政治家への誘い
学校統廃合をめぐる住民投票は、2回目ということもあり、前回よりもスムーズに進行していた。
町民会議の設計も、役場にノウハウが残っている。
資料の作り方、参加者の選び方、進行役の配置、報道対応。
太陽光発電のときに手探りで進めたことが、今回は手順として残っていた。
住民投票は、やはり6月の町議会議員選挙と同日に行われる見込みだった。
投票事務の経費を抑えられることに加え、選挙へ向けて町民の関心が高まる時期でもある。
村田は、今回もうまくいけば、年に一度程度、同じ方式で町民会議と住民投票を行うことも検討しているらしかった。
もっとも、毎年必ず大きなテーマがあるとは限らない。
テーマがなければ実施しない。
ただし、あらかじめ年1回の可能性を見込んでおけば、役場も準備しやすい。
急に町長が、
「住民投票をやる」
と言い出せば、職員には大きな負担がかかる。
だが、毎年この時期に必要があれば行うと決めておけば、資料作成や予算、職員配置の見通しも立つ。
「役場も、少しずつ慣れてきたみたいだね」
敏夫が言った。
「慣れすぎるのも怖い気がします」
グリフは答えた。
「住民投票が、町長の人気イベントみたいになると困ります」
「その懸念はある」
敏夫は否定しなかった。
「だが、使い方を誤らなければ、町民が町の課題を考える場にはなる」
「万能ではないけど、道具としては使える」
「そういうことだ」
そんな流れの中で、一度、村田、久保、敏夫、グリフの4人で食事会が開かれた。
場所は、町内の小料理屋だった。
政治家たちがよく使う店らしく、奥に小さな個室がある。
表の席では地元の常連客が酒を飲んでいたが、奥の個室に入ると、襖1枚でほどよく声が遮られた。
名目は意見交換だった。
しかし実際には、グリフが立候補を迷っているため、周囲がそれとなく説得する場でもあった。
*
「まあ、今日は堅い話ばかりじゃない」
久保が徳利を持ちながら言った。
「食って飲んで、それから考えればいい」
「久保さんの場合、飲んだあとに考えると話が大きくなりそうです」
グリフが言うと、久保は大きく笑った。
「話は大きい方が面白いだろう」
村田も、以前より砕けた態度でグリフに接するようになっていた。
太陽光発電の住民投票、町民会議、外国人受け入れ、駅前店の成功。
いくつかの出来事を経て、村田の中でもグリフを見る目が変わったのだろう。
酒が少し入ったせいか、その夜の村田は声が大きかった。
「私は、田辺君には大いに期待しているんだ」
「ありがとうございます」
グリフは無難に答えた。
「君は、決して食堂の店主で収まるような人じゃない」
「もっと上を狙える」
食堂の店主。
その言い方に、グリフの胸の奥がわずかにざらついた。
ワルン・クラサワは、ただの逃げ場ではない。
自分の店であり、ジョコやナノたちが働く場所であり、ルンザットと倉沢をつなぐ拠点でもある。
食堂の店主を下に見たような響きが、村田の言葉にはあった。
だが、グリフは笑っていた。
「そう言っていただけるのは、ありがたいです」
以前なら、すぐ顔に出ていたかもしれない。
いまは、少しずつ感情を表に出さないことを覚えていた。
それが成長なのか、嫌な慣れなのかは分からない。
久保は、別の角度からグリフを見ていた。
「俺はな、田辺さんの人を集める力が面白いと思ってるんだ」
「人を集める力ですか」
「そうだ」
久保は箸を置いた。
「町の人とすぐ仲良くなる。商店街でも、農協でも、清掃活動でも、気づいたら誰かと話してる」
「それは、店をやっているからです」
「店をやっている人間が、みんなそうなるわけじゃない」
久保は首を横に振った。
「それに、政治的な話を何気なく聞き出すのがうまい」
「聞き出しているつもりはありません」
「だからうまいんだよ」
敏夫が横で少し笑った。
久保は続けた。
「農協との技能実習生の件も聞いている。簡単じゃなかったんだろう」
「今も簡単ではありません」
「だろうな。トラブルもある。思いどおりにいかないこともある。それでも折れずに進める」
久保は、グリフをまっすぐ見た。
「タフなんだよ、あんたは」
グリフは返事に困った。
「村田みたいにスマートじゃない」
「それは、褒めていますか」
「褒めてる」
久保は笑った。
「村田とは違う種類の見どころがあると言っているんだ」
村田はその言葉に、少し不満そうな顔をした。
「私がスマートなだけみたいに聞こえますね」
「お前はスマートだろう」
久保は悪びれない。
「その分、冷たく見えるところがある」
「久保さん」
「事実だ」
久保は村田へ徳利を向けた。
「だから俺がいる」
村田はため息をつきながらも、杯を差し出した。
そのやり取りを見て、グリフは少し納得した。
久保は豪快で、時に乱暴だ。
だが、村田の冷たさが人間関係の中で角にならないよう、うまく酒や冗談で丸めている。
村田も、それを分かっているから久保に頭が上がらないのだろう。
*
「まあ、悩むのは仕方ない」
久保が、今度はグリフへ向き直った。
「町議に出るなんて、軽く決めることじゃない」
「はい」
「ただ、ここだけの話だがな」
久保は少し声を落とした。
「村田は、次の知事選に出るつもりだ」
村田がわずかに顔をしかめた。
「久保さん」
「内輪だけだ」
久保は平然と言った。
「田辺さんを信用しているから話している」
グリフは、少し驚いた表情を作った。
実際には、その噂は町内でも流れていた。
村田が町長を1期で退き、県政へ出るのではないか。
地元紙の記者や、商店街の常連客の間でも、そんな話はちらほら聞いていた。
グリフ自身もうすうす気づいていた。
だが、ここで知っていた顔をするのは違う。
「知事選ですか」
「そうだ」
久保は頷いた。
「今回、田辺さんに出てもらいたいのは町議だ。だが、それで終わりじゃない」
「次の次くらいには、町長も狙えると思っている」
グリフは思わず箸を止めた。
「町長ですか」
「それだけの器はある」
村田も重ねた。
「私も、田辺君は町の将来を担える人材だと思っている」
「出自もいい」
「田辺総一郎さんの孫だろう」
村田は少し酔っているのか、言葉が滑らかすぎた。
「田辺家の末裔なら、この町の人間には十分なブランドがある」
「半分外国人らしいが、それは言う必要もない」
その場の空気が、一瞬だけ固まった。
グリフは笑っていた。
杯を持ち、軽く頷いている。
だが、内心では別のものが動いた。
――外国人の血が入っていることを、村田さんはどう思っているんだろう。
村田に明確な悪意があるとは思わない。
むしろ、村田自身は現実的な選挙戦略として言ったつもりなのだろう。
町では田辺家の名前を前に出し、インドネシア系であることは必要以上に言わない方がよい。
そういう判断だ。
だが、その判断の中には、確かに何かがある。
外国人の血は、表に出さない方がよいもの。
選挙では、伏せた方が得なもの。
そう見ているからこそ、そういう言葉になる。
*
久保がすぐに村田の脇腹を軽く突いた。
「おい」
村田は、そこで自分の言葉に気づいたらしい。
表情が変わった。
「いや、今の言い方はよくなかった」
村田は杯を置いた。
「田辺君、申し訳ない」
グリフは少し驚いた。
村田は続けた。
「外国人だからどうこう思っているわけではない。私自身に偏見はないつもりだ」
「ただ、世の中にはそう思わない人もいるのは事実だ」
「選挙の話として、ついああいう言い方をしてしまった」
「気を悪くしたかもしれない。申し訳ない」
素直な謝罪だった。
少なくとも、取り繕うためだけの言葉には聞こえなかった。
グリフは少し間を置き、答えた。
「いえ。お気遣いありがとうございます」
「ただ、私にとっては、インドネシアの血も隠すものではありません」
村田は真剣な顔で頷いた。
「分かっています」
「分かっていなかった部分もあると思います」
「だから、謝ります」
久保が場を和らげるように笑った。
「村田にも未熟なところがある。成長途中だ」
「久保さん、それはフォローですか」
村田が言う。
「フォローだ。ほら、飲め」
久保は村田の杯に酒を注いだ。
「田辺さんも、嫌なことを言われた分、飲んでくれ」
「それは理由になりますか」
「なる」
*
敏夫がそこで、自然に話題を変えた。
「ところで直人君は、若いころ、向こうでもいろいろあったらしいですよ」
「向こうというと?」
村田が尋ねる。
「ルンザットという島です」
敏夫が答えた。
グリフは杯を置いた。
「私の、もう一つの故郷です」
そこから、グリフはルンザットの話をした。
強い日差し。
透明な海。
漁へ出る男たち。
浜辺で魚を干す女性たち。
椰子の木の影。
雨季の湿った風。
子どもたちが裸足で走る道。
ジョコやナノたちが育った島の暮らし。
「海は、本当にきれいですよ」
グリフが言うと、久保が身を乗り出した。
「写真はないのか」
「昔のものならあります」
「今度持ってきてくれ」
村田も興味深そうに聞いていた。
「そこで、今の技能実習生の受け入れにつながる関係ができたのですね」
「ええ」
グリフは少しだけ迷ったあと、ゲリラのことも話した。
詳しい戦いの内容は避けた。
ただ、島が危険にさらされたこと。
父のディオや島の人々とともに、決断しなければならなかったこと。
その経験が、グリフにとって政治や共同体を考える原点の一つになったこと。
それだけを話した。
村田は、茶化さなかった。
久保も、酒の勢いで騒ぐことはなかった。
敏夫も、黙って聞いていた。
「しばらく行っていないんじゃないのか」
敏夫が尋ねた。
「そうですね」
グリフは、少し視線を落とした。
「近いうちに、一度行ってみようと思います」
「父とも相談したいですし」
*
そう言いながら、グリフの頭には別のことも浮かんでいた。
技能実習生のこと。
マパルスのこと。
選抜の仕組み。
日本側とルンザット側の連携。
自分が日本で考えているだけでは、見えないものがある。
一度、現地へ行くべきなのかもしれない。
倉林にも同行してもらえれば、農協としても島の実情を見られる。
ディオやファジャル、ローサ、トニー、ヘルマンにも会える。
そして、自分自身も、もう一度ルンザットを見られる。
離れてから長すぎた。
電話やメールでつながっているつもりでも、分からなくなっていることがある。
ラフマンの件で、それを思い知らされたばかりだった。
「行くなら、いい時期を選べよ」
久保が言った。
「選挙前に逃げたと思われないようにな」
「まだ出ると決めていません」
グリフが答えると、久保はにやりと笑った。
「決めてない人間が、もう選挙前の見え方を気にしてる顔をしている」
「していません」
「してる」
敏夫も村田も、何も言わなかった。
だが、その沈黙がかえって圧力になった。
グリフは杯の中の酒を見つめた。
いくつもの流れが、自分の周りで一本に集まり始めている。
まだ、答えは出ていない。
だが、答えを出さないままではいられない時期が近づいている。
そんな気配だけは、はっきりと感じていた。
***
グリフは、ルンザットへ行くことを決めた。
日程は1週間ほど。
4月の中旬である。
ゴールデンウィーク前に行きたかった。
ルンザットに日本の大型連休は関係ない。だが、日本からインドネシアへ向かう航空券には大いに関係がある。
「ゴールデンウィークに入ると、航空券が跳ね上がります」
グリフがそう言うと、倉林は資料を見ながら頷いた。
「農協の出張費として処理できる可能性もありますが」
「いえ、私の分は自費にします」
「いいんですか。今回、受け入れ事業の調査も兼ねるわけですから」
「それは倉林さんの分で十分です」
グリフは少し笑った。
「私は、個人的な里帰りとして行きたいんです」
倉林はその言葉を聞いて、少しだけ表情を緩めた。
「なるほど。そういうことなら、無理に農協の経費にしない方が気楽かもしれませんね」
「はい。向こうで誰と会うか、何を話すかまで、全部仕事の報告書に書くのは少し窮屈です」
「田辺さんにも、そういう感覚があるんですね」
「ありますよ」
グリフは答えた。
「最近、私を制度の人間みたいに見ていませんか」
「半分くらいは」
「また半分ですか」
町議選に出るかどうかは、まだ保留したままだった。
敏夫は、
「行くのは構わないが、立候補するなら準備には影響する」
と言った。
それは事実だった。
選挙は、出ると決めてからすぐに始められるものではない。
挨拶回り、後援会づくり、政策整理、ポスター、名簿、支援者への連絡。
準備すべきことはいくらでもある。
だが、グリフはどこかで、準備不足で落ちるならそれでも仕方ないと思っていた。
そもそも、自分は本当に町議になりたいのか。
敏夫の顔を立てるため、村田や久保の期待に応えるため、とりあえず出る。
そういう気持ちも、正直なところ少しはあった。
しかし、それだけで出てよいのか。
その答えを出す前に、ディオと直接話したかった。
電話ではなく、顔を見て話したかった。
ルンザットで。
父のいる島で。
急な話ではあったが、倉林もスケジュールを合わせてくれた。
実は、倉林がルンザットへ視察に行く話は、農協内でも以前から通っていたらしい。
受け入れ事業を本格化するかどうかを検討するなら、送り出し側の地域を一度見ておく必要がある。
それは当然の話だった。
問題は時期だけだった。
「田辺さんが行ける時期に同行するのが、一番効率的です」
倉林はそう言って、上司の承認を取ってくれた。
「通訳も案内も、お願いすることになりますから」
「倉林さん、向こうでは私に頼りすぎないでくださいね」
「無理です」
「即答ですね」
「英語もインドネシア語も、私はできません」
「それはそうですが」
「なので、頼ります」
倉林は真面目に言った。
その真面目さに、グリフは少し笑ってしまった。
*
実は、グリフにはひそかな楽しみがあった。
ローサとの再会である。
ディオから、ローサが島の幹部になったと聞いたあと、グリフはメールで祝いの言葉を送っていた。
そこから何度かやり取りが続いた。
昔話。
島の近況。
農民たちの状況。
マパルスの話。
そして、ときどき冗談。
電話で話したこともあった。
昔と比べれば通信環境は良くなったが、それでも鮮明な写真をやり取りできるほどではない。
ガラケーの小さな画面に表示されるローサの写真は、やや粗かった。
それでも、懐かしい顔だということは分かった。
少し大人びていた。
昔より表情が落ち着いている。
だが、目の強さは変わっていなかった。
グリフも写真を送った。
送る前に、何枚も撮り直した。
正面から撮ると、少し額が目立つ。
下から撮ると、顔が大きく見える。
横から撮ると、まだましだった。
結局、窓際で斜め上から撮った写真を選んだ。
我ながら、何をしているのかと思った。
「誰に送るんですか」
ワルンでナノに聞かれたとき、グリフは少し慌てた。
「父にだ」
「お父さんに、そんな角度を気にした写真を送るんですか」
「……島の人たちにも見せるかもしれないだろう」
「なるほど」
ナノは何か察したような顔をした。
「昔の恋人ですか」
「違う」
「では、昔、好きだった人ですか」
「仕事に戻れ」
ナノは笑いながら厨房へ戻っていった。
好きだった、というのとは少し違う。
かつて、ローサはグリフにとって競争相手であり、仲間であり、島の未来を巡ってぶつかった相手だった。
村民投票で負けたときの悔しさは、長く心に残っていた。
しかし、いま思い出すのは、その悔しさよりも、彼女が真剣に島を考えていた姿だった。
もう一度会えば、昔の自分が何を見落としていたのかも分かるかもしれない。
そう思っていた。




