16.ヒロ君の弟さんは……
レイラが部活動に自信を持っている理由が、学にも何となく分かった気がする。
作業所に夕方の気配が迫り、宗教部の生徒らは皆外でバスを見送った。施設のメンバーらのほとんどはバスに乗せられて帰って行った。自力で帰る人、家族が迎えに来る人もいて、あのヒロという青年はどうやら家族が迎えに来るのを待っているようだった。男子三人はその横に付いて、彼の家族を待った。
「ヒロにはね、弟が来る。キヨっていうんだよ」
ヒロは嬉しそうに語った。
門の前に車椅子マークのついた車が一台停車した。施設の職員が反応したので、この車が迎えに来たのだと分かる。中から学らと同じくらいの歳の少年が降りて来る。彼は学らのところに近付いて来ると、距離を取って足を止めた。
学はその人物を見て、息が止まる。
目の前に立っていたのは、安だった。
安は見慣れた顔に気付き、何故か笑って
「よう」
と語りかける。やはり学は声が出なかった。
「知り合い?」
西田が学に声をかけると、安は笑うのをやめた。
「ま、まあ……」
震える声で学は応えた。
安にこのような兄弟がいたとは、つゆも知らなかった。学は自分のされて来たことが全て立ち消えになって行くような、不思議な感覚に襲われた。安は慣れた手付きで職員から兄の乗った車椅子を預かると、遠巻きに見ている男子三人に向かって押し始めた。
それは追い詰めるように学の前で止まった。安と目が合う。彼はうめくように囁いた。
「笑えよ」
ずい、と車椅子が差し出される。あどけなくヒロは微笑んでいる。
「笑え」
学はごくりと息を呑んだ。西田と岬は異変を察して身構える。その場にいた生徒、職員全員が、水を打ったように静かになってしまった。
何か言わなければ、この空気はほどけないだろう。学は静かに
「ごめん」
と声を震わせた。
なぜ謝ってしまったのかは分からない。それ以外何も言えなかった自分に、苦しさ、情けなさがのしかかる。安も謝って来るとは予想しなかったと見え、白けた表情になった。
「お前、もう二度とこの施設に来るんじゃねーぞ」
投げ付けられた台詞。学にはただ、深い苦しみばかりがのしかかっている。
一方のヒロは、全く何事もなくあの笑顔だ。
「イチハラ君、さよなら!」
重苦しい空気に、彼の良く通る声が響き渡った。
(名前、覚えてくれたんだ)
学はどこか救われた気持ちになった。
安の背中が遠ざかって行く。車が去るまで、全員が微動だにしなかった。
安は学を中学三年間いじめ通して来た。学は安の汚いところを嫌というほど見せ付けられて来た。
あの後、施設の職員は言っていた。
「ヒロ君の弟さん、いつもは優しいのに」
と。
安の全部を知っている気でいた。
(あいつから逃れるために元女子高なんかに入って、それなのにまたあいつに苦しめられている……)
そこへ来て、別の感情がないまぜになった。息の詰まるような不快感が学を襲う。
(俺、苦しんでるのかな?)
安がああいった身の上だったことを、知ったところで何も出来ないし、したくないのだが。
(果たして俺は、本当に安から逃げ切れたのだろうか)
学は思い直した。
(いや、むしろ別のものに追いかけられ始めているような……)
何だろう、この気分。学はせわしなく両肩をさする。
(怖い……)
施設からの帰り道、西田と岬は暗い面持ちの学を心配そうに見つめていた。学だけ違う方向の電車に乗るので、西田と岬は駅で彼と別れた。
西田と岬はホームに着くなり壁に背を預けて、互いに深い深いため息をついた。
「市、あれからずっと物思いにふけってたな」
西田が気の抜けたように宙を眺める。
「知り合いのお兄さんが障碍のある方だって知って、ショックだったんでしょう」
何事もなく言う岬だが、表情は疲れていた。
「そういうショックってあそこまで引きずるもん?そーなんだ、つっておしまいだろ」
「市原君はあなたと違って繊細なんでしょう」
「ええー」
二人、少し間があった。互いに考え事があるようだ。
「ところで、岬……宗教部入る?」
再び沈黙が流れる。岬はじっと目を閉じて
「多分、入りません」
そっか、と西田は呟いた。
「俺もだ」
二人、互いに顔を合わせない。当然だろう、と互いに納得し合っていた。
「僕らも実のところ、市原君と同じ症状にかかかっているかも知れませんよ」
岬の言葉に、西田はうーんと唸って、
「俺もさ、あの市の知り合い?あの人の言葉っつーか……思い出すと、なんかすっごくしんどい」
「……笑えってやつですか?」
岬が少し笑う。
「笑えるかってなあ」
西田も苦笑する。電車がホームに滑り込んで来て、二人は壁から背中を離した。
「ボランティアへの道のりは険しいです。僕らはあそこで笑顔にはなれなかった。部員失格ですよ、もう」
ここで第1章終了です。明日から第2章に突入します。
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