僕、知らなかったよ。
義輝が生まれ、義晴が家督譲渡を表明してから数年。
幕府の仕事は相変わらず山積みだったが、義晴の周囲では、しばらく大きな騒ぎもなく日々が過ぎていた。
そして、天文八年六月。
義晴のもとでは、奉行たちが書付を手に忙しく行き来していた。
「じょうこうさん、確認お願いします!」
「じょうこう殿、ご確認お願いいたします!」
「父上! 確認お願いします」
今度は晴光が書付を差し出した。
「晴光! 仕事中は父上と呼ぶな!」
「失礼いたしました。じょうこう殿、確認お願いいたします」
「うむ」
それを見ていた義晴が、うへぇ~という顔をしている。
「大御所様、変な顔してどうなさったのですか?」
「大舘。上皇って呼ばせてるの?」
「はい、皆が自然とそう呼びだしたと申しますか、大舘だと私と晴光の二人おりますゆえ」
「僕の前だけにしてね。僕はそういうの気にしないから」
「なにを申されているのですか?」
「ほら、上皇って呼ばせてるのバレると色々とマズイと言うか。慶寿院ちゃん系の人たちそういうの厳しそうじゃん?」
「大御所様、呼びましたか?」
噂をすれば、慶寿院が顔を出した。
「うわぁ! け、慶寿院ちゃん? なんでも無いよ?」
慶寿院は首をかしげた。
「じょうこう殿!」
「ひえぇー!」
またしてもその呼び名が飛び出し、義晴は思わず身をすくめた。
「どうした晴光?」
「すみません。確認漏れがございました。……ありがとうございます! じょうこう殿!」
晴光は書付を受け取ると、仕事に戻るタイミングをうかがっていた。
「大御所様」
「は、はい!」
「さっきからどうなさったのですか? 様子がおかしいですよ?」
「なんでも無いよ。本当だよ」
慶寿院は大舘へ向き直った。晴光もいるので、今度は下の名で呼ぶ。
「大舘殿……いえ、じょうこう殿。大御所様のご様子について、何かご存知ですか?」
「えっ!」
思わず声を上げた義晴に、慶寿院は不思議そうな顔をした。
「? やはり何か様子がおかしいのですが?」
「慶寿院様、大御所様がおかしいのは今に始まった事ではございませぬぞ」
「大舘! お前、失礼だぞ! 僕はお前を心配してたのに!」
「私を心配とは? はっ! まさかこの老体にお暇をいただけるのですかな?」
「そんなわけあるかぁ!」
「ではなにをそんなに心配なさっていたのですか?」
「うぅ、僕はもう知らないからな! 大舘が自分の事を上皇って呼ばせてるんだよ」
一同、顔を見合わせた。
義晴もつられて首をかしげる。
「何が問題なのですか?」
そのとき、大舘は何かに思い当たったように義晴を見た。
「あ~、大御所様。私の名前はご存知ですかな?」
「大舘!」
「苗字ではなく下の名ですぞ」
「つねおきでしょ? いつも書簡に書いてあるじゃん? それくらい知ってるよ」
大舘は一枚の書付を取り、そこに記された自分の名を示した。
「私の名前は『常興』と書いて『じょうこう』と読むのです」
「えっ? 常興って『じょうこう』なの?」
「はい」
それを聞いて、慶寿院が目を丸くした。
「あんなに一緒にいたのに読み方を知らなかったのですか?」
「いやぁ、アホだアホだと思ってはおりましたが、まさかここまでとは! ふぉっふぉっふぉっ!」
「大舘!」
その間、ずっと黙って立っていた晴光が、ぼそりと呟いた。
「俺、もう仕事に戻ってもいいかな?」
そのとき、奉行の一人が慌ただしく入ってきた。
「大変失礼いたします! 至急お伝えしたいことが……」
奉行人は、大御所様たちの様子をうかがい、言いよどんだ。
晴光が先を促す。
「構わん。申せ」
「はい。三好長慶殿より河内十七箇所の代官職への申請がありました」
大舘と晴光の表情が変わった。
「晴光! これはマズいことになりそうじゃぞ」
「常興殿、承知しております」
「どしたの? 急に?」
「大御所様、最悪の場合、三好家同士の争いになりまする」
「高国さんと晴元の細川家みたく今度は三好家が争いになるってこと?」
「はい」
「でも急になんで、長慶くんが河内十七箇所の申請してきただけでそうなるの?」
「河内十七箇所の代官職をめぐって、長慶殿と三好政長殿の間には以前から確執がございます。しかも政長殿は、長慶殿の父・元長殿の死に深く関わった人物。今回の申請をきっかけに、対立が表面化するやもしれませぬ」
「うーん。また内輪もめかぁ」
◇
同年閏六月。
三好長慶と三好政長の対立は収まらず、長慶方の軍勢が京の周辺で動き始めていた。
知らせを受けた細川晴元は、苛立ちを隠さなかった。
「あのくそボケェ! なにしてくれとんじゃ!」
「まあまあ殿、落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか!」
「まさか兵を挙げるとは思いませんでしたね。父・元長殿によく似ている」
「ちっ、長慶の野郎マジでふざけんなよ」
「とは言っても、もう準備しているのでなるようにしかなりますまい」
晴元は政長を支持していたが、長慶の動きによって情勢は一気に緊迫していた。
「なんであの親子はすぐに挙兵すんだよ! 頭おかしいんじゃないのか?」
「まあ問題児ではありますね」
「お前もなんでそんなに落ち着いていられるのか俺にはわからないよ」
「将軍・足利義晴公も動いてくださっていますから、今は動向を見守りましょう?」
晴元はしばらく考え、側近に命じた。
「万が一があるからな。一部避難する準備だけはさせておけ」
「承知~」
この頃、京では晴元が都を退去するとの噂まで流れ、騒ぎが広がっていた。




