12話-B 逃走
駅から車に戻り、俺と加瀬森は一度本部に戻って今までの情報をまとめる事にした。速度メーター付近の電子時計は22時。2年前にズレて以来直すことを先延ばしにし続けているので、今は22時半という事だ。
俺たちの就業時刻はもう既に過ぎているが残業代など俺たちに出る筈も無い。
つまり今からやる事は慈善事業という事になる。
善行の対象が市民であれば喜んで…とまではいかなくとも、ある程度はケジメをつけて割り切れただろうが、これで助かるのは一課なのだ。今回は先手を打っておいたので、これであのアホ共も他人に蔑んでいる人間に、いい様に振り回される事の苦労を理解する事だろう。
車を走らせながらゆくりなく隣の加瀬森を見ると、正面を見たままうつけた様に座っている。
一昨昨日に初めて出会ったときから、何かを考えている素振りをし、すぐに俯き、また何かを考える様な素振りを繰り返す所を度々見かけることがあった。資料の整理の合間にも茫然自失の様な姿を加瀬森は見せており、ただ気味が悪い奴と思いながらなるべく見ないようにしていた。
だがその顔を注視してみるとどこか儚げで、整った顔立ちと相まってガラス細工を連想させた。
コイツなり色々何か思う事があるのだろう。
「あー…夕食そういえばまだだったな。どこか寄るか?」
気晴らしを兼ねてそう提案をしてみるが、返事は無い。
「おい、加瀬森?」
「えっ…あ、はい。どうかしましたか?」
「どうもこうも…まぁいいか」
寝起きの様に声に覇気が感じられないのが引っかかったが、深く考えるのをやめておく。取り敢えず今は飯が優先だ。
「夕食まだだからどっか食べに行かないか?俺も腹減って死にそうなんだよ」
「いいですね。どこ行きます?焼肉とか?」
「事が解決したわけでもねぇのに行くわけないだろ。ガストかコンビニだ。どのみち今はそこぐらいしかやってないしな」
「じゃあこの事件が終わったら連れていって下さいよ、焼肉」
「その事件が一課ですら解決できないから、俺たちに皺寄せが来てるんだがな…」
そんな約束を取り交えているとスマホの着信音が流れてきた。画面を見ずとも相手は分かる。
「すまん、ちょっとその電話出てくれないか?ちょっと今は手が離せないからな」
「私がですか?別に構いませんが…」
加瀬森が俺の携帯を手に取り、対応する。
「はい、もしもしこちら愛知県警察本部資料員の…あー、はい。…いえ、今は運転中で…….分かりました」
程なくして、加瀬森は自分の耳から携帯を外して俺に差し出してきた。その表情はどこか気重そうだった。
「…どうした?」
「相手の人が"出れるだろ"、と」
「チッ…まぁいいか」
遅かれ早かれ露わになるであろうことは理解していた。先回しにしたところで解決するものではないので出ることにした。
「…はいもしも──」
「お前志原ァ!ふざけてんのか!!」
出るなり、画面越しにガビガビの怒鳴り声が途切れながら聞こえてきた。
「腹の虫の居どころが悪いらしいな。どうかしたか?」
「どうもこうもねぇだろ!お前勝手にほっつき歩きやがって!」
「まずは自己紹介しねぇか?そんな怒り狂ってても埒が明かないだろ?」
「坂梅だ!一課の坂梅!お前勝手に人身事故で現場に向かったろ!それのせいで三上がその補填をするハメになっちまったんだよ!現場からは既に2人組の警察が入ったと!コレお前らだろ!」
「あーやっぱりお前か」
坂梅というと、たしか俺がまだ一課にいた頃の同僚だ。いつも苛ついた様な態度で、常に他人とは一定の距離があり接し難い人間だった。故に激情的で雰囲気こそ木場に似ている。だがアイツのように嫌味たらしく、具体性の無い人間性を否定する説教を口に出すわけではなく、ただ四六時中仕事のことを考えていた。
そんなバカ真面目で一直線な性格の坂梅と捻くれ者の俺は、昔からそれなりに上手くやっていけていた。
ただそれは俺から見たらというだけで、向こうも飛ばされた人間など最早眼中にないのだろう。
「なんだよ、たかがそんな事で…別にいいだろ?どうせ後から別の誰かが来ることになってたみてぇだし」
「たかがだと!?テメェの失態をなんでこっちが態々引き受けなきゃならねぇんだよ!」
煽り気味の俺の言葉が火をつけたのか怒号を交えながら憤る坂梅。これほど逆上していると自ずと笑いが込み上げてくる。
「失態とは失礼な奴だ。こちとら色々と方針があるんだよ。お前らみたいに考えるだけでいつまで経ってもその腰をあげようとしない阿婆擦れと一緒にされちゃ困るな」
「ハッ!方針だと?ただでさえ役に立たないお前が何かを考えてやる事があるのか?」
「生憎様こっちも1人じゃないんでね。それなりに上手くはやれてるぞ」
「確かお前らは増田とかが送った残飯処理と例の連続殺人を任されてるだったな。要はその件に進展があった、てこといいんだよな?」
「それは…」
直接的な証拠こそ掴めなかったが、繋がりを掴むこと自体には成功している。
連続殺人が起きた同じ月に、関連する人間が死んでいる事。それらの被害者には不自然な傷があった事。そして今回の人身事故の被害者が改革派の人間であったこと。一括りに"偶然"で片付けるにはあまりにも不可解だ。
これらを三上達一課に伝えれば、自分に押された無能という烙印を挽回できるかもしれない。
だが、その掴み取った情報を一課に開示する訳にはいかない。
「なんだよ。虚勢か?」
「虚勢じゃない。証拠はあるが伝えられない」
「それを虚勢っていうんだよ。おつむが足りてない馬鹿との会話は疲れるな。お前のとこの後輩も失礼極まりねぇし。本庁のお偉いさんもあんなののどこに魅力を感じたんだか」
「まったくだ。何も考えずに他人が作った道を歩いていくだけの人間にはなりたくないな」
「そうやって強がってろよ。処遇については追々届くだろうからな。覚悟しとけ」
「お前がする訳でもないのに随分と饒舌だな」
「三上が折角お前の事一本釣りしたってのに…時間の無駄だったみてぇだな。何のために俺が…」
無駄に長い捨て台詞の途中で坂梅との通話は切れた。
「…どうでした?」
「言いたい放題。分かってはいたがな。あとで懲戒の詳細を送るとさ」
「懲戒…ですか」
「まぁなんだ。停職くらいで凹むもんでもねぇよ。仮にお前くらい能がある奴なら三上が気遣ってくれるだろうよ」
「…はい」
慰めのつもりだったが、落胆した加瀬森の表情は変わらなかった。
やはり他人が弱みを見せた様なとき、俺はどうすればいいか分からない。即座に"使える"と思ってしまう辺り、本当にどうしようもないのだろう。
警察失格以前に、人として失格だな。
すっかり夜が更けあと小一時間もすれば次の日を迎えるというときに、俺たちはまだ明かりが灯っているファミレスに車を停めた。
店内に入るとまだ人は疎に残っており、相応の活気が見受けられる。適当な席に座りメニューを開くと、コンビニ飯より数倍も美味そうな料理が目に飛び込んできた。
「私決まりました」
「もう決まったのか?」
加瀬森はもう注文が決まった様で、オートミールの写真が並んだページが開かれていた。
ベルを鳴らし料理を注文する。
「ごゆっくりどうぞ」
店員が一例をして厨房奥へ入っていくのを見届けていると、加瀬森がルーズリーフを出し始めた。
「どうした?」
「今までの事を忘れずに整理をしておこうかと思いまして」
「それはいいが、周りから見えない様に気をつけておけよ」
加瀬森は頷きながら、捜査に関する情報を記し始めた。その熱意溢れる姿を見るたびに、この熱意が常に正しい方向に向き続けているのは確かなのだろう。ほんの少しだけ穏便さと譲歩することを知ってくれれば、すぐにでも三上が一課に帰任の力添えをし、最前線で活躍できるだろう。それを三上本人が渋っているということは恐らくアイツなりにも理由がある筈だ。
そもそも三上は課の実績か評判のどちらかを潔く取捨選択出来る人間ではない筈なのだ。アイツは自分が持つ情けのせいで、人事評価に関してはかなり消極的な所がある。その性格のおかげで俺が資料員という立場に踏みとどまれたのだから。
その点を考慮すると、それなりに立場がある一課が加瀬森の事を降任させたと考えるのが通常だ。仮に泉の様な中堅や下っ端が加瀬森の悪行を人事に報告しようとした所で、「嫉妬心から」「確約されていない新人という立場の焦り」と、取り合って貰えない可能性が高い。ならば加瀬森より立場は上かつそれなりに実積のある人間、つまり発言力がある者に絞られる。
仮に三上がこの左遷の決定をしたとしても、加瀬森の様な優秀な人間をみすみす「資料員」などという不名誉な部署に送るだろうか?三課に落とされたのなら、それはまだ三上の情けがかかった一時的な懲罰降職と理解ができるが、左遷部署に送られればそれだけでキャリアに傷が付く上、一課に復帰させる事への大きな足枷となってしまう。それはアイツの情けを掛けるモットーからは外れている上、優秀な部下を自ら遠ざける事となる。
確かに加瀬森の言動の酷さは際立つのは確かだ。だが、一課の第一線で働ける能力と照らし合わせれば裕にお釣りがくる。無論、これは俺から見た能力と不行儀の天秤なわけなので、人によっては違いはあるだろう。だが、これを三上がやったとはあまり考えづらい。
となるとそれなりに優秀だが、加瀬森の秀でた才能が邪魔な人間が加瀬森を左遷したと考えられるのではないだろうか。
目の前でペンを走らせている本人を達観しながらあれこれ思索していると、車内で怒号をこれでもかと浴びせてきた坂梅の言っていた事が頭に浮かんだ。
そういえばアイツは確か、加瀬森の事を良くは思っていなかったはず。携帯を渡した時の打ちのめされたような表情から察するに、何かしら罵り言葉を言われたりでもしたのだろう。
「なぁ、加瀬森」
「はい?」
「…いや、やっぱり何も無い」
「はあ…」
いくら加瀬森といえども左遷された理由をはぐらかすことも無く、本人に聞くというのは流石に愚直が過ぎる。それに特段こいつがタフなメンタルの持ち主では無い事など、ここ数日で十分認知できた。寧ろセンチメンタルな一面が、淡白な性格の背後で見え隠れする瞬間を今日は何度も目にした。
「調査に関して何か思いついたか?」
「そうですね。現状はやはり他殺という可能性がかなり高いです。あの駅で見た様に…」
そこまで言いかけて加瀬森の顔色が途端に青白くなっていく。あの凄惨な光景を思い出してしまったのだろう。食事前だというのに災難だ。
「まだ慣れないのかよ」
「…あんなのに慣れている様な人は、人間として大切なものが欠如している様な気がします…それで、撮影した写真を見ていたのですが気になるところが1つ」
加瀬森は目の前に血の残穢が映ったスマホを、視線を逸らしながら差し出した。
「よく見てください。血溜まりの跡に規則的な筋があるじゃないですか。恐らくは足跡だと思うんですが」
「たしかにそう見えるな。しかも1人だけじゃないな」
言われた通り、駅ホームに残った血痕には靴の様な跡が見えた。それも無数に。
「跡の形状から察するにシューズと革靴でしょうか?あのお婆さんからの証言と照らし合わせると犯人である男が矢矧さんと揉めて…いや、でもそれだと女性と不自然な血痕で辻褄が合わない…」
「夫婦だったとかじゃないのか?相手は議員なんだろ?婦人っていうのもあるんじゃないか」
「それだと婦人さんは誘拐されたという事になります。お婆さんが言っていたじゃないですか…いや、ちょっと待ってください。婦人以外ならどうでしょう?例えば娘だとか」
「なるほどな。それだと他殺の件でも繋がるな。突き落としたのは亡骸から傷痕がバレるからかってことか」
「どうでしょうか?」
加瀬森は目を見開きながらこちらを見つめた。
「悪くはないと思うが…不安要素がちょっとあるな」
「不安要素、ですか?」
「ああ。1つ目はあの婆さんに関してのこと。まだ俺たちはあの婆さんが言ったことが本当かどうか分からないっていう点で、証言だけを主軸にした調査をするのはあまり乗り気じゃない。もし仮に一人の老人の戯言だったら全部パーだからな」
「まぁ妥当ですね。相手から伝えられた事を一方的に鵜呑みにするのはリスキーですし」
加瀬森は特に反論するわけでもなく頷く。思いの外聞き分け良かった。
「それと情報量だな。これは今お前がやってる様だから大丈夫だろうが改革派殺人事件に関してもそうだが、裏で起きてる矢矧含めた3人の不自然死についての資料を現段階で整理しておくべきだ。」
「任せて下さい。事務作業は得意なので。署に戻ったら後で例の血痕の写真を現像しておきます」
「ああ、助かる」
調節こそ不可欠だが、ある程度コイツに仕事を振って自信をつけておいた方が今後俺の仕事も減るはずだ。坂梅に貶された分の勤労意欲がここで戻ってくれれば尚いい。俺も後で泉辺りに聞く事にしよう。
「それとあともうひとつデカい不安があるが…」
喉の寸前まででかかったがすぐに奥底へ引っ込んでいった。
「どうしました?」
「いや、いい」
「…先程から先輩、何か隠し事してません?」
「ない。ほら、飯来たらそれ閉まっとけ」
厨房奥から丁度店員が料理を運んでくるのが見えた。仮にこの場で説明したとしても、今は余計な憂い事を残すだけだ。もう少し地固めが済んでからの方が都合が良いだろう。
食事終えたあと、俺たちは今後の捜査の方向性を決めた。現段階で事件の本質を推測する為の手がかりが飽和状態なので、今は全く新しい発見ではなく手元にあるものを深掘りしていくことの方が重要だ。
改革派の連続殺人事件と裏で起きている2件の不審死。前者は俺が下手に干渉出来る事ではない上に、進展度合も泉から聞きそびれているので、現段階では不明な点が多い。後者は増田からその不自然な情報をある程度聞いてはいたが、そもそも2つの事件が同一犯、同一集団による犯行かの断定は難しく、まだ十分とは言えなかった。それが今回の人身事故によりこの2種の事件の関連性が確実に高まった。
あとはこれらをどう繋ぎ、どう活かすかが鍵となるだろう。
そんな事を考えながら駐車場に戻り車のエンジンをかけると、妙な排気音が聞こえてきた。
そしてカタカタという音を3,4秒吐き続けた後
プスンッ
気が抜けた様な音が1つ。それから空回りした様な間抜けな音が鳴り続ける。
「嘘だろ」
ここまでの悪運があるだろうか。いや、普段から手入れをしていない自分が悪いのだが。まさかこのタイミングで起こるとは。
2,3回キーを押し込んだり、ギアを切り替えたりして再起を図るがかかりそうも無い。
「先輩どうかしましたか?」
店から出てきた加瀬森が助手席に乗り込むなり尋ねた。
「いや…その、エンジンがかからん」
「言わんこっちゃないですね」
「そもそも中古で買ったノートだからな。劣化だよ、経年劣化」
「手入れが行き届いてないだけです」
全くもってその通りだ。今の今、この大切な時にエンストすると誰が予想出来るだろうか。
「はぁ…こういう時に限って…」
「諦めて呼びますか?他の人とか。多分泉さんとかなら来てくれると思いますよ。捜査資料の作成役押し付けられたから今日は缶詰になる、とか愚痴を溢してたので」
「いや…増田は無駄に律儀だから絶対外に出る時、他の奴に尋ねられたら正直に答える」
「じゃあ増田さんとかはどうですか?そもそもまだいるのか分かりませんけど」
「…アイツはもっとダメだ」
誰かに借りを作ること自体嫌なのだが、普段から自分の私情であれこれ雑務を押し付けてしまっている増田には多少なりとも罪悪感がある。それが世のため人のためと、少なくとも俺の独善的な利益ではないのならまだ分かる。
だが、別件も頼んでいる側面借りっぱなしになる上に、今回みたいな事で容易く呼ぶのは流石に気が引ける。
「すまん、ちょっとエンジン部分見てみるから待っててくれ」
「直せるんです?」
「大体こういうのは叩けば直る」
外に出てエンジンルームを開けると、黒いススの様なモノがスマホの証明に照らされて舞い上がる。最後にここを開けたのは確か前々回の車検更新のときだった。その時はここまで汚れた有様では無かったはずだが。
咳き込みながらもなんとかボンネットを開き、先程から小さく響く異音の発生源を調べる。当然だが、俺は整備士ではないのでさっぱり分からない。ただ今直るか直らないかはあまり重要ではなく、この際は取り敢えず走ってくれればいいという考えに辿り着いた。もっともそれがかえって遠回りになる不安もあるが。
初冬を感じさせる様な冷たい風に打たれながら、目の前で同じ様に震えるエンジン部と四苦八苦している最中、別の異音が聞こえた。まるで何かが裂ける様な音だ。
辺りを見渡してみると、向かい側の歩道で人影が薄らと見える。暗がりの中で目をよく凝らしてみると、数人の人間が通りの店の前で屈み込んでいた。パーカーのフードを羽織ったり、染めた長い髪だったりと風貌から柄の悪さが目立つが、体格から幼さも垣間見える。
ここ最近は警察の夜間巡回のスケジュールが若干ではあるが増えたと聞いたが、未だに空き巣狙いの人間が蔓延んでいるのだろう。
「おーい、ちょっと」
声をかけてみるが、反応は無かった。その代わりに、再度音が聞こえた。今度ははっきりと耳に入った。裂ける音よりかは破れる音だろうか?
「おい!」
寒気故に、自分自身を奮立たせる様な声を出す。すると漸く気が付いたのか、一度こちらに振り返る素振りを見せた。だが、それも束の間、すぐさま建物間の脇道へと走っていった。
一瞬の間にただ事では無いと判断し、後を追いかける。見回りの警察官に尋ねられて逃げるのならばまだしも、私服の人間であの狼狽の様子なら何か疾しい事があるとほぼ断定できる。
「先輩どこ行くんですか?!」
後ろで加瀬森の声が聞こえたが、今は構ってるいる場合では無い。自分の直感が、この場で奴らを追跡することの重要性を訴えている。
車道をそのまま横切って脇道から更に狭く苦しい路地裏へと入り込むと、目の前からは数人の辿々しい足音がはっきりと聞こえてきた。スマホのライトを向けると、先程遠目で見たパーカー男の一人が見える。
「×××!」
照明に気が付いたか、怒気を含んだ様な声が聞こえてきた。が、自分の息遣いで何を話しているかは分からない。兎に角今は目の前にいる奴等を優先すべきだ。
久々に全力疾走をしたのと食後という事もあり、脇腹の痛みが急速に悪化していく。水が徐々に染みていく様に広がる鈍痛に耐えながら、目の前の人間に縋り付く様に追いかける。
だが、いくら必死に走った所でも徐々に離されていくのが目に見えて分かる。まさに今経年劣化を味わっている。こんな事なら普段から車の手入れや、堕落した生活を見直しておくべきだった。
後悔と無力さに打ちひしがれていると更に背後から足音が伝わってきた。自分の不等間隔なピッチと比べて洗礼されている。
「大丈夫ですか?」
いつの間にか着いてきていた加瀬森が、隣で軽快な音を立てて並走する。
「俺はっ、いいからっ、前…」
「あの集団ですね。分かりました」
状況を察したのか、加瀬森は並走をやめてまた一段階速度を上げた。まだ余力があるのかという驚きもあったが、何より紙や空缶が散らばる安定しないこの足場で絡れずにあのフォームを保てるのが心底羨ましかった。
前方で逃げる連中は、迫る加瀬森に気が付いたのかまた何かを叫んだ。うち一人が速度を途端に落とし、壁際に積まれたドラム缶や段ボールを崩し始めた。加瀬森はそれらの障壁を上手く避けている様に見えたが、前方との差は縮まらず広がっていくのが分かった。そこに拍車をかける様に、ソイツは瓶が入ったケースを中身ごとその場にぶち撒けたり俺たちの方へと投げ始めた。
直撃には至らない程の飛距離ではあったが、中に詰められていた瓶はバラバラに割れ、ただでさえ歩きづらい路地裏を通行する事すらままならない状態へと変えた。
これだけの悪路になってしまえば、追跡するのは最早不可能に近い。それに加瀬森も気が付いたのか足を止めた。すると、地面に散らばった内のまだ無事な瓶を手に取った。
そして次の瞬間、思いっきり振りかぶり奴等に向かって投げた。度肝を抜く様な送球ぶりだ。それは照明に照らされ煌めきながら真直線に飛んでいき、妨害役だった人間の腕に当たった。
「いっ…!」
砕け散る音と悲鳴が聞こえたが、すぐにその場から立ち去っていった。
「…すみません、逃しました」
「……悪い…仕方ないこればっかりは…」
俺の息切れと痰が絡んだ咳が響き渡る。久しぶりに全力疾走をしたせいで、脚が殆ど痙攣に近い様な状態だった。
肩で息をしながら加瀬森の方を見ると、そんな様子を微塵も感じさせず変わり果てた路地裏を見つめていた。
「あと少しだったんですが。もう少し自分の脚が速ければ」
「いや、変わらない筈だ…もう少しすれば…聞こえてくる…」
「聞こえてくるって、何がですか?」
加瀬森が首を傾げるのとほぼ同じタイミングで、バイクのマフラー音が聞こえてきた。音量から推測するに、そう遠く無い場所だ。
「恐らく時間稼ぎだ…確実に逃げたいんだったら、一人を切り捨てようとするより…全員で迎え撃てばいいだけだからな…要するに目的はもう済んだんだろう」
「志原先輩、大丈夫ですか?」
「ああ…なんとか…。取り敢えず戻るか…」
俺は脇腹の痛みを堪えながら、鉛の様な体に鞭を打ち路地裏を出た。
ファミレスの通りに戻り、あの連中が集まっていた場所を確認すると地面には何やらズタズタになった紙が散乱していた。拾い上げると、紙質からポスターだと分かった。剥がしきれなかったのか、壁にも3割程ボロ切れの様な状態で夜風に吹かれながら靡いていた。こっちの方が何についてのモノかまだ識別出来る。
「それは?」
「あの逃げていった奴等がここで寄り合ってたんだよ。なんだろなコレ」
照明を向けるとどかどかとした顔と字が見えた。眼鏡をかけた中年男性がガッツポーズをしている。
「選挙ポスターか。それもこの党は…」
文字は欠けており頭の1文字、それから2文字目の上部しか分からなかったが読み解くには十分だった。
予見するに、そのポスターには国進党と書かれていた。




