◆その29 ~姫の役割、王子の役割、それならわたしの役割は?
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すぐ近くまで来ても、そこは家がぽつぽつと建っているだけの場所だった。区切りもないから、どこからが村なのかもはっきりしない。
(こういうところに住むって、どういう感じなのかな……)
だだっ広い土地に囲まれて、電車も車も飛行機もないから、歩いたり馬に乗ったりしないと遠くに行けなくて。
電話がないから、誰かがいるところに行かないと話もできなくて。
電化製品がないからなんでもかんでも手作業で、夜は真っ暗で。
時計がなくて、高校がなくて、コンビニがなくて。
けれど、絵里が知らないだけで、この世界にあって日本にないものもたくさんあるのだろう。
村とおぼしき場所を歩いていた女の子が、入ってきた馬を怪訝そうに見上げた。
素朴な服装をしているが、髪に飾った白い花がよく似合うかわいい顔立ちの子だ。
「あら、チャス?」
「よっアーニャ、久しぶり」
「ほんとにしばらくぶりねチャス、とユエン、なのかしら?」
ユエンがわずかに頷くと、アーニャはうれしそうな顔になった。
「ね、しばらくぶりにうちに寄っていかない? 話したいこともあるし……」
嬉しそうに誘う言葉を、チャスは途中で遮った。
「ありがとな。けど今日はイルゲに用があってきたんだ。いるかな?」
「たぶん。……なにかあったの?」
アーニャの目が気がかりそうにユエンに向けられる。
セヴァロンとしてのユエンのことを心配している目だ。
「そうじゃなくて、イルゲに会いたいって客を連れてきたんだ」
チャスはランバートと絵里を示した。それでアーニャはほっとしたらしく、表情を緩めた。
「そう。じゃあまたね」
「ああ。それから……おめでとさん」
チャスに言われたアーニャは髪に飾った花に触れ、ぱっと赤くなった。
「ありがとう」
小さな声で礼を言うと、アーニャは身をひるがえして走って行った。
アーニャと別れてからもうしばらく進むと、家の数も増えてきて村らしくなってきた。
「あの家だ」
チャスが指したのは、周辺の家と特に変わるところのない茶色い土壁のこじんまりとした家だった。
「おーい、イルゲ、いるかー?」
家を覗き込んでチャスが呼ばわると、すぐに返事があった。
「いるよ。お入り」
年配の女性の声だ。
がくがくする脚を励ましながらチャスについて入った家は、かなり薄暗かった。けれど中の空気はさらりと澄んでいる。
入ってすぐの部屋を横切り、チャスは奥にかかっていたカラフルな布を押し上げた。
布の向こうには小さな部屋があった。壁には鮮やかな布がそこかしこに掛けられている。床には布が敷かれてクッションが転がり、もし明るかったら極彩色に囲まれて目がちかちかしそうだ。
その部屋の奥、布に埋もれるように女性が1人座っていた。
顔にも服から覗いている手にも、深いしわが刻まれている。
「これはまた、珍しいお客さんを連れてきたもんだね。さ、適当にそのあたりに座っておくれ」
イルゲに言われてチャスが早速靴を脱いであがりこみ、イルゲの斜め前あたりであぐらをかいた。ランバートは座っていると落ち着かないからと、入り口近くの壁にもたれて立つ。
それに続いて絵里が小部屋に入って、すみっこのほうでちんまりと正座すると、ユエンは絵里の隣に膝を抱え込むように座った。
イルゲは4人の様子を眺めていたが、やがて絵里の上に視線を留めた。
「名前を教えてくれるかい?」
「絵里……小坂絵里です」
「どこから来たんだい?」
「日本……こことは別の世界です。あの、わたしの言葉、通じてますか?」
ふと心配になって尋ねると、ユエンが小声で答えた。
「通じてなくても大丈夫。だから答えてて」
なにが大丈夫なのかわからないが、ユエンがそう言うから絵里は問われるままに質問に答えて行った。聞かれるのは、朝は得意かとか、なにが楽しいかとか、絵里の聞きたいのとはまったく関係なさそうなことばかりだ。
絵里への質問を終えるとイルゲはランバートにも、短い質問をいくつか投げかけた。
こちらも、利き手はどちらか、嫌いな食べものはあるか、などというたわいない質問ばかりだ。
それを聞き終わるとやっと、イルゲはチャスに今日はなにが聞きたくて来たんだいと尋ねた。
「こいつのことが知りたい。ここにいるわけ、なにができるか、なにをすることを期待されてるか、そういう感じのこと」
「そうかい。知りたいことが見えるかどうかわからないが、今晩にでもさっそくやってみるとしようかね」
「ああ。手間かけるが頼む」
どうやら今すぐになにかわかるというのではないらしい。
イルゲとチャスのやり取りを聞きながら、絵里は肩透かしなような、すぐになにかと直面せずにすんでほっとしたような、複雑な気分になった。
「あんたたちの夕飯の支度は頼んであるから、食べておゆき。隣の空き家の掃除は昼間に済ませてあるから、今晩はそこに泊まるといいよ」
イルゲの言葉にチャスはありがとうと礼を言っているけれど、絵里は内心あれっと思う。
(夕食っていつの間に? 昼間に掃除をってどういうこと?)
けれど絵里がそのことを聞くより前に、イルゲは姿勢を改めて言った。
「夕食ができるまでまだ時間がある。それまで、今のあたしが知っていることでも話そうかね。――魔王退治の話でも」
ふわふわと逸れていた絵里の意識は、途端にイルゲに向かう。
「実は魔王との付き合いは、かなり昔からのものでね。魔王をどうなだめて世界を存続させるかは、ずっと昔から頭の痛い問題なんだよ」
イルゲは絵里の視線を受け止め、ゆったりと話し出した。
「あるとき突然魔王が現れ、世界を破滅の寸前まで追い詰めた。多くの人々が挑んだが、だれも魔王を倒すことはできなかった。そんなとき、王族の1人が勇敢にも魔王に立ち向かった。歯が立たず魔王に飲み込まれてしまったが、その直後に魔王は深い深い眠りに落ちた」
薄闇に沈んでイルゲの表情はわからない。ただ口調は穏やかだ。
「魔王が眠りに落ちたため、世界はまた平穏を取り戻した。だけど何十年かして、再び魔王は目覚め、世界に魔のものが溢れ人々を襲った。どんな剣も魔法も魔王には効かない。けどね、このときも王族が喰われた途端、魔王は眠りについた。そして人々は気づく。魔王をおとなしくさせるには、王族を喰わせればいいんだと。それからの討伐隊は、ただ王族を眠り薬として魔王のもとに運ぶだけの役割となった。それを隠すため、旅には語り部が同行し、都合のよい英雄譚を作り上げて世間に広めるようにもした」
「討伐隊はただ時間を稼ぐことしかできない……騎士団の役割は、王族を魔王の住まう山に連れてゆくこと……なるほど、そういうことか」
唸るランバートにしばし顔を向けたあと、イルゲはまた話し出した。
「そのうちに、王族といっても血の薄い者では魔王を眠らせる時間が短いこともわかってきた。血は濃ければ濃いほど、長く魔王を眠らせる。ま、今回の旅に同行している姫さんでは、10年がいいとこだろう」
絵里は息をのんだ。
なんとなく昔話として聞いていたが、討伐隊の目的が王族を魔王のもとに連れてゆくことならば、今回の旅はミュリエル姫を魔王を食べさせるためのものとなる。
(お姫様は知って……るんだろうな)
絵里を逃がそうとしたとき、ミュリエル姫が見せた必死の瞳。自分がこの国を救うと言ったあの言葉の意味が、やっとわかった。
「魔王が起きるたびにこんなことをしていれば、やがて気づく人が出てくる。血の濃さによって魔王が蘇るまでの期間が違うこと、討伐隊に参加する王族はいつも帰ってこないこと。次までの間が10年しかなければ、なおのこと気づかれやすい。これまで一部の間でだけ知られていたことが、世間にも広がってゆく」
10年前のことなら記憶に留めている者は多い。その次がどのくらい持つかはわからないが、その期間が短ければ前回、前々回の討伐と重ね合わせて考える者もでてくるだろう。
「だけど今回、それに名案を出した者がいた。討伐隊を率いるのと、魔王に喰わせる王族を別にすれば良い。討伐隊を率いるはずの王族は大切に守られ、すべてが終わったあと魔王を退治した英雄として国に凱旋する。その案を出したのは貴族でもない役人のせがれだが、頭の回転が良い子らしくてね、ブランドンにいたく気に入られてどこぞやの貴族の形ばかりの養子になり、討伐隊の指揮をとることになったそうだよ」
絵里の脳裏には、アダルバード王子やブランドン、ハイラムの顔が次々に浮かんだが、なにをどう考えればいいのかわからず、ただ呆けるばかりだ。
「その子が出した提案はそればかりじゃない。この世界の者では倒せないのなら、どこからか魔王を倒すための力を喚べないものか。神殿学級のときに耳に挟んだ噂をもとに神殿に詰め寄り、召喚の秘儀を使うよう要請した。それが成功したのか失敗したのかまでは知らないけどね」
そこまで言うと、イルゲは顔をあげた。ちょうどそこに声がかけられる。
「イルゲ、夕食の用意ができましたよ」
「さ、あたしのひとりごとを聞いて腹が減っただろう。食事に行こうかね」
どっこらしょと立ち上がるイルゲに、両側からチャスとユエンが素早く寄ってその動作を助けた。
空腹どころかまったく食欲がなくなった絵里は、ただ黙々と3人のあとに従い、ランバートも無言で絵里の後ろに続いた。