投票のあとに生まれた波紋
そして6月、その町民会議の結果を受けて、住民投票が行われた。
設問は、町民会議がまとめた方針を基本として、町が事業者との最終協議を進めることに賛成するかどうかを問うものだった。
投票当日、ワルン・クラサワでも、その話題で持ちきりだった。
昼過ぎに来た常連の上村が、カウンターへ座るなり言った。
「投票してきたぞ」
「早いですね」
グリフが水を出す。
「こういうのは朝のうちに済ませるんだ。忘れたら困る」
「上村さんが真面目に投票するとは」
「俺を何だと思ってるんだ」
「昔の印象が強いので」
「過去の話を持ち出すな」
近くの席にいた商店街の女将も加わった。
「私も行ってきたわよ。投票所、意外と人が多かった」
「やはり関心が高いんですかね」
グリフが言うと、女将は頷いた。
「テレビでもやっていたしね。町民会議に出た人が近所にいて、あれこれ聞いたのも大きいわ」
「どっちに入れたんですか」
上村が尋ねると、女将は眉を上げた。
「それを聞くんじゃないよ」
「すみません」
「でも、考えて入れたわ」
女将は少し誇らしげに言った。
「前なら、景観が大事だから反対ってすぐ言っていたと思う。でも、町が全部止めるとなるとお金がかかるって聞くとね」
「難しいでしょう」
「難しい。でも、難しいって分かっただけでも、少し賢くなった気がする」
その言葉を聞いて、グリフは小さく笑った。
*
投票率は8割を超えた。
町長選挙よりも高い数字だった。
地元紙やローカル局で何度も取り上げられたこともあり、町民の注目度は高かった。
町民会議という新しい試みに対する関心もあったのだろう。
結果は、町民会議の方針への賛成が多数だった。
ただし、グリフが予想していたほど圧倒的ではなかった。
賛成はおよそ7割。
反対が3割ほどあった。
結果を聞いたとき、グリフは少し意外だった。
「もっと差がつくと思っていました」
藤樹堂の事務所で結果を見ながら、グリフが言った。
敏夫は、役場から入った連絡を手帳へ書き込んでいた。
「3割の反対は、決して少なくない」
「全面中止を求める人もいれば、そもそも町民会議のやり方に反対した人もいるでしょうね」
「ああ」
敏夫が頷いた。
「町民会議の参加者36人が、町全体の意見を代表してよいのかという疑問は残る」
「住民投票で承認を得たとはいえ、この方式自体への評価は別に調べる必要がある」
「アンケートですか」
「おそらくな。村田さんも、そのつもりだと思う」
グリフは、7割という数字を見つめた。
成功と言ってよい結果だ。
だが、3割の反対が存在することも、忘れてはいけない。
「町民を主権者にするというのは、賛成してくれる人だけを見ることではないんですね」
グリフが言うと、敏夫が小さく笑った。
「今さら気づいたか」
「ええ。少し痛い形で」
「痛いくらいでちょうどいい」
住民投票の結果が出ると、村田はすぐに事業者との最終協議へ入った。
実際には、町民会議の結論が見えた段階で、水面下の交渉は始まっていた。
町民会議が条件付き建設を選ぶ可能性が高いと分かると、町と事業者は、それを前提に条件の詰めを進めていた。
投票で賛成多数となった時点では、残っていたのは最終確認に近かった。
それでも、村田の動きは早かった。
*
2週間ほどで、町と事業者は基本合意へたどり着いた。
合意内容は、町民会議の提言に沿ったものだった。
・発電施設の周囲には、景観に配慮した植樹帯を設ける。
・植樹の種類や高さについては、専門家の意見を聞きながら、発電量への影響と景観保全のバランスを取る。
などだ。
さらに、町、事業者、地元住民、観光関係者が参加する連絡協議会を設置し、建設後も年に数回、状況を確認することになった。
*
合意発表の場で、村田は記者から質問を受けた。
「町長、条件付きとはいえ、熊田地区での建設を認めることになりました。選挙時の公約との整合性をどう説明されますか」
村田は、落ち着いた声で答えた。
「私は、計画を見直すと申し上げてきました」
「今回、町民会議と住民投票を通じて、町民の皆さんに複数の選択肢を検討していただきました。その結果、熊田地区での条件付き建設という方針が示されました」
「町としては、その意思を尊重し、景観、防災、地域活用の条件を事業者と協議してまいりました」
「単に現行計画を認めたのではなく、町民の意見を反映した形へ見直したものと考えています」
別の記者が尋ねた。
「今回の決着は、町民の意見を尊重した一方で、3割の反対票もありました。その点についてはどう受け止めますか」
村田は少し表情を引き締めた。
「反対された方々の声も、重く受け止めています」
「住民投票は、多数派の意見だけを見て終わるものではありません」
「今後設置する連絡協議会や説明の場を通じて、不安や問題点を継続的に確認していきます」
「今回の合意が最終的な終わりではなく、町、事業者、住民が関係を続ける出発点だと考えています」
*
テレビでその会見を見ながら、久保が村田の事務所で大きく頷いた。
「いいぞ。ずいぶん町長らしくなった」
隣にいた村田が、やや疲れた顔で言った。
「久保さん、本人の横でテレビを見ながら評価しないでください」
「褒めてるんだ」
「分かっています」
「しかし、2週間でまとめたのは大きいな」
久保は満足そうだった。
「町民は、スピード感に弱い。考えさせる場を作り、投票をやり、すぐ結論を出した。これは効くぞ」
「政治的な効果だけで見ないでください」
「政治家が政治的効果を見なくてどうする」
村田は返す言葉を探したが、結局ため息だけをついた。
実際、そのスピード感は町民に好評だった。
住民投票のあと、いつまでも結論が出なければ、
「結局、何のための投票だったのか」
という不満が出ただろう。
だが、村田は投票結果を受けて、すぐに事業者と合意した。
もちろん、水面下で準備していたからこその速さである。
それでも、町民から見れば、投票結果を受けて町長がすばやく動いたように映った。
後日、地元新聞社が行った村田町政への支持率調査では、支持するとの回答が70%を超えた。
町長就任直後としては、かなり高い数字だった。
*
ワルン・クラサワでも、その記事が話題になった。
上村が新聞を広げながら言う。
「70%だってよ。村田、人気者じゃねえか」
「町長ですから」
グリフが答える。
「お前も少しは関わってるんだろ」
「私は、ただの飲食店主です」
「ただの飲食店主が、町民会議なんて言葉を英会話で教えるか?」
カウンターにいた商店街の女将が笑った。
「でも、今回のやり方は面白かったわよ。全部納得したわけじゃないけど、町が何を考えているのかは分かった気がする」
「それだけでも前進ですね」
グリフが言う。
「ただ、次に何でも町民会議って言われたら困るけどね」
「確かに」
グリフは苦笑した。
住民参加は万能ではない。
時間も費用もかかる。
参加できる人にも偏りが出る。
多数決で決めれば、少数の不満は残る。
それでも今回、倉沢町は一つの経験を得た。
町民が事実を知り、話し合い、負担を考え、自分たちの町の方針を選ぶ。
その過程を、町長が受け止め、事業者と合意へつなげる。
完璧ではない。
だが、単に賛成か反対かを数えるより、はるかに多くのものが残った。
グリフは、新聞に載った村田の写真を見た。
若い町長は、少し疲れた顔をしていたが、以前よりも表情に厚みが出たように見えた。
――住民を観客から主権者へ。
その言葉が完全に実現したとは、まだ言えない。
だが少なくとも、6月の倉沢町では、多くの住民が一度、観客席から立ち上がったのだと思った。
***
8月に入った。
倉沢の夏は、ルンザットの湿った暑さとは違う。
昼間の日差しは強いが、朝晩には少し風が通る。道場の裏手では蝉が鳴き、総一郎の家の縁側には、節子が干した座布団が並んでいた。
ルンザットからは、すでに第2期の若者たちも来ていた。
6月中旬に来日した4人の技能実習生は、先に来ていた留学生4人と組み、道場隣のアパートで暮らしている。
1部屋に1人ずつ技能実習生を入れ、そこへ留学生の4人をそれぞれ組ませる形だった。
アディ、ナノ、リザル、ラフマンが、日本での生活に慣れない後輩たちの面倒を見る。
ごみの出し方。
買い物の仕方。
近所の人への挨拶。
自転車の乗り方。
病院へ行くときの手順。
グリフが3月に口を酸っぱくして教えたことを、今度は4人が説明する番だった。
とはいえ、グリフの生活態度への指摘は、まだ厳しかった。
「夜10時を過ぎたら、外で大声を出さない」
「ごみ袋は、必ず分別してから出す」
「知らない人に声をかけられても、すぐについて行かない」
「農家の人に頼まれても、勤務時間や作業内容で分からないことがあれば、必ず倉林さんか俺に確認する」
4人の留学生だけのころより、人数は倍になった。
町の人間から見れば、外国人の若者が急に8人も増えたことになる。
今はまだ珍しさと好意で見られている。
しかし、何か一つ問題が起きれば、その見方はすぐに変わる。
いずれは、もう少し自由に行動させてもいい。
そう思ってはいた。
だが、技能実習生としては最初の受け入れである。
ここで失敗すれば、農協も農家も慎重になる。
グリフは、どうしても細かくならざるを得なかった。
*
7月から農家で働き始めた技能実習生たちは、今のところ順調だった。
農協の倉林が、かなり気を使ってくれているらしい。
受け入れ農家を回り、作業内容や生活状況を確認し、必要があればすぐにグリフへ連絡を入れてくる。
ある日の夕方、倉林から電話があった。
『今のところ、大きな問題はありません』
「農家さんの反応はどうですか」
『おおむね好評です。真面目に働いていますし、体力もある。ただ、日本語はまだ厳しいですね』
「そこは時間がかかります」
『ええ。なので、作業指示はなるべく短い言葉と図で伝えるようお願いしています』
「ありがとうございます」
『ただ、田辺さん』
倉林の声が少し真面目になった。
『順調なときほど、油断しない方がいいと思います』
「分かっています」
「分かっているつもりですけど、たぶん本当には分かっていないんでしょうね」
グリフがそう言うと、倉林は少し笑った。
『そこまで分かっていれば十分です』
電話を切ったあとも、グリフはしばらく携帯電話を見つめていた。
大きな問題は起きていない。
留学生も、技能実習生も、農協も、農家も、藤樹堂も、今のところはうまく回っている。
それが、逆に少し怖かった。
順調に見えるときほど、どこかに小さなひずみが隠れている。
そういう経験を、グリフはルンザットでも、日本でも、何度かしてきた。
*
一方で、グリフは駅前の新店舗の準備にも追われていた。
9月の頭には、何とかオープンできる見込みである。
お盆の観光シーズンには間に合わなかったが、秋の紅葉シーズンには滑り込めそうだった。
新店舗へ誰を連れていくかについて、グリフはジョコと加藤を交えて話し合った。
ワルン・クラサワの既存店は、ジョコと加藤を中心に回す。
駅前の新店舗は、グリフとナノで立ち上げる。
ナノはホテル勤務の経験があり、接客に慣れている。英語も使える。
何より、店の空気を読むのが早かった。
「ナノは、新店へ連れていきたい」
グリフが言うと、ジョコはすぐに頷いた。
「それがいいと思います」
加藤も同意した。
「お客様への対応が自然なんですよね。初めて来た人にも、変に緊張させない感じがあります」
「本人も駅前店向きだな」
グリフはメモに名前を書いた。
「既存店は、ジョコと加藤さん。アディ、リザル、ラフマンはそのまま修業を続ける」
そこで、ジョコが少し言いにくそうな顔をした。
「ラフマンは……新店ではない方がいいと思います」
「やっぱり、そう思うか」
グリフも、薄々気づいていた。
ラフマンは仕事をさぼるわけではない。
むしろ、作業は丁寧で、任されたことは最後までやる。
ただ、ジョコの指示を素直に聞かない場面があるらしい。
「自分の方が年上だからか?」
「それもあると思います」
ジョコは苦笑した。
「でも、それだけではないです。納得しないと動かないんです」
「ラフマンらしいな」
「加藤さんの言うことは聞くんですけど」
加藤が困ったように笑った。
「私には、あまり反論しませんね」
「なんでだろうな」
グリフが言うと、ジョコがすぐ答えた。
「加藤さんは、怒らないからです」
「俺は怒ってるみたいに聞こえますか」
「少し」
「少しか」
「少しです」
ジョコの日本語は上達していたが、遠慮はまだ覚えていなかった。
加藤がフォローする。
「ラフマン君は、相手が強く言うと、余計に硬くなるんだと思います」
「接客はどうですか」
「丁寧ではあります。ただ、笑顔が少ないですね」
ジョコが答えた。
「お客様に『怖い』と言われたことがあります」
「怖いか」
「はい。本人は真面目な顔をしているだけです」
アディは人懐っこい。
誰とでもすぐ仲良くなる。
少し調子に乗るところはあるが、客からはかわいがられている。
リザルは、女性客にだけ妙に親切になるという別の問題を抱えていた。
「リザル、男性客にも同じくらい笑顔で」
と注意すると、
「努力します」
と答えるが、30分後にはまた若い女性客のテーブルへ水を注ぎに行っている。
それでも、店の仕事そのものはそつなくこなした。
問題はラフマンだった。
ナノがいる間は、自然とナノがまとめ役になっている。
だが、ナノを新店舗へ移せば、年長者であるラフマンが4人の中心になろうとするかもしれない。
そうなったとき、既存店の空気が微妙に悪くなる懸念があった。
グリフは、部下を多く持った経験がない。
ルンザットでは指導的な立場に立ったこともあったが、それは非常時の話だった。
毎日の職場で、人間関係の小さなずれを調整するのは、まったく別の難しさがある。
*
「それと」
ジョコが続けた。
「ナノの給料は、少し上げた方がいいと思います」
「ナノだけか」
「はい」
ジョコははっきり答えた。
「他の3人と、働きが違います。通訳もできますし、お客様への対応もできます」
加藤も頷いた。
「同じ時間働いていても、任せられる範囲が違いますね」
グリフは、すぐには答えなかった。
ナノの働きが良いことは分かっている。
その分、報酬を上げるのは筋が通っている。
だが、4人は同じ時期に来日し、同じように家族へ仕送りしている。
1人だけ差をつければ、必ず波紋が出る。
「少し考えさせてくれ」
グリフはそう言って、その場では返事を保留した。




