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世界史B:アンシャン=レジーム~フランス二月革命

【旧制度】


旧制度、別名アンシャン=レジーム。フランス革命前の政治を言います。

第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)の三段階の身分制度で成り立っていました。

聖職者と貴族が人口の2%かつ土地の40%を所有し、人口の8割を占める平民は残りの土地しか持てませんでした。一括りに平民と言っていますが、第三の中には富裕市民層(ブルジョワ・有産市民)も入っていました。彼等は財力にふさわしい権力が欲しいと常々思っていますが、封建的特権(土地持ってて免税特権持ち)を持つのは第一身分と第二身分だけ。不満が溜まっていきます。


そんな中1786年9月にイーデン条約(英仏通商条約)が結ばれ、関税が引き上げられました。イギリス産の良質で安価な物が入って来る上、18世紀前半以来ずっと戦争続き。フランスは財政難に陥っていました。それに対応すべく、様々な人が財政改革に乗り出します。テュルゴーやネッケルは特権身分に課税すべきだ!と主張しましたが、貴族達は猛反発。「認めさせたけりゃ議会開けや!」となり175年振りに三部会が招集されます。





【革命の勃発】


三部会の開催に向け、混乱が生じました。それは「どうやって議決取ろうか?」です。特権取られてたまるか!と考えて居る第一、第二身分はどうあがいても第三には人口面で負けます。だから多数決はヤバい、となり身分別議決方法(各身分につき一票)を求めますが、第三は勿論個別を求めます。さらにシェイエス神父が『第三身分とはなにか』(1789)というパンフレットもどきで「第三身分が全てで、これが唯一国民を代表している」などと書く程第三身分に対し第一・第二身分からも同調者が出て来ていたので多数決にすれば確実に勝てる状態だったのです。


しかし延々議決方法で揉め続け、1789年6月には第三身分と自由主義貴族等が勝手に三部会を抜けて国民議会という物を作ります。「憲法制定するまでは解散しないぞ!」と球戯場の誓いをしたのが有名ですね。聞こえはいいけど、真面な会場に出来る所は使えないから取り敢えず人が集まれるテニスコートに集合して「えいえいおー!」をやっただけ。

7月には憲法制定国民議会と改称し、最初は形式的に国王にも認められたものの、後に結局弾圧を受けます。



さて、この頃のフランスは凶作で物価が上がっていました。なんとパンの値段は2~3倍。更に植民地を巡るイギリスとの喧嘩やらアメリカ独立戦争への支援(=イギリスへの嫌がらせ)で借金地獄。年間税収が5億リーブルなのに負債は45億リーブルという素敵な状態でした。

民衆はこれに反発し、フランス革命を開始します。バスティーユ牢獄の襲撃(1789年7月14日)です。バスティーユはパリ市内の政治犯(=国王に反対した猛者)を捉えている上武器もある、という事で襲撃されました。あと銃は奪って来れたけど火薬が無かったから。


この動きを受けて農村部では

「貴族が王に勝った?なんかこのノリで山賊とか軍とか使ってこっちに乗り込んで来るんじゃね?」

というデマが広がりました。で「やられる前に殺ろう!」と地方農村でも農民反乱が勃発し、フランス全体で革命の意識を付けられていきます。


これらの暴動を受け、国はついに8月4日に封建的特権を廃止します。租税上の特権・領主裁判権・教会十分の一税ストップ。地代は有償廃止(年貢の20~25年分払えば農民の物になる)され、無償では無かった物の、チャンスが出来る事自体が改革だ、という認識です。


こうして一時沈静化しますが、8月26日に人権宣言を行います。これは自由・平等・主権在民・私有財産の不可侵をラ=ファイエット起草の下主張したのですが、案の定却下され、国民はまた革命へ走ります。

「パンを寄越せー……パンを寄越せー……」というお母さん達がヴェルサイユ行進を起こし「国王がこの状況打開しないのはヴェルサイユなんてパリから遠い場所に住んでるからだ!」と国王・議会を強制的にパリへ連行します。


このように無能な人々を表に立たせないようにし、国民議会はせっせと教会財産を没収し国有化(11月。教会の所有する農地を私有財産で無いと判断)、アッシニャ(最初は教会財産を担保とした国債だったのが紙幣の名前に。12月)発行等、ラ=ファイエットやミラボーら自由主義貴族を中心に改革を図ります。ギルドを廃止し営業の自由を認め、行政区画を改定、度量衡統一の方向を試みる(後にメートル法が出来ます子午線の四千万分の一という、古いモノを排除して合理性を求めたものの象徴)等々。




1790年には聖職者基本法が出来上がります。聖職者は公務員とされ、教会離れが進みます。これは、「封建社会は古い物」→「古い物は悪」→「教会は古い」→「教会も悪」という考え方が出来た故の法律なのですが案の定ローマ教会に怒られます。しかしそれも想定内で聞く耳なんて持たず、首なし聖人像(こんなもの壊してしまえー!がリアルに起きた)が増産され、教会は不合理だという思想の者合理的精神を突き詰めていきます。


こんな流れの中、ルイ16世・マリー=アントワネットは今まで情報を流してくれていた貴族と連絡が付かなくなりました。これに不安を覚え、国王一家はオーストリアへの亡命を決意します。これがヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)です。


が、馬車が問題だった。明らかに豪華絢爛な馬車が夜道を走っている。しかも馬車におまるまでついている(=超高級)。これはおかしいとなり、案の定ヴァレンヌ(国境付近)で捕まりパリに引き戻されます。以後一家は軟禁生活を強いられますが、これに対し王権を持つ周囲の強い国が危険を感じます。プロイセン・オーストリアが「王権を守りなさい!」とフランスに対しピルニッツ宣言(8月)を出すのですが、これが逆に市民の火に油を投げ込んだ行為となりました。


9月には1791年憲法が制定されました。立憲君主制(国王より憲法のが強いよ!)と制限選挙(金持ちなら参加しても構わないからね!)が大前提とされ、絶対王政は否定されます。と同時に、国民議会は無事憲法を作れたので解散されました。





【立法議会】


さて、当時もう一つの議会として存在していた、国民議会に入っていると洩れなく参加禁止となっていた立法議会が台頭してきます。その中でも勢力があり、片や「えー、別に今の体勢のまんまでいいよー?立憲君主制以上なんて望んでないしー」という右派のフイヤン派(ラ=ファイエット等)。富裕市民や自由主義貴族が多かったらしいです。そしてもう片方が穏健共和派で富裕市民・中流市民・商工業ブルジョワによって構成されるジロンド派(ブリソ等)です。


そんなバトルの中で1792年4月、ジロンド派内閣がヴァレンヌ逃亡事件の黒幕かつピルニッツ宣言なんて出しやがったオーストリアに宣戦布告し、革命戦争が勃発しました。が、フランス革命軍の式があまり高く無く、中々勝てない状況に追い込まれました。そんな状況に業を煮やした為か義勇軍が出て来、戦況は進みます。その中でもマルセイユ襲った人たちが歌ったラ=マルセイエーズがそのうち国家となったりしてます。



そして8月10日事件が起こります。これで都市下層民(サン・キュロット)(貴族・ブルジョワが履いていたキュロットを履けない位身分が低い人。サン=without)と義勇兵が国王一家が幽閉されていたテュイルリー宮殿を襲撃します。これの原因は負け続けドンドンプロイセン・オーストリア連合軍に侵入されているフランスに対しプロイセンが「王に何かしたらパリ爆破してやんよ!」と脅した事で逆に「国王とプロイセンが繋がってるんだ!」と勘違いしたからです。これにより国王一家はタンプル塔へ幽閉されてしまいました。



その後財産関係無しの男性普通選挙が採用されたりもしますが、それより重要なのが9月のヴァルミーの戦いです。プロイセン・オーストリア連合軍についにフランスが勝利し、ゲーテが「世界史はこの日から存在している」などと言った程周りから驚かれました。




【国民公会】


1792年9月、王権が廃止され、共和制が樹立しました。これを第一共和制と言います。ここからがフランス革命が最も過激な時代です。


穏健共和派のジロンド派と急進的共和派のジャコバン派(山岳党とも。左派でロベスピエール・マラー・ダントン等が有名)が「国王を生かすか殺すか・国王に罪があるか無いか」で争っていました。因みに元々はジロンド派もフイヤン派もジャコバン派です。この2つに離脱されてしまったジャコバンは滅茶苦茶過激になっていきました。


で、結果は一票差で処刑が決定。1793年1月にルイ16世の首が宙を飛びます。しかも彼の最後の一言が「余を死に至らしめた物を許す」。時代がこんなじゃ無ければ普通に王様やってたような人だったようで、下手な王よりも真っ当な精神してました。



さて、国王が殺される、という前代未聞の事態に外国は対仏の動きを強めます。「やべぇよ!ウチの国でもこうなったらたまんないからちょっとヨーロッパの王国集合!対策練ろうぜ!」とイギリス首相の小ピットの提案で(因みに大ピットは七年戦争中のイギリス率いてた人)第一回対仏大同盟を結成します。


その頃フランスでは、ジャコバン派の独裁体制が始まりました。議会からジロンド派を追放し、公安委員会(政府の役割を持つ、国民公会の中の委員)を中心に恐怖政治が行われました。筆頭はロベスピエールさんで、名目は「自由・平等を守るために反革命分子は殺してしまえ」です。革命裁判所という物が出来、反革命派とされる人はギロチンに引きずりこむ、という程の独裁です。

初めはジロンド・フイヤンを追放していただけだったのに半ばには赤白青のマークを付けて無い人(レミゼの映画見た事ある人なら分かるでしょう。アレは1848年革命の話ですが)や緑の服来た人(国王弟が緑の服好んでた為)まで首を刈る始末。



そんな彼等が1793年憲法(ジャコバン憲法)を制定します。男性普通選挙、主権在民と書いてあったものの、一度も実施されませんでした。

そして同時期に改革も行います。最高価格令(生活必需品の物価の最高値を制定。「労働者の賃金最高額もこれのお陰で基準付くでしょ?」と下げられ、違反者は首と胴体が離婚届を提出する羽目になりました)・徴兵制実施・理性の崇拝(キリスト教なんて古いものから離れよう!知恵の女神とか、自由の木とかをこれから崇めようね!)・革命暦制定(キリスト教基準の西暦なんて糞食らえ!)・地代の無償廃止等の改革です。


これら徴兵制等の改革を行うと、地方からは賛同を得られないどころか睨まれてしまいました。フランス西部でヴァンデーの農民反乱が起きる程です。これは伝統的にカトリックで王党派だった農村民達が、徴兵制・王殺し・教会カトリックとの結びつきを政府から否定された事に対する不満を持ったことがきっかけでした。他の農村部でも似たような事がおきますが、流石に貴族の館焼き討ちなんてのは都会でしかしなかったようです。パリの人や知識人は外国からの脅威と国内の惨状に改革を主張して、これが次の話に繋がります。



1793年末、地代が無償廃止とされ農民が土地持ちになると多くの農民が「戦争なんて止めて!そろそろ安定した暮らしをしたい!」と思います。おまけにこのまま革命が進むと土地が個人の物通り越して皆の物になる危険性もあったので尚更です。商工業者は価格統制を嫌い自由商売を望み、労働者も賃金へ不満をつのらせます。


という事で白色テロ(反革命テロ。革命推進者を殺す運動)に走りました。これが1794年7月のテルミドール(熱月)のクーデターです。議会内の反対派がロベスピエール氏を、彼が嫌っていた神の下へと強制的に送ってやり、ここで恐怖政治が終了しました。





【革命の終了とナポレオン】


1795年10月に総裁政府が出来た事により、フランス革命派終了します。これは制限選挙制を復活させた1795年憲法により成立しました。5人の総裁により構成された政府なのですが、権力分散させた所為で色々面倒事が起きます。右派の王党派が反乱起こしたり、左派で共産主義者、私有財産廃止を求めるバブーフが民衆煽って革命起こそうとしたりとまだまだ安定しません。


が、そこに登場するのが残念な英雄、ナポレオン=ボナパルトです!コルシカ島(イタリア領からフランス領になったばかり)生まれの彼は「コイツイタリア語訛りのフランス語話してんぜププー(笑)」という扱いを受け、人気の騎兵部隊に入れませんでした。そこで彼が志願したのが砲兵隊。この頃までの戦争は一人が一人殺し、最終的には兵を多く登用した方が勝ち、というのが常識でした。

が、大砲が台頭してくるとがらりと変わります。遠距離から殺せるって大事です。と、いうのを利用して成り上がったナポ公の特技はメディア戦力、つまりはったりでした。


そんな彼はイタリア遠征(1796年、対オーストリア)で成功して国民の人気を得ます。97年にカンポ=フォルミオ条約によって第一回対仏同盟が消滅されたのですが、98年にナポ公が行ったエジプト遠征(イギリスとインドの連絡断ちたかった)行ったせいで第二回対仏同盟を結ばれてしまいます。

その後、99年に本国の政府が何やら怪しい、という情報を仕入れ、ブリュメール18日のクーデターを起こす為に少数の部下と共にエジプトを脱出。クーデターを成功させ統領政府を樹立します。



1800年にフランス銀行を設立し財政を安定させ、01年に宗教(コンコル)協約(ダート)をローマ教皇ピウス7世と結んだことで、理性の崇拝が瓦解。再びカトリック国家にさせて安定させます。因みに教会財産は現状のまんま。つまり農民にあげちゃったモンは流石に返せない、という訳ですね。ここで政教分離というフランス独特の体制が築かれ、今に繋がっていく事になりました。


02年にはアミアンの和約を対英目的でヨーロッパ各国と結んだ事で第二回対仏同盟も無くなり、フランスは久しぶりに戦争も無い穏やか?な生活を迎えます。そんな彼は国民から熱狂的支持を得、8月には終身統領に迎えられました。独裁体制が可決された事でナポレオンは(悪い事は今の所そんなにしてないけど)やりたい放題。旧官僚の復権を目指して官僚機構整備したりしました。


04年にはナポレオン法定(フランス民憲法)を制定。

・法の前の平等(身分制は無いよ!能力主義でこれから行くよ!)

・基本権(国民には権利があるよ!権力者でも制限できないものだよ!具体的には↓)

 ①信仰の自由(カトリック以外許されて無かった)

 ②移動の自由(今までは引っ越すのも領主の許可無しには出来ない)

 ③労働の自由(今までは職業選択は出来なかった)

 ④契約の自由(一度成立すると法化されたものと見なされる。これ以降フランスは契約大好き社会に)

 ⑤財産の自由(どんな権力によっても侵してはならない。もし侵すなら補填必須。個人財産は神聖不可侵)

を掲げ、世界初の民法(国民の権利を保障するもの)を創り上げました。全2281条から成るナポ公最大の成果で、「オレフランス革命の継承者だかんな!」という意味を込めた代物です。あ、でもまだ言論出版の自由はありません。ナポ公に都合の悪い事書いた書物は検閲で引っ掛かって、書いた人は牢獄直行。あとまだ女性に権利はありません。女性が強くなるのはWW1(1900年代)以降です。


そして同年、ついに国民投票で皇帝ナポレオン1世となります。ここからが第一帝政(1804~14・15)です。


が、他国がこれに危機感を覚え、05年に第三回対仏同盟を結び、戦争が再開されてしまいました。トラファルガーの海戦でネルソンの英国艦隊に敗北(ネルソンは此処で死亡するも、ナポ公はセントヘレナに飛ばされるまで知らずwww)。アウステルリッツの三帝海戦ではオーストリア(フランツ2世)・ロシア(アレクサンドル1世)連合軍に勝利します。ここで西欧の半分がナポ公の影響下に置かれました。対仏同盟も崩壊していきます。


06年にはこれを利用し西南ドイツ諸国(つまり神聖ローマ諸国)を纏めてライン同盟を結成し、コレによって神聖ローマ帝国が完全に滅亡されてしまいました。これまでは一応ハプスブルク家がオーストリア・プロイセンを除いた所を40位の塊として纏め、後もある程度は保たれていました。が、ナポ公によりそれも終了です。


更に同年、大陸封鎖令(ベルリン勅令)なんて物を発布してしまいました。ここからがナポ公没落のお知らせです。イギリスを経済的に疲弊させたかったらしいのですが、ヨーロッパ諸国にイギリスとの通商を禁止させたこれは、逆に西欧諸国に大打撃を与えてしまいます。各国の状況は↓


仏「イギリスとじゃなくてウチと貿易してよー。イギリスは弱ってウチは栄えるなんて一石二鳥だよね!」


欧諸国「安くて良かったイギリス製の物が入ってこねぇ……!ウチの麦とかの輸出も出来ねぇ!恨むぞフランス!」


英「あー、まぁ植民地使えば如何にかしのげるだろ」


露「守る必要あるのこれ?別にいう事聞かなくて穀物輸出してもいいよね!」



裏切り者が出る始末で結局上手く生きませんでした。



07年に06年のイエナの戦いでプロイセン・ロシアに勝っていたのでその講和条約としてティルジット条約を結びます。上記の大陸封鎖令にロシアが参加した理由がこれなのですが、話の関係上流れを逆にしました。注意して下さい。他にも普は莫大な賠償金と領土の大半の割譲を余儀なくされたり、プロイセン領ポーランド(絶賛分割統治中。第一次世界大戦が終わるまでポーランドと言う‘国’はありません)にワルシャワ大公国作って弟を国王に据えたりと無茶苦茶やりました。


が、08年ナポ公がイベリア半島に侵攻した事にスペイン民衆がキれ、抵抗運動を開始します。このスペイン反乱はゲリラ戦が各地で起き、イギリスに救援呼んだ程の物でした。

それに続き12年のロシア遠征は冬将軍に負け大敗します。これは大陸封鎖令守らなかったロシアへの制裁だった筈なのに、9月にモスクワを焦土とした後、10月には(冬のロシアとか死ねると判断し)退却を余儀なくされ、おまけに正規軍からも農民ゲリラからも襲われる、という状況に陥ったからです。これによりナポ公の立場は弱くなり、第4回対仏同盟が組まれる始末。


そして13年のライプチヒの戦いで普・墺・露連合軍によりパリを陥落され、14年には皇帝を退位し、エルバ島(イタリア北西部)に流され幽閉されました。ここからルイ18世によるブルボン朝の王政復古が始まります。



ナポ公によって成された事と言えば、フランス革命の精神(自由・平等・所有権の不可侵)がヨーロッパ中に広まった事(これによりプロイセン改革が起きてます)と国民(ナショナ)意識(リズム)の目覚め(スペイン反乱とか)でしょうか。





【ウィーン体制】


ウィーン体制は1815~1848にかけてヨーロッパ内の秩序を守った体制です。フランス革命とナポ公によりナショナリズムやら自由主義が発達し、「古臭い欧州なんていらねぇよ!」と国民から反発受けたり、ナポ公の所為でボロクソになった国々の上層部が平和維持という名目でいかに自由を抑制するか悪知恵を働かせた為に出来ました。こんな感じで保守(作った状態を維持しようとする)反動(ナショナリズム反対!)的です。


そんなウィーン体制を作ったのがウィーン議会(1814~15)。議長をオーストリア外相(後の宰相)メッテルニヒとし、彼を中心に「ヨーロッパこれからどうすんべ」と英のカッスルレー、仏のタレーラン、露のアレクサンドル1世、普のハルデンベルク等と話したのですが、皆さん自国の主張ばっかり言って一向に決まらず。本来は「ナポ公から解放された地域、戦勝国で分配しようね」だったのですが領土争いを口で決めようなんてまず無理でした。「会議は踊る、されど進まず」っていうのは中身のない会議の後に舞踏会だので盛り上がってた事から来た言葉です。尚、この会議は大国でありながらオスマンはハブられてます。


しかしそんな会議の途中、なんとトンデモナイ情報が入って来ます。それは「ナポ公がエルバ島から脱出してパリに戻った」。ナポ公としては「年金支払われない所為で暮らすのが大変なんですけど!?しかも仏国内もルイ18世に不満なんだね!ラッキー!」という理由で脱出してパリに入城、百日天下を築いたのですが、これに対し西欧諸国は、ようやくナポ公という脅威から解放されてほっと一息ついたのに奴がまた湧いた、と焦りやっと会議は進みます。


そこで出来たウィーン体制の原則の一つは正統主義。フランスの外相タレーランが、最もフランスに害の無い方法として提唱したこれは「フランス革命前の状態を正統と見なして王朝も地図も戻そーぜ」という内容でした。もう一つは勢力均等。「大国の利害を重視してお互い同じ位の力にしようぜ。そうすれば睨みあい状態で止まるだろ?」英・露(ナポ戦争以後強大化した二国)・墺・普(前者二国を利用しようと試みた二国)・仏が大国と見なされました。



そしてウィーン議定書が15年6月に調印された事で決まります。内容は↓


・フランス・スペイン・ナポリ(両シチリア)はブルボン朝復活。ローマ教皇領も戻ります。


・イギリスはオランダからセイロン島とケープ植民地を貰い、あと地中海上のマルタ島もGET。インドとの交易に持って来いな場所だったらしいです。中継地として。


・オランダはオーストリアから南ネーデルラント(現ベルギー)を獲得し、オランダ立憲王国を作ります。が、オランダはプロテスタント、ベルギーはカトリックなので色々揉め、結局最後は独立されてしまいます。


・ライン同盟はなんと神聖ローマ復活ならず、35君主と4自由市(リューベック・ハンブルク・フランクフルト・ブレーメン)から成るドイツ連邦をオーストリアのハプスブルク家中心に作ります。緩やかな連合体です。あとハンガリーとかのドイツ系じゃない地域は入れてません。


・オーストリアは北イタリアのロンバルディア、ヴェネツィアを獲得。後の未回収のイタリアの原点です。


・サルデーニャ王国はサヴォイア、ジェノヴァを獲得


・スイスは永世中立国となり、以後マジで「ウチの国に喧嘩売らなきゃこっちも干渉しねーよ」という体制を崩さなくなります。武器輸出とか傭兵とかで一時的に仲間っぽくなってはくれますが、あくまでその程度。


・ロシアはフィンランドをスウェーデンから獲得、ベッサラビアをオスマンから獲得します。そしてワルシャワ大公国を魔改造し、ポーランド立憲王国というロシアの傀儡政権を仕立て上げ、ポーランド王も兼任。


・プロイセンは工業地帯として有名なラインラントやザクセン地域、スウェーデンから西ボンメルンを獲得。


・スウェーデンはデンマークからノルウェー貰いました。


・国際河川(つまり、複数の国にまたがる川)では、船の航行は自由としました


・奴隷貿易を禁止します




ですがこのように、ドイツ連邦が誕生した代わりに神聖ローマ帝国は復活しませんでしたし、フランス革命の産物であった「自由」を目的とした諸制度を求めた人々は、王侯貴族中心の昔の体制なんかに戻りたくはありません。様々な反乱が起こり、各国政府は対応に苦慮していくことになります。メッテルニヒも「私は生まれるのがあまりに早すぎるか、遅すぎた。私は崩壊していく建物を支えながら人生を送っている」と自嘲する程の破綻した体制でした。


因みにナポ公はワーテルローの戦いでこれらウィーン会議参加者(英・蘭・普連合軍)に負け、今度こそイギリス領セントヘレナ(南太平洋のリアル孤島)に流され、胃癌で51歳位に死にました





【同盟の成立】


ウィーン体制を支える為に二つの同盟が作られました。一つは神聖同盟。ロシアのアレクサンドル1世が「キリスト教同士仲良くしようぜ!」と提唱しますが、精神的な繋がりなので非常に緩やかです。緩すぎてイギリスに形が無いと批判されたり、ローマ教皇に「お前んとこギリシア正教じゃねーか。誰が参加するか」と無視されたり、オスマンが「うちもキリスト教じゃないんで」と入らなかったりという状態です。


実質的な軍事同盟は四国同盟の方。英・露・普・墺が仮想敵国を当時革命とかで(ウィーン体制崩さないよな?と)怪しかった仏にしていたのですが、1818年に仏が加盟して以後(=五国同盟結成以後)はその他諸々の国を仮想敵国と変更。





【自由主義運動】


上記のように、お偉いさん達は自分達が脅かされない環境を作ってのうのうとしてますが、国民は自由主義を求めているので四国(五国)同盟+メッテルニヒ率いる、反動協調的なウィーン体制は気に入りません。そこで様々な国の国民がウィーン体制を壊そうという動きを見せます。



ドイツではブルシェンシャフト(学生組合)運動が起こります(1817)が、メッテルニヒ主導のカールスバードの決議で弾圧されてしまいました(1819)。参加した学生や教師は全員退学されたそうです。



さて、そんな中イギリスは何故か弾圧賛成派でした。理由は1820~30年代は自由主義を求める産業資本家が多かったからです。「ヨーロッパの古い体制なんてもうやめようぜ」という風潮な上、議会でそれが通ってしまいました。しかしキャッスルレー首相は曲がりなりにもウィーン体制を作った張本人。この議決の所為で自殺してしまい、代わりに次のカニング首相が反ウィーン体制的な動きを見せるようになります。よって五国同盟は崩壊。おまけにフランスも似たり寄ったりな状況で「うちも同盟から出てくねー」と言い出し、同盟は露・墺・普中心へと変化していきます。



そんな状況でスペインでは立憲革命が起こります(1820)。実は1812年に憲法が制定されていたのですが、ブルボン朝復活と共に消滅してしまっていました。が、リェーゴがカディスでこの革命を起こします。反ウィーン体制に移行していたイギリスは「いいんじゃね?独立賛成する」と表明し(裏では「これで独立出来たら俺んとこの市場に使えるよな!恩売ったし!」とか考えてる)ポルトガル・ナポリにこの動きが波及します。残念ながら結果はフランスがわざわざピレネー山脈越えて鎮圧しに来て(1823)失敗しましたが。



イタリアでは秘密結社(笑)のカルボナリ(炭焼き)党がスペインに煽られナポリ蜂起(1820)やピエモンテ蜂起(1921)します。がどちらもオーストリアが鎮圧。イギリスは逆に弾圧反対派だったようですが。



ロシアではデカブリストの乱(1825)が起きます。ロシア将校達が起こしたのですが、そもそもロシア軍はナポ公との戦争で、常に敗北していました。ナポ公が天才過ぎたと言えばまぁそれまでなんですが。尚、ロシア遠征では最後には勝ちましたが、実際にはロシア軍は侵入してきたナポレオン軍から逃げていただけで、冬の寒さと飢えがナポレオン軍を負かしただけです。あったかいフランス人筆頭部隊が極寒のロシアに大した装備と計画も無しに挑んだ方がアホ過ぎる。


で、まぁ自分の軍隊が弱い、いつも負けていた、というのは将校としては非常に悔しいわけで、一部の貴族将校(ロシアの将校は全員貴族階級。何故か貴族なのに自由主義者。貴族階級は自由主義に反対するのが普通だと言うのに(笑))達は「ロシア軍を強くするにはどうしたらいいんだ……」と真剣に考ました。そんな彼等の手本になったのがプロイセンです。理由はプロイセン改革によって、プロイセン軍はわずかの時間で見違えるように近代化され強くなっていたから(だってフリードリヒ=ヴィルヘルム1世が‘プロイセン式’=超スパルタな訓練やってた)。農奴に自由を与えて、兵士に愛国心を持たせなければ軍隊は強くできないというのが彼等の結論でした。そのためにはロシアの政治に自由主義を取り入れ、立憲政治を行い、農奴を解放すべきだ、と考えたのです。


が、ロシアの政治は皇帝による専制政治(ツァーリズム)。自分たちの考えを実行するには反乱しかなかった訳です。尤も鎮圧されて終了しましたけどね(`・ω・´)





【ウィーン体制の動揺・ラテンアメリカ編】


ウィーン体制の動揺の理由は主に二つあり、一つはラテンアメリカの独立運動です。独立以前は人種階級として本国生まれの白人(=ペニンスラール)が高級官僚・軍人を、植民地生まれの白人(=クリオーリョ)が農場主等という支配階級として立ち、白人とインディオの混血(=メスティーソ)・白人と黒人の混血(=ムラート)が被支配層とされていました。因みに黒人は論外です。


そんな感じであからさまに本国からの圧政を受けて不満が溜まっている上にアメリカやフランスの革命の影響が出て来、ついでにナポ公が大陸封鎖によって自立化を促進してくれたものですから万々歳。これに対し欧米諸国は様々な対応を行います。メッテルニヒは独立に干渉する事で後々支配出来るのではないかと考えました。


イギリス外相カニング(任1822~27)は独立を承認し経済支援もするも干渉は反対。これにより「ラテンアメリカがイギリス市場になってくれないかなー」と期待します。



で、アメリカはモンロー宣言(1823)でヨーロッパ・アメリカの相互不干渉宣言を行います。これは「ヨーロッパに関わらないからアメリカに関わらないで貰える?」という意味なのですが、神聖同盟を利用して中南米諸国独立へ干渉反対してくる輩がウザかったし、ロシアが北米太平洋岸へ南下しようとする動きを排除したかったという理由から宣言されました。まぁどこがどこから独立したか、は説明の仕様が無いのでハイチだけ説明します。


ハイチは最も早く独立運動が始まった国で、元は仏領でした。そんな中トゥサン=ルーヴェルチュール(黒人指導者)が侵入したイギリス軍を撃退して島の全権を握った、のですがナポ公にとらえられ独立直前に仏で獄死。ですがこの直ぐ後ナポ公軍の干渉を退け、1804年に初の黒人共和国となります。



他の国は北部(ベネズエラ・コロンビア・ボリビア等)の独立はシモン=ボリバルが、南部(アルゼンチン・チリ・ペルー等)の独立はサン=マルティンが、メキシコ独立はイダルゴが、ブラジルはポルトガル王子ドン=ペドロがナポ公から逃げてブラジル帝国を樹立(1822)します。が、クリオーリョが支配層になっただけで殆ど何も変わらず、外国資本の支配を受け続け、モノカルチャー経済(輸出用の作物をひたすら作る)が延々と続きました。





【ウィーン体制の動揺・ギリシア独立戦争編】


1821~29にかけてギリシアがオスマンから独立しようとします。そこでまずオスマンはエジプトのムハンマド=アリーに「Help!」と泣きつき、オスマン・エジプトVSギリシアに。


そんな時、英はこう考えました。「オスマン辺りが揉めるとインドとの通商航路が使えなくなるよなー。遠回りしたくないんだよなー」。露はこう考えました。「南下したいなぁ…凍らない海欲しいなぁ…」。仏はこう考えました。「ロシアが南下とか絶対御免なんだけど!?」。墺は考えました。「ウィーン体制壊したらアカン…ドイツ民族中心なのにドイツ人少ないウチの国で一斉に民族運動起きて独立されたらオーストリア終了のお知らせですねあはははは」。


という事で、英・仏・露はギリシアの支援をしたいのにメッテルニヒが「駄目」というから介入出来ないもどかしい状況が続きます。英のバイロンが義勇兵としてギリシア側に従軍したり、仏のドラクロワが「シオ島の虐殺」を描いて欧州の人々にギリシアの現状を説いたりしてみますが、メッテルニヒさんが許可してくれねぇぞ畜生、となってます。



が、1825年にアレクサンドル1世が死亡した事で事態は動きます。後継者のニコライ2世が「俺ウィーン会議とか参加してないもん、当事者じゃないもん」とギリシア支援を始めるのです。これに焦った英仏が「ロシア南下するなよ!?」と同じくギリシアを支援し、1827年にナヴァリノ開戦で三国連合軍によりオスマンを破る事に成功します。


その後、ロシアが勝手にアドリアノープル条約でギリシア独立を認めてしまいます。コレにまた西欧列強は焦りまして。「ロシア一国が独立認めた=ギリシアのバックはロシア=ロシアに恩がある=南下成功」という方程式を打ち消したくて、英のパーマストン外相がロンドン会議(1830)で「皆ギリシアの独立認めるよ!」と沢山の国の代表集めて宣言し、ロシアの南下を食い止めます。これの所為で東方問題が勃発したようなものだったりするんですがね。





【七月革命】

フランスではブルボン復古王政し、首チョンパになったルイ16世の息子、ルイ18世(位1814~24)が王位に就きます。一応フランス革命の精神は認めた上で行動していたので、彼はそんなに大きな問題にはならなかったようですが、次の王で18世の弟のシャルル10世(位1824~30)が面倒な人でした。ルイ14世に憧れてしまった彼は時代錯誤甚だしい事に、王権神授説などと言い出すのです(笑)つまりフランス革命全否定。亡命貴族への補償金(貴族勢力の復活を目指した)とするため増税して国民怒らせて、彼等の不満を逸らす為アルジェリア出兵(1830。敵が他に居れば国内はちょっと落ち着く)するのですが、議会にそんな政治を反発されます。それに逆切れした彼は「テメエ等なんて要らねぇ!新しい議会作ってやる!」と選挙するも、やっぱり反対され、七月勅令で招集すらされてなかった議会解散して、極端すぎる制限選挙して、言論統制にまで走ります。


勿論パリ市民は怒ります。1830.7.27から3日間、ラ=ファイエット(アメリカ独立とフランス革命とここでも活躍する凄い人)中心にバリケード作って革命起こします。シャルル10世はこれを受けて退位(1830.8.2)・イギリスに亡命し、じゃあ新しい政治作ろう!となった所で問題発生。


ラ=ファイエット「俺共和政が良い」


市民の多く    「え、立憲君主制だろ?そこは」


大ブルジョワジー「メッテルニヒが出て来る前に決めたい。お前等ちょっと妥協しろよ」




結果妥協案で七月王政(1830~48)が出来ました。自由主義者として知られるオルレアン家のルイ=フィリップ(ルイ14世の弟の子孫)が国王になったのですが、この時点でフランスは「私はフランス国民の王である」なんて言わなきゃいけないほどガッタガタだったらしいです。


・この七月革命の影響でベルギーがブリュッセル蜂起して、オランダより独立。ベルギー王国(1831)が出来ます。


・ポーランドではロシアに対してワルシャワで反ロシア運動を展開。一時勝ったという噂が流れた際、ショパンは喜び勇んで「練習曲・革命」を作ったのに結局革命失敗して、以後絶対に本人はその曲は弾かなかったとか。その後ポーランドはロシアの直接支配下に置かれます。


・ドイツでは1830年にザクセンなど連邦内で憲法作る動きが出るも失敗します。でもこれによりプロイセン中心にドイツ関税同盟が発足(1834)


・イタリアではまたもやカルボナリ党が反乱起こすもオーストリアが弾圧。これを受けてマッツィーニが亡命先のマルセイユで「やっぱ秘密結社じゃ人数集まんないよなー」と国民的組織・青年イタリアを結成。


・イギリスでは第一回選挙法改正(1832)が起こります。





【二月革命】


これが起こるにあたってまずは七月王政の実態を挙げますと、国王ルイ=フィリップは「自分はフランス国民の王だ」とか言っておきながら、実際は大ブルジョワジーや銀行家を重視・保護し国民から「株屋の王様」と呼ばれる程期待外れな国王でした。


ですがこの時代、産業革命がフランス国内においても進展し、中小資本家や労働者の立場が徐々に強い物へと変わってきています。農民は土地持ちだから別に労働者になる為に都市に出ようなんて考えないんですよね。おまけに工業化・都市化の影響で生活環境が酷く悪かったり、1840年代後半からは気候の寒冷化により作物が育ちにくくなり、46~47年にかけて金融が恐慌っぽい事起こしたりとカオスに陥ってたので資本家・労働者の「参政権寄越せ」という声は大きくなるばかりです。彼等は改革宴会という選挙法改正運動を各地で展開していました。



が、1848年2月22日に「参政権が欲しいなら金持ちになりたまえ」などとのたまったギゾー首相率いる内閣が、選挙法改正運動全国大会編(inパリ)を弾圧し始めたのです。これにパリ市民はバリケードを作って蜂起し、これまた3日間に渡る革命が勃発しました。レ=ミゼラブルはこれの話です。で、国王ルイ=フィリップはイギリスへ逃げ出し、臨時政府として第二共和政(1848~52)がスタートします。


さて、第二共和政は四月選挙で男性普通選挙を行った結果、穏健的共和派が勝利した事で成立しました。失業者救済の為に国立作業所を設置したりと、何かいい事やってる気もするんですが、世の中そんなに甘く無い。問題点は「どんなにナマケモノでも作業所に居る人は必ず給料貰えた事」。まぁ、労働者以外としては不公平この上ない施設です。働かなくても賃金が出るという国立作業場の設置のように労働者を保護しすぎたため、今度はまさかの労働者以外の人達から猛反発を喰らいます。そのため、4月に行われた選挙で社会主義勢力は大敗を喫し、これに怒った労働者達が蜂起するも(六月暴動)、死者3万人以上、逮捕2万5千人以上、死刑1500人という、凄まじい弾圧を喰らいました。



こうして再びフランスが混乱に陥った中で、1848年12月、大統領選挙が実施されました。ここで当選したのが、あのナポ公の甥であるルイ=ナポレオン(1808~73年)でした。正式な名前はシャルル=ルイ=ナポレオン=ポナパルトですので、一応「ポナパルト」の名前も受け継いでいます。当時のフランス国民にとっては、一時的にとはいえ強大なフランス帝国を造り上げた「ナポレオン=ポナパルト」が再びやってくる! というわけで、拍手喝采大歓迎で迎え入れました。


大統領に当選したルイ=ナポレオンは後に詳しくやるのですが、マッツィーニが建国したローマ共和国を弾圧し、フランス軍を駐留させることに成功します。そして、当時の憲法で大統領は再選禁止となっていたことから1851年12月、軍隊と警察を使ってクーデタを仕掛け、反対派の議員を逮捕。そして国民投票で自らのクーデタを承認させ独裁権を掌握し、任期10年の大統領となります。が、これだけでは満足できないルイ=ナポレオン。翌年の12月には、やはり国民投票で皇帝へ就任することを承認させます。以後ナポレオン三世を自称し、第二帝政(1852~70)が成立します。





【二月革命の影響】


二月革命(1848年革命)の影響はまたもや様々な国に現れます。ナショナリズムが活発化したこれを「諸国民の春」と言うのですが、春の理由は暖かくてイイ感じだから、というより「張るって束の間なんだぜ…」の意味です。


さて、この革命がもたらした影響を改めて挙げますと、ドイツ三月革命の片割れ、オーストリアのウィーン三月革命。メッテルニヒが失脚して、洗濯物に隠れてイギリスに亡命しやがった為にウィーン体制が壊れました。



・オーストリア支配下の民族も独立を求める動きを見せます。ハンガリー(マジャール人。1848~49)はコッシュートが「独立してやんよ!」と宣言するも墺・露により鎮圧され終了。ベーメン(チェック人。1848)ではパラツキー主導でスラブ民族全体の独立を求める動きを見せ、スラブ民族会議が開催されますがこれも墺によって弾圧されました。


・プロイセンではもう一つのドイツ三月革命であるベルリン三月革命が起き、自由主義内閣だったカンプハウゼン内閣が成立するも即行に崩壊。欽定憲法を作るも色々な思惑とか地盤の緩さとかで残念な事になりました。以後ドイツ各地で蜂起が勃発し、諸邦で自由主義内閣が成立していきます。尚、この当時ドイツ周辺は神聖ローマから続く、相変わらずのバラバラ具合です。


・イギリスではチャーティスト運動(英労働者「選挙法どうにかしやがれ!」)が高揚(1848)。


・ポーランドではポーランド独立運動(1848)ポズナニを中心に高揚するもロシア軍が鎮圧。


・イタリアではイタリア統一運動が起こります。サルデーニャ王国がオーストリアに宣戦布告する(1848)も、翌年勿論敗退。サルデーニャ王カルロ=アルベルトは退位し、ポルトガルに亡命する事になります。しかしそれだけでは終わらず、先程ナポ3の所でちろっと出て来たマッツィーニが1849年にローマ共和国を成立させます。が、カトリックに影響の影響が強いナポ3によって撲滅キャンペーンが行われました。



・そして重要なのがドイツのフランクフルト国民議会(1848~49)です。ドイツ諸邦の自由主義者が5月に開催したこれは、ドイツの統一と憲法作成についての討議の為に開かれました。憲法のほうは割とすんなり決まったのですが、問題はドイツ統一の方。「オーストリア含めて統一しようぜ」という大ドイツ主義と、「オーストリア中心じゃ多民族ばっかになるじゃん!そんなんドイツの統一じゃねーよ!」というプロイセン中心の小ドイツ主義がぶつかり合います。


結果は小ドイツ主義が勝ち、さあドイツ統一だ!――と、思いきや、フリードリヒ=ヴィルヘルムシリーズの最強コンボ、普王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が「自由主義者の冠なんて冠りたくないもん」と言い出し失敗。この会議の為に国にロクに帰らず頑張ってた人達は「もう帰る場所もねーよ……」と続々とアメリカに亡命してしまいます。ドイツの工業化とかが遅れた理由の一端がコレです。そしてアメリカで最も多いのがゲルマン系なのも多分これが原因の一端。



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