八
「ヴォールトさん」
今日の授業が終了し、教室を出ようとしたところで、教師が声をかけてきた。
「はい、先生」
「あなた、女主人役の生徒の導き手となるそうですね」
意外だわ、と言いたげに軽く眉を上げた女性教師は、こちらを興味深そうに窺っている生徒たちにぐるりと視線をやると、声を潜めた。
「この学園のしきたりはわかっていますね?」
「しきたり……ですか?」
ええ、と頷いた女性教師は、
「貴族は貴族らしくあれ、です」
「……」
「あなたはみなの手本となるべき方です。常に正しくありなさい」
要は、貴族であるマリーフェザーが、平民の少女を手助けするのが気に入らないのだろう。
「先生のお言葉は胸に留めますわ」
マリーフェザーがそう返すと、女性教師は満足げに微笑んだ。が、次の瞬間、その顔が強張った。
「けれど、手本となるべきならば、困っている生徒に手を貸すべきではありませんか? 弱き者を助けることこそ、貴族としての在り方だと思いますが、先生はいかがですか?」
「ま、まぁっ…っ」
「聖書にはこう書かれているそうですわ。アンバジャール神いわく、『無垢なる精神で大地に跪け。その身は神の御下ではすべてが平等であり、また神の御子である』と。けれど先生は違うとおっしゃるのですね。聖書には貴族は尊ぶもの、とは書かれていませんでしたが、先生のおっしゃる貴族らしくとは何を指されるのでしょうか」
教室に残っていた生徒たちからざわめきが起こる。
マリーフェザーが在籍するこのクラスには、上級貴族の子女しかいない。
みな、女性教師と同じように、貴族としての矜持を持ち、下位階級など歯牙にもかけない者たちばかりだ。
「珍しく口を開いたと思ったら、彼の方はなにをおっしゃっているのかしら」
「近頃、平民とご一緒しているらしいから、考え方が歪んでしまったのでは?」
マリーフェザーはそう大きな声で反論したつもりはなかったが、凛とした声は教室にいた者たちの耳にしっかりと届いたみたいだ。
「あ、あなた、ご自分がなにを言っているのかわかっているの?」
カッと顔を赤らめた女性教師は、わなわなと唇を震わせた。
「貴族ではないからと、見捨てろとおっしゃるのは、道理が違いますわ。貴族だからこそ……上に立つ者だからこそ、義務があるのではありませんか? 私達の生活を支えているのは、労働階級の方々です。彼らが耕した物を私達は口にし、彼らが過ごしやすく整えてくれた環境の中で私達は暮らしているのです。それをおごっては、貴族として恥ずべきではないでしょうか」
「……っ」
淡々とマリーフェザーが思いを口にすると、女性教師は「し、失礼するわ」と怒り心頭で教室を出ていった。
言いすぎてしまったかしら、と小首を傾げるマリーフェザーに、おずおずと言ったように声がかかった。
「あ、あの、ヴォールト様」
「なにかしら?」
顔を向けると、そこには数人の令息と令嬢が顔色も悪く立っていた。
「ぎ、義務とはなんでしょうか?」
「えっ?」
思わず問い返すと、彼らはびくりと震えた。
仮面が怖いのか、今にも倒れそうだった。
それでも自分を奮い立たせてこちらを見てくるが、顔は引きつっていた。
「初代の国王陛下は、貴族に清廉なる義務を課したそうですわ」
「清廉なる義務、ですか?」
「ええ、いつしか廃れてしまったようですわね」
マリーフェザーも王妃教育を受ける中で、知識として知っていたに過ぎない。
けれど、酷く感銘を受けたことは確かだ。
選民意識が強くなってしまった今の世の中に、清廉なる義務は不釣り合いだと、話題にものぼらない。
だからマリーフェザーは実践しようと思ったのだ。
だれもが忘れてしまった貴族としての誇り、振る舞い方……それは決して、えばり散らすことでも、血統の上にあぐらをかくことでもない。
弱者に手を差し伸べることにある、と。
「上に立つ者として、私達には相応しい振る舞いが求められます。けれどそれは、権力を笠に着るということではありませんわ。上に立つからこそ、弱者を慈しまなければならないのです。それが、清廉なる義務ですわ」
「なぜ、慈しむ必要があるのですか? 私達と彼らでは、身分が違います。身分が違うのであれば、どのような境遇も受け入れるべきです」
納得できなかったらしい令息の一人がそう噛み付いてきた。
しかし、マリーフェザーが顔を向けると、ひぃと小さく悲鳴を上げて後ずさってしまった。
「そもそも、身分など、この国が決めたことです。もし貴方が伯爵家でなく、貧民街で育ってとしてもそれが言えますか? お金がないから養えないと両親に捨てられて、幼き頃より貧民街で育っても、受け入れるのですね?」
「そ、それはあり得ない想像です。想像を受け入れる…受け入れないとは……」
語尾が力なく消えていく。
別の令嬢が声を上げた。
「捨てられるなんてことがあるのですか? 両親が養えないなら、乳母でも雇えばよろしいのに」
「雇うにはお金がいります。そもそも、雇うお金があれば、彼らは子供を捨てませんわ。手元に残して餓死させるよりも、貧民街で生き延びる道を願って手放したのです」
まぁ、と令嬢たちの目が潤んだ。
両親の気持ちを思って、心を痛めているのだろう。
「だからこその清廉なる義務なのですわ。貧民街にいる者たちは、そこに堕ちてしまったら一生這い上がることができません。今の身分制度では、彼らが綺麗な服を着て、美味しいものを食べる、そんな普通のことすらままならないのです。けれど、私達が上に立つ者として、彼らに施しを与えれば、少しは改善されると思いませんか?」
「た、たとえばどんな施しですの?」
「簡単なのは、孤児院に寄付をすることですわね。孤児院も数がありません。孤児院が増えれば、貧民街に捨てられる子も少なくなるでしょう」
「ヴォールト様はどのような義務を行ったのですの?」
だんだん彼らの顔に赤みがさしはじめた。
興奮げにきらきらと目を輝かす彼らは、マリーフェザー対する恐怖心など捨て去ってしまったようだ。
「私は、教会に働きかけ、教育を受けさせることにしました」
「教育ですの?」
「教育は財産ですわ。貧しい者が貧しいままなのは、文字も書けず、読むことすらできないからです。満足に勘定もできない彼らをだれが雇います? だから、すべての子供が平等に教育を受けられるよう、働きかけました」
国王陛下に進言したときの彼の顔は、今思い出しても口元が緩みそうになる。
幼い戯言と一笑に付す大臣たちの中で、なぜか虚を突かれたように呆然としていた。
『また、突拍子もないことを考える』
予算が、貴族としての挟持が、と不満を叫ぶ彼らを黙らせたのは、その場に居合わせた大司教だった。
『平等に与える権利……まさに、アンバジャール神の教えですな。そなたたちもアンバジャール神を崇めるならば、教えに背いたりはせぬじゃろ? ―――――――陛下、ぜひ、私どもに光栄なる権利をお与えください。神の使いは、稀なる機会を与えられることに、悦びを感じましょうぞ』
その言葉が決定打となり、神の使いが講師として派遣されることとなったのだ。
「さすがですわね」
幼い頃より王妃教育を受けてきたマリーフェザーに対する称賛の声が広がった。
「いいえ、私はただ思いついたことをお伝えしただけです。それに、清廉なる義務は、ささやかなことでもいいと思いますの。困っていたら相手がどのような立場であれ手を差し伸べられるのが理想ですわね。……あら、少し話し込んでしまったようですわね。待ち合わせをしているのでこれで失礼いたしますわ。ごきげんよう、皆様方」
くるぶしまである裾をそっと持ち上げ一礼したマリーフェザーは、優雅な所作で教室を後にした。




