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sideとある女生徒

 名前を口にするのもはばかる方。

 だから、『彼の方』と密やかに呼ばれていた。

 不気味な仮面のせいで遠巻きに見つめられた彼の方は、婚約者である王太子殿下にも距離を置かれ、華やかな学園生活において、常に孤独を強いられていた。

 それでも自分の現状を嘆くことも、鬱とすることもなく、彼の方はピンと背筋を伸ばし続けた。



『ああ、もったいない……マリーフェザー嬢が男子であったなら、ヴォールト公爵家は安泰であっただろうに』

 いつだったか、そう父が独り言のように漏らしたときがあった。

 まだ自分も幼く、なぜ女子だといけないのかと不思議に思ったものだ。

 歳を重ねた今なら、父の言葉がわかる気がした。

 ヴォールト公爵家には、残念ながら彼の方しか子がいなかった。そのため、後継ぎとなる男子を親類から養子としたのだ。

 彼は、公爵の期待に応えるようにその才能を開花させた。

 眉目秀麗で理知的な彼は、年頃の令嬢には大人気で、姉から聞いた話だと、舞踏会では彼と踊るために長蛇の列ができるという。

 まだ婚約者がいないこともあり、お見合い話が山のように届いているらしい。

『マリーフェザー嬢のご様子はどうだい? おまえは運良くあの方と同じ教室で、学ぶ栄誉を得た。将来の王妃様がどのようなお方なのか、しっかりその目で見極めなさい』

 五大臣の一人である父は、帰省するごとにそう言って、娘を諭した。

『なぜ父様は、彼の方を気にかけるの? 学園では、王太子殿下との仲もうまくいっていないようですし、婚約の話は白紙に戻されるのでは? と噂話が広がっていますのよ』

『それはおまえたちが何も知らないからだ。おまえたちは見た目に惑わされ、マリーフェザー嬢を理解しようとしないだろ? あの方は、なかなか面白い思考の持ち主だ。その考え方は、きっと、この国に豊かさをもたらしてくれるだろう』

『ずいぶん買いかぶっていらっしゃるのね』

『おまえもいつかわかるさ』

 含み笑いを浮かべた父は、大きな手で娘の頭を撫でた。

 

(ええ……父様、わかった気がしますわ)

 脳裏に、先程の凛とした彼の方の姿が思い浮かぶ。


 波風を立てることを厭うような、そんな物静かな彼の方が、教師相手に言い返すとは思いもしなかった。

 それは、自分たちだけでなく、教師も同じだろう。

 いつでも自分の言葉が正しいと、自らの信念を押し付けてくる女性教師は、血統に合った立ち居振る舞いを求めた。

 いわく、下劣な平民と触れ合うな、

 小さな宮廷の中では、常に自分より身分の高い者に従うこと。

 それだけを口を酸っぱくして繰り返していた。

 彼の方は、この学園において、第二位の権力を有することもあり、礼儀作法を完璧に行うだけでなく、傍に置く者たちも選定することが求められた。

 貴族は貴族だけで馴れ合うもの。

 そう決められているというのに、彼の方はあっさりと破った。


『貴族ではないからと、見捨てろとおっしゃるのは、道理が違いますわ。貴族だからこそ……上に立つ者だからこそ、義務があるのではありませんか? 私達の生活を支えているのは、労働階級の方々です。彼らが耕した物を私達は口にし、彼らが過ごしやすく整えてくれた環境の中で私達は暮らしているのです。それをおごっては、貴族として恥ずべきではないでしょうか』

 

 感情的になる女性教師とは対称的に、彼の方の声は凪いでいた。

 声を張っているわけでもないのに、芯の通った声は、聞き耳を立てていた自分たちの耳にもすっと入り込んできた。


 なぜ?

 どうしてそんなことをおっしゃるの?

 不審と不安で心が乱れた。

 それは自分だけでなく、居残っていた者たちも同じだ。

 ある者は不愉快そうに、

 ある者は嫌悪を隠しもせず、

 彼の方を見つめていた。

 どんな感情であれ、全員が彼の方の言葉に心を揺さぶられたのは確かだ。


 けれど、それも彼の方と話すうちに変化してしまった。

 貴族の清廉なる義務。

 そんなことを考えたことはなかった。

 貴族としての在り方をただ享受し、そこに疑問など持ったことはない。

 貴族である自分の世話をだれかがするのは当然で、領民も顔を見せればかしずいて敬ってくれる。

 それは、この身に、由緒ある血が流れているからだ。

 血こそが、平民と貴族を隔てるもの。

(どうして彼の方は、強く在れるのかしら……)

 自分だったら、くじけるだろう。

 彼の方が親しくだれかと会話する光景を目にしたのは最近のことだった。それまではだれもが必要最低限の言葉しか交わさず、関わることを拒否していた。

 未来の王妃になる方の機嫌を損ねるのはまずい、かといって深く関わることもよしとしない、というのがこの学園に通う子女の思いだった。


「わたくし、明日からは声をかけてみようかしら。もっとお話を聞きたいわ」

「俺も、名ばかりの王太子殿下の婚約者と侮っていたのを反省する」

 彼の方が出ていった扉を恍惚とした様子で見つめていた彼女たちは、どこか晴れ晴れしい顔をしていた。

 きっと、同じ教室で机を並べながら、満足に言葉を交わすこともできない状況を心苦しく思っていたのかもしれない。


「ふふふ。フィー様と食事をされたい方は、わたくしが取り持ちましてよ」

「メ、メルザ様!?」

 いきなり現れたのは、ここ最近、彼の方と急接近しているメルザ様であった。

「フィー様をお迎えに……と思ったのだけれど、面白い話をしていたので、はしたなくも聞き入ってしまいましたわ」

 ほんのりと愛らしい顔を染めたメルザ様は、恥ずかしげに空咳をした。

 上級貴族の教室は、三つに分けられている。

 青薔薇組、黄薔薇、赤薔薇組だ。

 メルザ様は確か、王太子殿下と一緒の青薔薇組だったはず。

 赤薔薇組の二つ隣の教室とはいえ、わざわざ迎えに来るほど執心しているのだろう。

 彼の方と親しくなる前は、それなりに力を持つ上位貴族の集まりの一つに所属していたはず。なにがあったのかは知らないが、それを抜けてまで彼の方の傍にいることを選択した彼女に、ちょっとした衝撃が走った。

 小さな宮廷において、社交を投げ出したも同然だからだ。

 第二位の権力とはいえ、それが名ばかりなのは周知の事実。

 三大公爵家の息女ではあるが、次期ヴォールト公爵ならまだしも、王太子との婚約すら危ういこの状況下で、彼の方に魅力を感じる者は少ないはず。

 彼の方の傍にいて旨味がないから、取り巻きもいないのだ。


「メルザ様は、彼の方を本当に好いていらっしゃるのね」

「フィー様って面白いのよ。淑女の鑑のように思っていたのだけれど、……この間なんて、わたくしのハンカチがいたずらな風にさらわれてしまったの。木の枝にかかってしまったから、どうしようと思い悩んでいたら、フィー様がどうされたと思います?」

「庭師か侍女に取ってもらうように言い添えたとかか?」

 令息が口を挟んだ。

「普通はそうですわよね。でも、フィー様は、木に登って取ってくださったのよ!」

 令嬢たちから小さく悲鳴があがった。木に登ったところを想像してか、その顔はわずかに青ざめていた。

「まるで絵本に出てくる王子様のようでしたわ……! お転婆なご様子に、わたくし、びっくりしてしまったんですけど、新しい一面を見ることができて嬉しかったですわ。そうしたら、今日もフィー様の新しい魅力を発見してしまって……! ああ、これまでフィー様を深く知り得なかったのが残念でなりませんわ。皆様はわたくしよりも、フィー様のお近くにいられて羨ましい限りですわ」

 嬉々としていた顔が一変して恨めしそうになった。

 くるくると変わる彼女の表情に、それこそ新しい一面を見た思いだった。

(メルザ様は、こんなに明るい方でしたかしら?)

 一学年のとき、同じ教室で勉学に励んだ仲だったが、もっと淑やかだったはずだ。柔らかく笑みを浮かべ、どこか一線を画していた印象がある。

 最近では、アノ女生徒のせいでどこか憂えていた顔ばかりだったが、今はそんな影すらない。

「そうそう、よろしかったらフィー様もご参加されるお茶会にぜひいらしてね。希望の方には、招待状をお送りしますわ」

 もしかしたら、これが本題なのかもしれない。

 さりげない誘い文句に、数人が迷ったように瞳を揺らしていた。

 次に開催されるお茶会は、女主人だけでなく、招待客にも評価が下る。最良に選ばれる女主人の招待客にならなければいけないのだ。

 現時点で有力候補と目されているのは、王太子殿下の寵愛を受けるアノ女生徒だろう。

 男性陣は出席できないが、王太子殿下をはじめとする有力貴族の子息が手を差し伸べているとなれば、参加しないわけにはいかない。


(でも、彼の方がどのような導き役となるのか、見てみたい気もしますわ)

 彼の方の発言がなければ、平民の女主人など、招待されてもその場で招待状を破り捨てたことだろう。

 けれど今は、平民の女主人が、貴族の女主人相手に、どんな奇策を凝らすのかわくわくする自分がいた。

(もう少し、考えてみようかしら)


 まだ、返答まで少し時間はあるのだから。


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