◆その31 ~なにかを犠牲にしなければならないとしたら
◆その31
来た道を戻ってゆくと朝の光の中に、イルゲの家が見えてくる。
昨日は薄暗くなりかけていてよくわからなかったが、素朴ではあるけれど温かい雰囲気のする家だ。周囲に花が植えられ、軒には動物をかたどった手作りらしき吊るし飾りが下がり、手招きするように揺れている。
その招きに勇気づけられるように、絵里はイルゲの家に入った。
昨日は感じなかった、お香のような匂いが漂っている。
明るい中で見るイルゲの部屋はやはり極彩色にあふれていたが、それも不思議にしっくりと感じられた。
「まあ、お座り」
昨日と同じく好きな場所に座るよう勧められ、今日は絵里はすみっこではなくイルゲの前に正座した。ランバートは昨日と同じ場所を選び、チャスとユエンは絵里を挟んで両側に座を占める。
青臭い草の味がするお茶を一口だけ飲むと、絵里は膝の上で手をそろえた。
イルゲにはなにがわかるのだろう。そしてなにを言われるのだろう。
わかるはずがない、という疑いの気持ちはもちろんある。
わかるかもしれない、という期待もある。
……わかってしまうんじゃないか、という恐れもある。
身を固くしている絵里に、イルゲはゆるりと笑った。その顔には疲労の色が濃く、目の下には隈がはっきり見て取れた。
「まずはエリさん、この世界へよくぞおいでなさった」
「は、はい……」
はっきり返事できないのは、自分で望んだことではなく事故のように喚ばれただけだから。よくぞと言われても、絵里の意思できたわけではない。
「ゆうべは魔王退治の話をしたから、今日は救世主の話をしようかね」
軽く咳き込んだあと、イルゲは話し出した。
「この世界の中では魔王を倒すことはできない。ならばその力を持つ者を別の世界から喚ぶしかない。そんな風にハイラムは提案し、教会に召喚の秘術を使わせた。秘術に参加したうちの幾人かは命を落とした。気の毒なことだが、それだけ大きな力を要する術だったんだね」
昨日イルゲはハイラムのことをその子とだけ言っていたけれど、今はきちんと名前を呼んでいる。
「救世主は魔王を倒すための切り札。ハイラムはその使い方をさぐったが、どう使うのかまではわからないまま、魔王討伐の一行は出発した」
おそらく最初、ハイラムは絵里のことを魔王と戦う勇者ではないかと考えたのだろう。だが絵里は武器を使えなかった。言葉が通じないから、絵里からなにも探ることができなかった。たとえ言葉が通じても、絵里はなにも知らないからどのみちわからなかっただろうが。
「一方魔王側も、救世主の召喚を……というよりなにか異変を感じ取った。魔王の目――黒の鳥を飛ばして様子をさぐった。そしてついには、救世主を敵として認識し、襲わせもした」
優秀な護衛がついててよかったね、とイルゲは笑み含みにランバートとチャスを見た。
「実際のところ、救世主の力がなんなのかをわかっている人はいない。わかる人のいないことには私の力は及ばないから、教えてあげることはできないね」
ただ、とイルゲは続けた。
「1つの可能性としてはその血だろうね。少量でも黒の鳥を倒すだけの毒性を持つ血だ。まるごと与えれば、いかな魔王とて倒れるかもしれない」
絵里は膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
ランバートの様子は見えないが、隣にいるチャスにもユエンにも驚いた様子はない。
おそらくもう、予想済みだったのだろう。それは絵里も同じだ。
考えたくはなかったけれど、それは一番考えられる可能性だったから。
(異世界の血は魔のものにとっての毒。救世主は魔王の毒餌として世界に召喚された……)
それならば、絵里に戦う力がないことも、なにもわからないことも問題がない。魔王のところまで、途中で殺されないように気を付けて運べば事は足りる。
王族の血では眠らせることしかできない魔王も、異世界の血でなら倒せるかもしれない。そうすればこの世界は救われるのだ。
(でもわたしは、自分の命を捧げるほどこの世界を救いたいなんて思わない)
そんな風に使われるなんてごめんだ。自分を犠牲にしてもいいと思えるほど、絵里はこの世界に思い入れがない。
ならば絵里のすべきなのは、討伐隊から逃げ続けることだ。討伐隊もずっと絵里を追ってはいられない。タイムリミットがくれば魔王のもとに向かうだろうから、それまでの間逃げられればなんとかなる。そうすれば。
(……あのお姫様が魔王に食べられて、ひとまずこの世界に猶予が生まれる)
それもまた、絵里の望むところではない。
絵里を逃がそうとしてくれたミュリエル姫の心中を思うと、心臓がぎゅっと痛くなる。
爪が手のひらに食い込むほど握りしめた絵里の手に、隣からのびてきた手が重ねられた。
ユエンは絵里の手に手を重ねたまま、もう片方の手を自分の胸に当ててイルゲを見た。
「ああ、そうだね。それは私も感じるよ」
ユエンの視線を受けて、イルゲは頷いた。
「エリさんの中には、とてつもない力が封じ込まれている。けどその力がなんなのかは、私にもわからない。もしかしたらそれは……いや、推論にすぎることを言ったら混乱させるだけだね」
イルゲはそこで話をやめようとしたが、ユエンは強く首を振り、イルゲに強い視線を送る。それでもまだイルゲは迷っていたが、あくまでも推測だよ、と前置きをしてから話し出した。
「おそらくそれは、元の世界への帰還と深く関わっている力じゃないかと私は思うよ。それくらい条理を超えた大きな力だ」
「その力を使えば、元の世界に還れる……?」
それは絵里がこの世界にきて以来、はじめてといえる朗報だ。
還れるかもしれない。そう思ったら急に元の世界が恋しくなった。
学校に行って。部活をやって。家に帰って。家族や友だちと過ごして。そんないつもの日常に戻れるかもしれない。
けれどその一瞬の夢は、イルゲの次の言葉に砕かれた。
「逆に、その力を使えば魔王が倒せるかもしれない。それほどの力だ」
「え……」
絵里は言葉を失った。
頭の中に空気が詰まったように、何も考えられなくなる。
(わたしは……)
この世界になにを求められているのだろう。
真っ白になって停止した絵里の思考は、イルゲの咳によって引き戻された。
背を丸め、咳き込むイルゲの背をチャスが心配そうにさすっている。
「無理したんじゃねぇか?」
「これしきのこと……年寄り扱い……する、んじゃないよ」
乾いた咳の合間に、イルゲはチャスに言い返す。
「話せることはもうこれくらいなんだろ? オレらはいったん帰るわ。またなにかあったら相談しにくるかもしれねぇけど」
だからもう休んでくれ、とチャスはイルゲに頼んだ。
「またいつでもおいで」
布にうずもれたイルゲがそう言ってくれるが、絵里は頭をさげるのが精いっぱいで返事もできず、ユエンに支えられるようにして部屋をでた。




