちらを振り返って邪悪な笑みを浮かべる炎の巨人ヘラクレイトスの顔があった。
「俺様が奴らに気を取られ、お前たちを見逃すとでも思っていたのか? ここにいる雑魚は全員、一匹残らず生かして返さんぞ」
部屋中に響き渡るテレスと優の叫び声。二人の顔には絶望の色が浮かんでいた。大火傷する覚悟で燃え盛るカーテンと、その裏にあるガラス窓を開けなければ逃げる事など不可能だ。
「もうダメだ……お終いだぁ!」
「馬鹿野郎あきらめんな! 俺だってこんなとこで死にたかねえよ! 消火器持ってこい!」
「今更消火器でどうにかなる熱量じゃないでしょ……」
がっくりとうなだれる優とテレス。そんな彼らの頬を何度も引っ叩きながら某テニスプレイヤーばりに諦めるなと連呼する哲夫。その喧騒を背に、炎の巨人と睨み合う惇。
絶望的状況の中、哲夫に殴られていたテレスはふと、懐のオルギャノンが青白い光を発していることに気がついた。慌てて取り出した途端、少年の脳内に昨夜の記憶が鮮やかに蘇る。
「これは……」
テレスの脳内に浮かんだヴィジョンには、水の刃を構え襲いかかって来る四人のフィロ・タレスの姿があった。しかしそのうちの三人は、彼が引き金を引いた瞬間まるで掃除機に吸い込まれるようにオルギャノンの銃口へと消えて行った…………
「そうか…………そういうことか!」
テレスは優と哲夫の喧嘩も惇と巨人の睨み合いも無視して燃え盛るカーテンの前に仁王立ちになると、オルギャノンの銃口を真っ直ぐ向けた。
少年が取り出した不思議な銃に首をかしげる引きこもりと巨人。一方、何かを悟ったかのようにはっとする師匠と兄弟子。
「炎を切り裂け! 水の分身たちよ!」
渾身の叫びと同時に引き金を引くテレス。その銃口からアリストテレスが教えた通り、三人のフィロ・タレスが飛び出した。驚く周囲に構うことなく、解き放たれた少女たちは眼前の炎を文字通り、水の刃で切り裂いた。
炎を水が斬る。物理学的には考えられないことが、今確かにテレス達の目の前で起きている。燃え盛る炎の中を涼しげな表情で踊るように駆け抜ける美少女たち。その美しさに哲夫たちはおろか、炎の主であるヘラクレイトスまでもが釘付けになっている。
そしてその様子を驚愕の表情で見つめていたのは彼らだけでは無かった。突如動きを止めた炎の巨人。その肉体の隙間から垣間見える三人の美少女。その神秘的な姿をピタゴラス教団の信者たちもまた、息をのんで見守っていた。炎の巨人がその様子に気を取られている今こそ、彼らにとって絶好のチャンスなのだが、もはや誰一人として矢を装填し攻撃しようとする者はいない。指揮官である周防ですら前代未聞の光景に言葉を失っている。
そんなピタゴラス教団の中で誰よりも驚愕の表情を浮かべていたのは、他ならぬソフィア・ピタゴラスであった。しかも彼女の眼に映っていたのはフィロの分身たちだけではない。
「あれが……オルギャノンの力だというの……?」
彼女の眼は周囲と違い、水の刃ではなくそれを放ったオルギャノンそのものを捉えていた。テレスが持つその銃を生み出したのはパルメニデス教団とオルフェウス教。そしてその誕生に大きく関わっていた人物――見台に置かれた書物を読み、儀式が終わると射殺された老婆――あの醜悪な顔の老婆こそ二代目教祖マシュマー・ピタゴラスの妻にして彼女の祖母だったのだ。
ソフィアは幼い頃から自分がピタゴラス教団の指導者となる運命を受け入れていた。そんな彼女に教団の裏の顔であるオルフェウス教の存在と術を教えた師匠とも呼べる存在。殺された祖母の無残な姿を見た彼女は人目もはばからず声を上げて泣き、同時に誓った。祖母が自らの命を賭けて生み出し、何者かに奪われた切り札。オルギャノンをこの手で取り返すと。
その切り札が今、あと少し手を伸ばせば届くところにある。しかも異国の地から来た余所者の手に握られて。ずっと探していた。祖母の仇……大切な宝……禁断の秘術…………
「教祖様。ピタゴラス様。ソフィア様! お気を確かに! 我らにご指示を!」
周防の呼びかけではっと我に返ったソフィアは、全身からこみ上げてくる熱い感情を必死で胸に秘め、あくまでも冷静な教祖の言葉として信者たちに解き放った。つもりだった。
「総員に次ぐ! 炎の巨人を援護し、あの少年が持つ銃、オルギャノンを奪還せよ!!!」
一瞬、周防の口がポカンと開く。信者たちもソフィアが今言ったことの意味を誰一人として理解できていないようだったが、彼女の顔を見た途端、彼らはボウガンを構え巨人の向こうにいる哲夫たちに突撃した。一人廊下に残ったソフィア。彼女自身はあくまで平静を装っているつもりだったが、その顔からは死んだ祖母と同じ、醜悪な憎悪が滲み出ていた。
一方、部屋の中では散々好き勝手に踊り狂ったフィロの分身たちがようやくカーテンの炎を消し去り――というよりもカーテンそのものをズタズタに引き裂いて――出窓のガラスを哲夫たちの眼前に晒していた。そのまま外へ出ていくのかと思いきや、彼女たちは呆然と見つめる炎の巨人に果敢にも立ち向かっていく。どうやら最後まで哲夫たちの味方をしてくれるらしい。
「す、すげぇ……」
唖然とする優を押しのけ、哲夫は満面の笑みで弟子の肩を叩いた。
「よくやった! それでこそオルギャノンの所有者だ」
「え、あ、あ! すいません。ぼーっとしちゃって……」
「おいおいしっかりしろよ。あとは逃げるだけなんだぞ」
「そ、そうですね。でも先生、そんな身体で大丈夫ですか?」
これぐらい平気だ、と胸を張る哲夫だったが、顔の血色が悪すぎて全く様になっていない。
「僕が肩を貸しますから無理しないでください。惇さんは優くんの肩に」
「いや、私は大丈夫だ。先生と違って貧血ではないからな。それにまだ、やることがある」
心配そうなテレスの視線を背中で感じながら、惇は相変わらず炎の巨人を見つめていた。




