第4話 銅の認識票、悪役令嬢冒険者
翌朝、食堂へ下りると、リゼはもう来ていた。
卓の上には、昨夜見たものより大きな紙が広げられている。片手でパンを持ち、もう片方の手で線を引いていた彼女は、私たちに気づくと、口をもぐもぐさせながら空いた椅子を示した。
「おはよう。座って。あとちょっと」
私が隣へ腰を下ろすと、ニナは向かいへ座り、まず水差しを紙から遠ざけた。リゼはそれを見て、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ありがとう。前に一回、やったんだよね」
「……水を?」
「煮込み」
私は紙を見た。
「それは」
「染みになったところ、湖みたいになった」
言いながらも、彼女の指は動いていた。定規を当て、短い線を引き、端へ数字を書き添える。昨日の倉庫の図らしい。私が口で説明しただけの棚や壁が、きちんとした形になっていた。
「ここ、私の描いたものより広いですわね」
「そう。前は入口から覗いて、おおよその形だけ取ったから。ちゃんと測って直したいの」
リゼは残りのパンを口へ入れ、手を払ってから紙を巻いた。
「あと、煙の穴。あれが気になって、変な夢を見た」
「どのような?」
「壁の中に入って出られなくなる夢」
「……穴は覗くくらいにしましょうね」
ニナが言った。
私とリゼは、同時に頷いた。
*
三人で歩くと、いつもの回廊が少し違って見えた。
先頭はニナ。その少し後ろをリゼが歩き、私は二人の間を照らしていた。足元が広いところへ来ると、リゼは壁へ寄り、紙に何か書き込む。私もつい覗こうとして歩みを止め、そのたびニナが振り返った。
「……今日は、なかなか着かないですね」
「ごめん。ここの印、消えかけてて」
リゼは壁の低い位置を指さした。古い傷だと思っていたものが、よく見ると、短い矢印の形をしている。
「帰り道の目印?」
私が尋ねると、彼女は首を横に振った。
「測るときの起点。あっちの柱にもある。道が変わっても、どこまで同じか確かめたいから」
小さな傷を覚えておいて、あとで別の傷との距離を比べる。私は二つの印を交互に見た。
「全部、覚えていらっしゃるの?」
「無理無理。だから書くの」
リゼは紙を軽く振った。
「覚えてたつもりで線を引いて、あとでつながらなかったら嫌だもん」
私は自分の記憶の中の地図を思い浮かべた。通れたはずの道が塞がり、何もなかったはずの場所に扉がある。確かに、覚えているだけでは足りなかった。
水路へ近づくと、ニナが片手を上げた。
私たちは止まった。
通路の端で、石噛み鼠が何かを齧っていた。こちらへ鼻を向け、低く身を沈める。
「一匹。後ろ、少し空けて」
ニナが槍を構えると、リゼは私の袖を軽く引いた。二人で壁際へ寄り、通路を空ける。
鼠が走った。
ニナの穂先がその前へ出る。けれど鼠は石の欠けた部分を跳び越え、横へ抜けようとした。
リゼが、短く息を吹いた。
足元の埃が細い帯になって走り、鼠の脇腹を叩いた。身体が滑り、爪が床を擦る。その一瞬に、ニナの槍が届いた。
私は灯火を保ったまま、リゼの手を見ていた。
「いまの……」
「ちょっと押しただけ」
彼女はニナの様子を確かめてから、こちらを向いた。
「逃げるときは、もう少し強くやるよ。あと、自分の足も軽くする。でも、あんまり続けると気持ち悪くなる」
ニナが鼠から穂先を引き、息を吐いた。
「助かりました。横へ行かれると、追うのが嫌で」
「槍の前には出さないようにしたつもりだけど、大丈夫だった?」
「うん。ちゃんと見えました」
私は二人を交互に見た。
リゼは風を出したあとも、別に得意そうな顔はしていない。ニナも礼を言うと、すぐ周囲を確かめていた。
さっきまで図面を描きながらパンを食べていた女の子と、朝は寝癖を直すのに苦労していた女の子が、目の前の魔物を倒した。
私は自分の袋から、歯を取る道具を出した。
私には、いまのうちにできる仕事があった。
*
倉庫へ着くと、リゼは入口で立ち止まった。
中を見渡し、奥の棚を見て、それから私を見る。
「ほんとに、あそこ?」
「ええ」
「……私、あの前に座って、お昼食べたことある」
「私も」
ニナが言った。
二人は少しの間、同じ顔で棚を眺めていた。
昨日開けた隠し棚は、まだ口を開けていた。リゼはその前へしゃがむと、すぐには中へ手を入れず、灯りを寄せてほしいと言った。私は彼女の肩越しに光を動かした。
「ああ、こうなってるんだ」
壁の縁に指を添え、細い紐を伸ばす。端には小さな金属の重りがついていた。私は朝から気になっていたそれを見て、思わず身を乗り出した。
「そちらは、何に?」
「まっすぐ下を測るの。ちょっと待って、揺れてる」
私は動きを止めた。
重りが静まると、リゼは紐と壁の間を見て、紙に数字を書いた。続いて、節を刻んだ細い棒を箱のあった場所へ差し込み、奥行きを測る。
ニナが入口側で槍を抱え直した。
「私は何をすれば?」
「しばらく、そこ見ててくれると嬉しい。測ってると、後ろがおろそかになるから」
「分かりました」
ニナが扉へ向き直る。私はリゼに頼まれるまま、紐の端を押さえた。
簡単そうに見えたけれど、同じ高さで持ち続けるのは、案外難しかった。彼女が目盛りを読もうとすると、指が少し下がる。
「ごめんなさい」
「大丈夫。もうちょっと上。うん、そこ」
褒められたわけでもないのに、ぴたりと止まると嬉しかった。
部屋の寸法が紙へ移されていく。棚の幅、壁の厚み、入口からの距離。私がただ四角く描いていた倉庫が、だんだん、見覚えのある部屋になった。
「こうして見ると、奥の壁が厚いですわね」
「うん。煙の通り道、その中かな」
リゼは紙を置き、昨日使ったくぼみへ近づいた。
穴の前へ掌をかざし、目を閉じる。
私は息を潜めたが、彼女はすぐに片目を開けた。
「そんなに静かにしなくても平気」
「何をなさっているのか、気になって」
「風、通してる。詰まってたら、押し返されるから」
穴の中で、かすかな音がした。
私には何が起きているのか見えなかった。けれど、くぼみの縁に残っていた灰が少し揺れ、奥へ吸い込まれた。
しばらくして、ニナが天井を見上げた。
「あそこ。何か落ちました」
入口に近い天井の石組みから、細かな埃が降っていた。リゼが手を下ろすと、それも止まった。
「外へ抜けてる。こっちまで来てたんだ」
彼女は嬉しそうに言い、図面へ戻った。
私は奥の壁と、入口の天井を見比べた。小さな穴が、部屋の上を通って、あそこへつながっている。
ただの倉庫だと思っていた場所に、見えない部分があった。
「昨日、上を見ても分かりませんでしたわ」
「埃で隠れてたんでしょうね」
ニナが天井の石を見ている。
リゼは紙へ細い破線を引いた。
「ここから先は、推測。石を外して確かめたわけじゃないから」
そう言って、線の脇に小さく書き添えた。
私はその文字まで、じっと見た。
*
隠し棚がどう閉まるのかは、ニナが見つけた。
棚の下を覗き込んでいた彼女が、内側の端を指さしたのだ。
「これ、取っ手じゃないですか」
壁の陰に、平たい金属の輪があった。リゼが身を屈めて確かめ、空箱を外へ出してから、そっと引く。
何も起こらなかった。
「固まってるかな」
もう一度、少し強く引いたところで、壁の奥が鳴った。
三人とも手を引いた。
棚の下の石がゆっくり下り、床へ収まる。最後に、小さな金属音がした。
隙間が、見えなくなった。
私たちはしゃがんだまま、その壁を見つめた。
「……もう一回、開くんですよね?」
ニナが言った。
「そのはずですわ」
「確かめたい」
リゼが、すでに火口箱へ手を伸ばしていた。
昨日と同じように、陶器の底へ木屑を置き、煙をくぼみへ入れる。今度は穴が空いているので、煙はすぐ吸い込まれた。
かちり、と音がして、石が持ち上がる。
私は思わず手を叩きそうになった。
隣で、リゼが笑っていた。
「面白い」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
ニナも、壁の動きが止まるまで見ていた。それから空箱を持ち上げ、私たちへ尋ねた。
「これは、戻しておきます?」
「ええ。中は空だと、書いておきましょうか」
「日付もあると助かる」
リゼが紙を一枚差し出した。
私は発見した日と、回収したものを書いた。最後に三人の名前を添え、箱の中へ置く。
「私、昨日はいなかったけど」
「今日はご一緒ですもの」
リゼは少し口を開き、それから、私の書いた名前を見た。
「……じゃあ、測った日も書いていい?」
「もちろんですわ」
彼女は私の隣へ、小さく日付を書き足した。
空箱を戻し、もう一度壁を閉じる。
部屋は、来たときと同じように空っぽになった。
けれど私たちの紙には、昨日よりずっと多くのことが書かれていた。
*
昼食は、橋のたもとの長椅子で食べた。
三人で座ると少し狭かった。ニナが袋を足元へ置き直し、火匙を取り出すと、リゼが身を寄せてくる。
「それ、昨日の?」
「はい。今日は鍋を持ってきたので」
ニナは小さな金属の鍋へ水と干し肉を入れた。私が買った乾燥野菜も加え、火匙を近づける。
私は期待して覗き込んだが、すぐには何も起こらなかった。
「パンより、時間が掛かりますわね」
「水、多かったかな」
「これ、蓋したほうがいいんじゃない?」
リゼが自分の平たい皿を載せた。
三人でしばらく待った。
水路の音がしている。向こうの回廊を歩く人の声が、遠くから聞こえてきた。
やがて鍋の縁から湯気が出ると、私たちは揃って顔を寄せた。
干し肉はまだ少し硬かったけれど、塩気が湯へ移っていた。パンを浸すと柔らかくなり、冷えた指先も、器を持っているうちに温まってくる。
「いいな、これ」
リゼが器を両手で包んだ。
「いつも何を召し上がっておりますの?」
「パンとか、干した果物とか。歩きながら食べられるやつ」
「温かいものは?」
「帰ってから。火を使ってるときに何か来るの、嫌だし」
彼女はそう言い、倉庫の入口へ目を向けた。ニナの槍は、長椅子のすぐ脇に立て掛けてある。
私は器から顔を上げた。
「一人だと、測るのも、お食事も、全部ご自分で見ていないといけませんのね」
「そう。だから今日は、すごく楽」
リゼは素直に笑った。
ニナも器を持ち直し、少し首を傾げた。
「私も、今日はあんまり疲れてないです。鼠、横へ行かなかったし」
「また押すよ。あれくらいなら」
リゼは言ってから、パンをちぎった。
「……測りたいところ、まだあるんだ。二層の手前なんだけど。今度、空いてたら来ない?」
ニナが私を見る。
私はすぐに頷きかけ、先に尋ねた。
「どのあたりですの?」
リゼの顔が明るくなった。
彼女が紙を出そうとしたので、ニナはその手元へ自分の器を差し出した。
「先に食べましょう。せっかく温めたんだから」
リゼは手を止め、それから笑った。
「そうだった」
*
ギルドへ戻ると、昨日預けた遺物の鑑定が終わっていた。
黒ずんだ金属片は、やはり巡礼札だった。鳥と杯は、迷宮の上層に残る古い礼拝所で使われていた意匠らしい。香の容器と一緒に保管されていた例は珍しいので、まとめて資料として買い取りたいという。
私とニナは相談し、引き取ってもらうことにした。
手元に残したい気持ちはあったが、私は模様を写せれば嬉しかったし、火匙はすでにある。ニナは提示された金額をもう一度確かめてから、私へ頷いた。
受け取った硬貨は、苔や鼠の歯を売ったときより多かった。
私は少しの間、窓口の上に並んだ銀貨を眺めていた。
「……お風呂のある宿」
呟くと、ニナがこちらを見た。
「思いました」
「一泊くらいなら」
「今日は、浸かりたいですね」
意見が一致した。
リゼは隣の窓口で図面を広げ、倉庫の寸法と仕掛けについて説明していた。定期巡回の報告へ追加するらしい。私たちも呼ばれ、煙の穴や、中にあったものを確かめる。
職員が三人の名前を書き終えたところで、受付の女性が私を呼んだ。
「セラさん。少し、こちらへ」
私は背筋を伸ばした。
火匙を使った件で、もう一度何か言われるのだろうか。
窓口へ戻ると、女性は台帳を開いていた。私の名前の下に、採集と討伐、それから最初の日の救難の記録が並んでいる。
「講習は受講済み。依頼の報告もできていますし、同行者の確認も取れました」
彼女はそう言って、ニナへ視線を向けた。
ニナが頷いた。
私は二人を交互に見た。
「木札を、お預かりしてもいいですか」
胸元へ手をやった。
紐を外して差し出すと、女性はそれを受け取り、代わりに小さな金属板を窓口へ置いた。
赤みのある、銅の板だった。
縁に、剣と灯火の印がある。中央には私の名前が刻まれていた。
「今日から正式登録です。銅級の冒険者として、よろしくお願いします」
私は板を見つめた。
思っていたより、小さかった。
けれど、持ち上げると、木札より確かな重さがあった。
「……私の」
「はい。あなたのです」
私は両手で持ち、裏返し、もう一度名前を見た。
セラフィーナ・エルヴェルト。
家の名前まで刻まれているのに、初めて自分だけのものを受け取ったような気がした。
紐を通そうとして、指先が少しもつれた。
「貸して」
ニナが横から手を伸ばした。
彼女は紐を穴へ通し、抜けないよう結び直してくれた。それを受け取り、首へ掛ける。
胸元に、冷たいものが触れた。
「似合ってます」
ニナが言った。
私は金属板を押さえたまま、顔を上げた。
「ありがとう」
今度は、声が大きくならなかった。
少し離れたところで見ていたリゼが、図面を抱えて戻ってきた。
「おめでとう。じゃあ、次は銅のセラと潜るんだね」
「ええ」
「明日?」
「それは、これから相談です」
ニナの返事に、三人で笑った。
*
その日の夕方、私たちは湯に浸かった。
ギルドから二本離れた通りに、浴室のある宿があった。高級宿というほどではないけれど、浴槽は脚を伸ばせる大きさで、湯は肩まであった。
私は縁へ頭を預け、長く息を吐いた。
向かいでニナも、同じように息を吐いた。
「……戻れませんわ」
「ギルドのお風呂、桶ですもんね」
「毎日は無理かしら」
「毎日あの箱が見つかれば」
私は目を開けた。
ニナが、濡れた髪を額から払ってこちらを見た。
「探しに行く顔、しないでください」
「まだ何も」
「しました」
私は笑って、もう一度湯へ肩を沈めた。
棚には、外した銅板が置いてあった。その隣にはニナの鉄板がある。湯気の向こうで二枚が並んでいるのを、私は何度も見てしまった。
晩餐会を飛び出した夜には、こんな夕方を想像していなかった。
知っている迷宮へ行けることばかり考えていた。
そこで苔を剥がすことも、鼠の歯に苦労することも、見つけた道具でパンを焦がすことも、知らなかった。
ニナが、浴槽の縁へ腕を置いた。
「セラ」
「なあに?」
「また、来ましょうね」
私は頷いた。
「ええ。今度は、リゼも誘って」
「うん」
次にどんな依頼を受けるかは、明日決めればよかった。
いまはお湯が温かくて、脚が軽くて、もう少しここにいたかった。
*
翌朝、ギルドへ戻る道で、私は銅板を服の上へ出した。
ニナはそれに気づいていたが、何も言わなかった。ただ、口元が少し緩んでいたので、私も気にせず胸を張った。
まずはリゼと、次の行き先を相談する。
その前に、父から返事が来ていないか確かめたい。きっと驚いているだろうし、怒っているかもしれない。けれど、正式な冒険者になったことを、今度は書き添えられる。
ギルドの前まで来たところで、ニナが足を緩めた。
扉の周りに、人が集まっていた。
荷馬車が一台、道の端へ寄せられている。その脇を、何人もの冒険者が振り返りながら通っていた。騒ぎというほどの声はしないのに、みんな同じ方向を見ている。
「何でしょう」
ニナが呟いた。
私も人の間から覗いた。
見覚えのある、淡い金色の髪があった。
薄桃色のリボン。きれいに磨かれた靴。袖口に細かなレースのついた、外出用のドレス。
ユリアだった。
彼女はギルドの入口に立っていた。
背中には、大剣を担いでいた。
私の知っている絵よりも、実物はずっと大きかった。幅広の刃は布で巻かれ、それでも肩から頭の上まで柄が突き出している。革の帯が華奢な胸元を斜めに横切り、あの青い首飾りは見当たらなかった。
私は立ち止まった。
ユリアが、こちらを見た。
目が合うと、彼女の顔が、泣きそうに緩んだ。
「セラフィーナ様」
ニナが私を見た。私は返事をしようとしたが、ユリアはすでに、人の間をこちらへ歩いてきていた。
大剣の重さを、少しも気にしていない足取りだった。
「会えてよかった。私、どうしたらいいか分からなくて」
「ユリア様、あの、その剣は――」
彼女は私の両手を掴んだ。
柔らかな手だった。
けれど、驚くほど力が強かった。
「私、殿下を殴ってしまいました」
すぐ隣で、ニナが息を止めた。
ユリアは私の手を握ったまま、真剣に尋ねた。
「冒険者の登録は、こちらで合っていますか?」




