第117話:老師の餞別
大槍に見立てた白木の棒を使った稽古を始めて、いったいどれくらい経っただろうか。
正確な日数はわからない。日にちを確かめる術もなく、ただ朝が来て夜が来る。
そんな規則正しい日々の中で、手のひらにできた豆が潰れては固くなり、それを何度も繰り返すうちに、自分の中で確実に何かが変わり始めているのを感じていた。
最初は、たった三十回突いただけで限界だった。
それが今では、息一つ乱さずに百回連続で突き続けられる。
「だいぶ身体で覚えてきたの」
老師がそうぽつりと口にしたのは、三日前のことだった。
滅多に人を褒めないあの老師が、自分を認めてくれた。その一言だけで、これまでの努力が報われた気がした。
突き切った瞬間、すっと力を抜く。
その感覚が、身体の奥深くまで馴染み始めていた。波が岸に打ち寄せ、しなやかに砕けていくような感覚だ。
老師の言葉を思い出すたび、胸の奥がじんわりと温かくなった。
内功盤根の套路も、毎日欠かさず繰り返している。
円を描くような独特の動きは、最初のうち、形意拳の直線的で鋭い動きとはまるで噛み合わなかった。自分の身体なのに、自分のものではないような違和感ばかりがつきまとっていたのだ。
それでも愚直に反復を続けるうち、少しずつ変化が現れた。
相反する剛と柔。その二つが徐々に溶け合い、以前よりも滑らかに連動し始めていた。
そして、その日の稽古が終わると、老師はのっそりと浜辺へ出ていった。
巨大な白狼のロンが、ぴたりとその隣を歩いている。
リュウジィも肩の汗を拭いながら、二人の後を追った。
浜辺に出た老師は、目の前に広がる海を静かに見つめていた。
「そろそろじゃな」
「何がですか?」
「潮の変わり目じゃ」
老師は水平線から目を離さずに答えた。
「この海域の潮は、二ヶ月から三ヶ月に一度だけ流れが大きく変わる。そのタイミングに合わせて筏を出せば、サウザンアイランドへ向かえるぞ」
リュウジィは思わず目を凝らし、海を見つめた。
言われてみれば、確かにいつもとどこかが違う。打ち寄せる波の音も微妙に変化しているし、頬を撫でる風の向きも昨日までとは少し違っていた。
「それって……いつ頃ですか?」
「三日から四日後じゃろうな」
「三日から四日……!」
あまりにも急な話に、リュウジィの鼓動が跳ね上がった。
もうすぐ、この島を出られる。
その事実を実感した途端、離れ離れになった仲間たちの顔が次々と脳裏に浮かんだ。
タツヨ、ミライ、バッド、カエデ、ハク。
みんなに早く会いたい。
ようやく帰れる日が見えてきた。リュウジィは期待に胸を膨らませながら、改めて海の向こうを見つめた。
「で、あの筏の具合はどうじゃ」
「先週しっかり組み直しました。多分大丈夫です」
「バカモン、多分では困る。明日もう一度隅々まで確認しろ」
「うぐっ……はいっ!」
せっかく旅立ちの話で気持ちが弾んでいたのに、すかさず飛んでくる厳しい指摘。
やっぱり最後まで気が抜けない。
リュウジィは思わず肩をすくめた。だが、筏に不備があれば、せっかくの潮の変わり目を逃しかねない。ここは素直に従うしかなかった。
老師はしばらく黙ったまま、潮の満ち引きを眺めていた。
やがて、静かに口を開く。
「お前はここへ来た時より、だいぶ変わったぞ」
リュウジィは意外そうに目を瞬かせ、老師の横顔を見た。
「そうですか……?」
「目が変わった。最初は焦りと不安ばかりが目立っておったが、今の目にはそれがない」
リュウジィは、もう一度海へ視線を戻した。
もちろん、焦りが完全に消えたわけではない。一刻も早く仲間たちのもとへ帰りたいという気持ちは、今も変わらず胸の奥にある。
ただ、この孤島に流れ着いた最初の夜のように、先の見えない不安に押し潰されることはなくなっていた。
今、自分にできることを一つずつ確実にこなしていく。
そう考えられるようになったのは、毎日の稽古を通して、自分自身の成長を実感できたからかもしれない。
「……老師のおかげです」
リュウジィが素直に感謝を口にすると、老師はフンと鼻を鳴らした。
「わしはきっかけを教えただけじゃ。変わったのは、他でもないお前自身の努力じゃよ」
その言葉を聞いていると、足元にいたロンが、冷たい鼻先をリュウジィの手にすり寄せてきた。
「おっ、ロンもそう思うか?」
リュウジィは頬を緩め、フサフサの頭を優しく撫でた。
ロンは気持ちよさそうに目を細める。
その様子を眺めていた老師が、ふと思い出したように口を開いた。
「ふむ……お前はわしの最後の弟子になるからの。餞別でもくれてやるとするか」
「餞別?」
リュウジィが首を傾げると、老師は懐から長い年月を経た小さな箱を取り出した。
そして、カタリと蓋を開ける。
中には、精巧なシルバーの指輪が二本、並んで収められていた。
銀色の表面には、実に細かな龍の模様がびっしりと彫り込まれている。
「これは……一体何ですか?」
「昔わしが愛用していた物じゃ。お前の着ているその防具と同じようなものじゃよ」
「えっ……気づいてたんですか!?」
リュウジィは驚いて、ファフニールの力を秘めた自分の衣類を見下ろした。
これまで特に何も言われなかったので、てっきり気づかれていないものだと思っていたのだ。
「当たり前じゃろ、何年生きていると思っとる。……だが、厳しい鍛錬の最中にその便利な力に頼らなかったのは、なかなか大したもんじゃ。褒めてやる。この指輪にも強い竜の力が宿っておるが、同じ竜の属性同士だから好転反応の拒絶もないじゃろ。さあ、両手の人さし指にはめてみろ」
「は、はい……!」
老師に促され、リュウジィは恐る恐る二本の指輪を手に取った。
銀色の輪を、両手の人さし指にはめる。
――次の瞬間。
全身の神経を突き抜けるような強い電流が走った。
「うわっ!?」
頭の中で何かが弾けたような感覚に、リュウジィの肩がびくりと跳ねる。
『キイィィィィィッン!』
内なるファフニールが歓喜の声を上げるように共鳴した。
凄まじい波長が体内でぴたりと合致し、全身を駆け巡っていく。
やがて荒々しい波動はすっと収まり、代わりに不思議なほど静かな全能感が満ちてきた。
「……っ! これ、本当に何なんですか!?」
リュウジィは両手を掲げ、指輪を交互に眺めた。
見た目は綺麗な銀の指輪なのに、身体の内側で起きた変化はとんでもない。
「ニーズヘッグリングじゃ。それを装着して発勁を放つと、不思議と体力を消耗しにくくなり、おまけに威力が相手の体を綺麗に撃ち抜くようになる。極上の純正な発勁を連発できるようになるわけじゃな」
「ええっ!? そんな凄すぎる国宝級のアイテム、本当に貰っちゃっていいんですか!?」
リュウジィは目を丸くした。
体力を消耗しにくくなるうえ、発勁の威力まで上がる。そんな凄い指輪を、まさか自分が譲り受けることになるとは思ってもいなかった。
「構わんと言っておろう。どうせわしはもう使わんからな」
老師は、当然といった様子であっさりと言い切った。
「……ありがとうございます!」
リュウジィは背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
指輪はこれから大きな助けになるだろう。それ以上に、老師が自分を弟子として認め、餞別まで贈ってくれたことが嬉しかった。
三日後には、この島から旅立つ。
この島に漂着したときは、まさかこんな日が来るとは思っていなかった。
遭難そのものは災難だったが、そのおかげで老師という偉大な師匠に出会えた。強力な内功盤根を伝授され、ニーズヘッグリングまで譲り受けることができたのだ。
人生というのは、どこでどう転がるか、本当にわからないものだ。
「明日も稽古はあるぞ。遅れるなよ」
老師はそう告げると、クルリと踵を返して歩き出した。
「はいっ!」
リュウジィは元気よく返事をした。
そして、もう一度、広く静かな海へと目を向ける。
果てしない水平線の向こうに、サウザンアイランドがある。
どこにいるかもわからない自分を、タツヨは今も探してくれているはずだ。
一刻も早く、みんなのもとへ戻らなければならない。
リュウジィは両手の人さし指にはまった銀の指輪を見つめ、それから海の向こうへ顔を上げた。
「待ってろよ、みんな……もうすぐ帰るからな!」
力強い波の音が、リュウジィの決意に応えるように響き続けていた。
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