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Ep.49「初戀」

 お風呂に出ると、寝間着の代わりに浴衣が用意されていた。着付けは(すい)君にしてもらった。

 翠君は「夕飯頼んでくる」と言って本家へ向かった。ボクは自分の部屋に戻ろうとしていた。そこで、「……鍛練、ですか」という皇彌(おうみ)さんの声が聞こえて足を止めた。

 曲がり角の向こう側、ちょうどボクらの部屋の前に誰かが座っていた。

 角から少し顔を出して窺うと、皇彌さんと凛彗(りんぜ)さんだった。

 ふたりは並んで縁側に腰かけている。ボクが覗いた側に凛彗さんが見えた。


「……うん」

「あなたの口から鍛練なんて言葉が出てくるとは思いませんでした。――どんな心境の変化です?」

「……僕は、まだ弱いから……」

「ほう」

「……君はその才能を努力で勝ち得た人間だ。……だから君に教えを乞うのが最善の選択かな、と思って……」

「さようですか、私は構いませんよ」


 なんだか聞いてはいけない話みたいだ。

 立ち去ろうとしたボクの耳に皇彌さんの「心境の変化と言えば遊兎都(ゆうと)君のことです」と入ってきて、思わず立ち止まった。


「あなたが自分以外の誰かを傍に置いておくことを許すだなんて……私は驚きましたよ」

「……」

「私の記憶するあなたという男は驚くほど独占欲が強く、こと遊兎都君に対しては人一倍の執着を持っている人間だったはず。遊兎都君がいかに万人に好かれる存在だとしても、その万人を拳で黙らせるのがあなただったのでは?」


 皇彌さんの言葉は真実だ。

 会ったときの凛彗さんはずっとボクの傍にいたし、寝て起きてボクがいないと機嫌が悪かった。

 今も変わらないけれど、昔のほうが固執していた――ように思う。


「……君の言う通りだよ」


 そう返す凛彗さんはどこか弱々しかった。

 聞かないほうがいいと思うのに、足が動いてくれなかった。


「……僕は確かに遊兎都の傍に僕以外の誰かがいるのが耐えられない。あの子の目に僕以外が映ることも、あの子の肌に僕以外の誰かが触れることも……気が狂いそうなほど、嫌だよ」


 心臓が強く掴まれるような衝撃だった。

 風呂で温まったはずの体が、急に冷えていく。


「ではなぜ……遠瀧(とおたき)蜜波知(みつばち)の存在を許しているのです? 利用価値があるからですか?」


 皇彌さんの怪訝そうな声が問う。

 ほんの少しの沈黙。風の通る音の後、凛彗さんが口を開いた。


「……最初はそうだったよ。……でも、気づいたんだ。……僕ひとりだけであの子に与えられる幸福には限りがある、と……」


 幸福。

 凛彗さん――凛兄ちゃんがずっと願い続けたモノ。

 自分の、ではなくボクの。


「僕は嫉妬の激しい人間だ、それは僕自身もわかっている……。でも、だからといってあの子を僕に縛り付けるのは違う……〝誰にでも好かれる遊兎都〟。……それもまた遊兎都だから。……僕がそれを否定することはあの子自身を否定することと同じなんだ……。――そんなの、僕にはできない。そういうあの子だからこそ、僕に振り返ってくれたとも言えるしね……」

「――だから、許すと?」

「……僕がそれを決める立場にはないよ……。あくまで決めるのは遊兎都だ。……遊兎都の決めたことに間違いはない。彼の想いは何よりも重んじるべきものだから……それに」

「それに?」

「……僕が一言、蜜波知君との関係を嫌だと口にすれば、あの子は悩むだろう。苦しむだろう。……僕はそっちのほうが耐えられない。……あの子を苦しめる存在には、なりたくないんだ……」


 声がくぐもった。

 凛兄ちゃんはずっと葛藤していたのだ。

 ボクが誰かを好きになるたびに、彼の心が悲鳴を上げるのをボクのために耐えていてくれた。

 みんな、ボクのために辛いことを我慢している。

 苦しむ姿を隠している。

 ボクは――、


「ままならないのがひとの心ですよ、凛彗」

「……え?」

「なろうとした自分など、なれません。それは私が過去に経験しています。努力したとて、もとある性格を矯正するのは無理です。――であれば、受け入れて昇華してしまえばいい」

「昇華……?」

「あなたの利点にすればいいのです。その独占欲も嫉妬もひとえに遊兎都君を強く想うがゆえでしょう――でしたら、開き直って彼を守る獣になりなさい。獣は本能で動きますから、誰にも文句は言われないでしょう」

「……」

「中途半端に聞き分けのいい大人になるくらいなら、聞き分けの悪い子どものままのほうがよっぽどいい。あなたが苦しいと知れば、同じように苦しむのが遊兎都君です。――変に気を遣うのはよしなさい、遊兎都君のあなたを想う覚悟に対して失礼です」


 皇彌さんの言葉が強かった。


「……皇彌君……」

「自分を好いている人間をふたりまとめて受け止めようとすることは、なかなかできません。同じだけ愛を返すのも相当な苦労でしょう。……でも選んだんですよ、遊兎都君は。切り捨てることなく、平等に相手を想うという至難の技を成し遂げようともがいているのです」

「……君は……」


 凛兄ちゃんはそこで言葉を区切った。それから、「……皇彌君、もし翠玉(すいぎょく)君からほかにもうひとり好きなひとができた、と言われたら……どうするの?」と訊ねた。

 翠君はそんなことありえないと言っていたけれど。

 すると皇彌さんは間を置かずに、「愚問ですね」と鼻で笑った。


「――この皇彌が、その程度のことで臆するとでも? あの子をどれだけ想い、そして愛しているか相手にもあの子にも思い知らせて差し上げますよ。それでも立ち向かうようなら受け入れましょう」


 皇彌さんの言葉は自信に満ち溢れていた。同時に強い独占欲も垣間見える。生半可な気持ちならば容赦しない、という風にも聞こえた。

 ほどなくして笑い声が聞こえた。凛兄ちゃんのものだ。『神霧教(しんむきょう)』の本部で聞いたのとは違う、楽しくてついこぼれる笑い方だった。


「……ふふふっ……皇彌君は若いね……若くて眩しいよ……」

「年齢差はあまり関係ないと思いますよ。単に私は自分がどういう性質を持っているかわかっているだけですから」

「性質……?」

「ええ」


 性質、ってなんだろう。

 でもこれ以上はちょっと、ボクが聞いていい範疇ではなさそうだな。

 そう思って踵を返そうとしたところで――


「――申し訳ございません、湯冷めしてしまいますね」

「あっ」


 バレていた。明らかにボクに向かって言っている。

 盗み聞きするつもりはなかったが結果として盗み聞きになっている。ヤケクソになって「……すみません」と顔を出した。凛兄ちゃんは驚いていたけれど、すぐに微笑んで「……おかえり」と言ってくれた。

 皇彌さんはボクの隣に翠君がいないことに気づいて、「おや……翠玉は、本邸ですか?」と訊ねた。ボクは「はい、食事を頼んでくる、と」と答える。


「さようでございますか。では私も手伝いに参りましょう」

「……あ、だったらボクも……」

「お客様の手を煩わせることはできません、それに」

「え?」

「――あなたにはやることがある」


 皇彌さんに言われて、ボクは口を噤んだ。彼はそれから胸に手を当てて一礼し、ボクの横を通過していく。あ、翠君が首輪を欲しがっていたこと、伝えた方がよかったかな……。

 その背中を数秒眺めて、ボクは後ろを振り返った。

 蜜波知さんはまだ温泉だろうか。部屋にひとがいる気配はなかった。

 凛兄ちゃんがひとり、縁側で項垂れている。

「凛兄ちゃん」と声をかけると、弱々しい声で「……情けないな」と彼は言った。


 寂しげな横顔。

 哀しみに沈んだ紫苑色を隠す、長い睫毛。

 吐息みたいに落ちる声。


 ――ボクはこのひとを超人だと思っていた。

 それこそ、紫乃盾晴矢のように、怪物のように感じていた時期もある。

 でも、そうじゃない。このひとは、同じだ。

 ()()()()()()()()()()()


 強い部分もある。弱い部分ももちろんある。

 笑ったり怒ったりするように、苦しんだり悩んだりもする。

 ボクはこのひとのことが好きだ。好きだからこそ、そういう弱い部分に手を伸ばして包んであげたいと思う。

 このひとがボクにそうしてくれたように。


「……いいんだよ」

「え?」


 ボクは座る彼を横から抱き締めた。


「……遊兎都……?」

「いいんだよ。わがままでも、嫉妬しても。弱くても強くても。ボクはそのままのあなたが好きだから、ボクのためにたくさん悩むあなたも、強くあろうと努力するあなたのことも、大好きだから……。でも、かっこよくしていなくちゃ、なんて思わないで。――ボクの前で無理しないで、凛兄ちゃん」

「……ッ」


 凛兄ちゃんは、いつだってボクにやさしいひとだった。

「ユウ君」って呼んで頭を撫でてくれて、時折おでこに口づけてくれた。「げんきがでるおまじないだよ」って言って、微笑む彼が好きだった。

 あっちに花が咲いていた、とか川に魚が泳いでいる、とか自分が見つけたいろんなことをボクに教えてくれた。

 そのたび世界に色がついた。鮮やかで眩しくて、でもきれいだった。

 万華鏡を一緒に覗き込むみたいな気持ちだった。

 幸せはガラスの万華鏡、それは凛兄ちゃんがはじめてボクにくれた宝物。

 汚したくなくて、閉じ込めた大切。


「……ユウ君」

「誰かがボクを愛してくれるならそれに答えてあげたいと思う。でも、答えると決めたら貫き通すよ。好きになると決めたなら、絶対に裏切らない」

「……」

「それでもボクを独占したいと思うなら」

「……うん」

「思い出して、これのこと」

「っ」


 ボクは彼の手首を掴んで、首元へ導いた。

 その先にあるのは首輪だ。

 彼がくれた所有の証。

 あなたのものだっていう、証明。


「ボクの初恋はずっとあなただよ、凛兄ちゃん」

「……ユウ君ッ」


 凛兄ちゃんは態勢を変えて、ボクに抱き着いてきた。情けない限りだが、受け止め切れずに尻餅をついてしまった。ぎゅう、と力がこもる。あたたかい。


「……ありがとう……、ユウ君……」


 首筋に顔を埋めたまま、凛兄ちゃんは言った。

 お礼を言うのはボクのほうだよ、と返そうとして、鎖骨のあたりにぽとりと何かが落ちる。

 ――あ。


「……ッ、……ぅッ」

「……凛兄ちゃん、ごめんね」

「……んッ……」

「……ボクのために、ありがとう。……ずっと、大好きだよ」

「……ふぅ……ッ」


 ボクは凛兄ちゃんの頭を撫で続けた。

 凛兄ちゃんはずっと、声を殺して泣いていた。

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