6 ヘタレ王子の足掻き
ヘンリッキとイリナの昼食会の翌日。
「イリナ嬢、今日、少しだけ生徒会室に寄ってもらえるか?」
朝、オイビィを送ってきて、テーブルを離れようとしたイリナをエルネスティが引き止めた。
「畏まりました。エルネスティ王子殿下」
そして、放課後、生徒会室には、エルネスティだけであった。
「ソファーで話そう」
エルネスティは、イリナをソファーへと誘い、自分はドアへと向かう。ドアを開け放ち、ソファーへと戻ってくるとイリナの向かい側に座った。
ドアは、結婚してない男女が誤解を受けないための配慮だった。こういうとき、大抵は女性側の醜聞となるのだ。
「忙しいところすまないな」
「とんでもありません。大丈夫です。他の者は?」
イリナはキョロキョロするが、誰の気配も感じない。
「ああ、私だけだよ」
「え!あぁ、そうなのですかぁ……」
イリナは急に心細くなった。エルネスティと二人になる心積もりはなかったので、目をしばかたせて、気持ちを落ち着ける。
エルネスティは、机の端を見ながら思考していて、そんなイリナの様子には気が付かなかった。気が付いていたら、もっと思考してしまいそうだ。
「あのぉ、なんだ、そのぉ」
エルネスティは膝の上に肘を乗せ両手を組み、額に当てて、言葉を探していた。
「……?」
イリナは自分より所在無げなエルネスティにホッとして、自分を取り戻した。
「あれだ、ヘンリッキから、そのぉ、男子生徒と市井などに行くと聞いたが」
額から少しだけ視線を上げて、イリナをチラリと見た。
「ヘンリッキ殿は、心配性ですね、エルネスティ王子殿下にまで相談するなんて」
そんなエルネスティの様子と、イリナを心配してエルネスティに報告したヘンリッキを想像して、イリナはクスリと笑った。
「いや、まあ、相談されたわけでもないのだがな」
エルネスティは、また額を手に戻した。
「ヘンリッキ殿が心配するので、出かけるのは止めようと思っています。まあ、これから先、誘われるのかさえも疑問なところですが」
エルネスティは、イリナの言葉に急に元気になり、顔をガバリと上げた。
「そうか。そうだな。いらぬ噂がたってもつまらないからな。行かぬ方がよいかもしれんな」
肘は膝の上のまま、頭だけ、うんうんと動かした。
「ええ、ですが、騎士団の宣伝のためにも、日々のお話はできたら嬉しいなと思っています」
「えっ!!!」
エルネスティは、思わず声が大きくなった。あまりの大きな声にイリナが仰け反る。
「あのぉ、何かダメなことでも?」
イリナは不安と疑問が入り混じり、複雑な顔でエルネスティに質問した。
「あ、いや、そうではないが、イリナ嬢も忙しいのではないかと思ってな」
理由を聞いてホッとしたイリナは、うんうんと頷いた。
「そうですね。鍛錬をしたいので、どうしても時間は限られますね。でも、せっかくの縁なので、いろいろな武術のクラスに興味が出ましたから、そちらでお話できたらいいなと考えております。私は基本的に剣術ばかりでしたので」
イリナは最近いろいろな鍛錬場へ顔を出している。カールロに会わないのはそれも理由の1つだ。あの日のダンスパートナーだけでなく、先輩の話や後輩の悩みも聞けている。イリナの武闘家としての縁は確実に広がりつつある。
「縁……そ、そうか。あまり無理はするなよ」
エルネスティは、『武闘家としての縁』とは捉えていないようで、心の半分が遠くへ行ってしまっていた。心をここに残しておけば、イリナの目が、恋愛の目でないことに気がつけたかもしれない。
「はい。武器にも一長一短があるものなのですね。相手を知るためにも、知っていきたいです」
「あ、相手、な」
イリナは『相手』という言葉を『対戦相手』として使っているが、エルネスティは『男子生徒』としてとらえている。エルネスティの苦難は終わらなそうだ。
「ところで、隣国へ留学の話を聞いた。行くのか?」
「前向きに検討しています。カールロ殿が行かれるようでしたら、行くつもりでいます」
「それは、アルットゥ王子殿下の国だからか?
それとも、カールロが一緒だからか?」
エルネスティの急にわけのわからない二択質問に、イリナは戸惑った。どちらも確かに関係ある人物だ。
「は??まあ、父からの条件がカールロ殿が行くならというものですので、カールロ殿次第ということになりますが」
「いや、そういう意味ではなくて」
二択を迫ったはずのエルネスティが慌てだし、質問の意図も答えも曖昧になってしまった。
「はあ?」
「で、どのくらいの期間だ?」
「一年間だと聞いています」
「そ、そうなのかっ?」
エルネスティは切り替えたつもりが、さらに自分を落ち込ませる結果になり、もう、手の感覚までなくなってきた。
「はい、私が思うに剣術留学が一年間では短いと思うのですが、ヘンリッキ殿には、初めての試みだからそれくらいだと言われました」
「そうか」
真面目に答えていくイリナに、エルネスティも少しずつ冷静さを持っていく。
「ですので、留学が決まれば、私とカールロ殿は、卒業式は生徒会の仕事ができますが、入学式はできないということになります。できましたら、今年度中に引き継ぎを行いたいのですが」
「卒業式までは、やってくれるのだな」
エルネスティは、生徒会長としての立場でなら、しっかりとできる。
「はい、もちろんです」
「わかった。留学がはっきりと決まったら、教えてくれ。こちらも次の生徒会役員を選定しておこう」
「よろしくお願いします」
イリナは頭を下げた。
「カールロは、ずいぶんと語学で苦労しているようだが、イリナ嬢はその心配がなくていいな」
エルネスティは、ふと幼い頃を思い出し、笑顔になった。イリナはその笑顔に懐かしさを感じて、ドキンとした。エルネスティはやはり美しい。
「え?あ、そうですね。私が、ゲルド語をできることはご存知でしたか」
エルネスティへ抱いた気持ちを誤魔化すように、言葉を探した。
「ゲルドヴァスティ王国の外交官が来たときに、イリナ嬢は、母上いや王妃殿下に王城へ呼ばれて、王妃殿下のサポートをしただろう」
言われてみれば、知っていて当たり前であった。イリナは自分の下手な誤魔化しに呆れた。
「確か、2年ほど前だったでしょうか」
だが、エルネスティは、それを気にする様子もなく話を続けた。エルネスティはエルネスティで、その時のイリナの姿を思い出し、自然に笑顔になる。
「ああ、そのくらいかな。まだ学園にも通っていない女性が語学堪能だなんて、素晴らしいって思ったよ」
エルネスティの笑顔を作っているものが、自分だと思っていないイリナは、その慈しむような笑顔にドキドキする。
「とんでもありません。語学を学んだとはいえ、実際に使ったのはあの時が初めてでしたので、大変緊張しました」
イリナはエルネスティの笑顔を見ていられず、下を向いた。エルネスティは、イリナが謙遜して俯いたと勘違いしていた。
「ハハハ、こちらから見るととても余裕があるように見えたがな」
「壊れてしまいそうな淑女の仮面でしたよ。恥ずかしいです」
イリナはまだ上を向けない。逆にエルネスティは、どんどんと優しい笑顔になっていく。イリナと幼い頃の話をしているこの時間を宝物だと言っているようだ。
「いや、あの時、外交官殿も王妃殿下も君を誉めていたよ。その語学力があれば、あちらの国でも大丈夫だろう」
「ありがとうございます」
イリナは頭を上げてお礼を言ったが、その時目にはエルネスティの至極の笑顔が飛び込んできた。イリナはすぐに俯く。
「で、でも、王子殿下も堪能でいらっしゃったではありませんか。他の国の語学も学んでらっしゃるのですか?」
イリナは、下を向いたまま、慌てて会話を続ける。エルネスティは、イリナが謙遜して照れていると思っているので、余計に笑顔になる。まさかエルネスティの笑顔に絆されているなど想像もしていない。
「ああ、アルットゥ王子は、いつか戦争があるかもとおっしゃっておいでだったが、私はすべて話し合いで済むことを望んでいるんだ。そのためには、相手の言葉で話すとそれだけで友好的に見えることもあるからな」
エルネスティは、2年前のイリナとおこなったゲルドヴァスティ王国の外交官との対話で、これが理想的なのだと感じていたのだ。
「なるほど。ご立派なお考えだと思います。そんな国を支えられれば幸せです」
イリナは、エルネスティの笑顔に絆されているだけの自分を少し恥じた。エルネスティは、こんなに国の、世界の、未来を考えている。それを支えたいと思い、エルネスティを見つめ返すことができた。
「期待している。連絡を待っているよ」
「はい」
この一週間後、カールロが隣国留学を決心し、イリナもそうすることに決めた。
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それからの学食では、イリナが男子生徒たちと話をしている姿がたびたび見られた。イリナは、留学すれば、彼らとの接点がなくなり、騎士団へ来てくれなくなるかもしれないということに少しだけ恐怖心を覚え、彼らに誘われれば断らずに対応することにしていた。
エルネスティは、それを遠くから、ヘンリッキたちと見ているしかできない。
あちらから見えるのなら、こちらからも見えるのだ。イリナは、エルネスティとオイビィが頻繁に一緒であり、オイビィがいない時には高位貴族のご令嬢たちに囲まれているエルネスティを目の端に捉えていた。エルネスティのまわりには、ヘンリッキかカールロかヨエルがいるのだが、イリナには、目に入らないようだ。これが意味するところもわからないところが、イリナらしい。
『彼女たちも、オイビィ王女には遠慮があるのね。オイビィ王女がいるときには、エルネスティ王子に近づかないもの。つまり、二人は誰から見てもお似合いなのだわ。』
イリナの斜め上の予想は、どんどん残念な方向に向かっていく。イリナの思考の彼方は発想も彼方のものなのだった。
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2月中旬には、一年生から2名の生徒会役員が選出され、イリナとカールロの引き継ぎをしながら、卒業式の準備に勤しんだ。
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ある日の学園のガラス室内のテラス席。
「イリナ、留学の準備はいかが?」
クリスタはいつものお茶をいつものように丁寧に淹れた。
「あちらでは、制服らしいからね、特に持っていくものはないよ」
「まあ、ドレスの一枚もお持ちになりませんの?」
イリナはクリスタに出されたお茶の香りを楽しんだ。今日はイリナの好きなフルーツ茶だ。
「クリスタ、私は武術の留学に行くのよ。ダンスの留学に行くわけではないわ」
イリナにとってはクリスタの不思議な疑問に、イリナはクスリと笑い、お茶をいただいた。ホッと一息つく。
「でも、殿方にデートに誘われたら、制服だけでお応えできるかは、わからないでしょう。ドレス一枚と市井用のワンピースは、お持ちになって、ね」
クリスタの縋るような目に、イリナは少し仰け反った。
「市井用に、ブラウスとパンツは数組持ったし、ブーツも持ったよ」
イリナは安心してくれとばかりに早口で説明する。クリスタの顔つきが急に厳しくなった。イリナは恐る恐るお茶をテーブルに置き、そっとクリスタを見た。
「それは、デートではなく、視察でしてよ。わたくしが申し上げているのは、デートですわ。イリナ、ワンピースをお持ちなさい。靴はブーツでもしかたありませんわ。でも、ワンピースです!」
イリナの予想通り、クリスタの小さなカミナリが落ちた。カミナリは予想通りだが、内容が全く予想通りではない。だが、それを言わせない雰囲気をクリスタは漂わせていた。
「クリスタ、わかったわ。そんなに強く言うクリスタも珍しいわね」
イリナはどうどうと馬を窘めるように、クリスタへ手を向けた。
「はぁ」
クリスタは大きくため息をついて、お茶を口にする。イリナもすぐにそれにならい付き合う。クリスタは、お茶置いて小さく息を吐いた。
「ふぅ。貴女への助言も、簡単にはできなくなりますもの。お手紙をしても、それにはどうしても時間差ができますでしょう。わたくし、イリナが心配ですのよ」
先程のカミナリとは真逆の対応に、イリナは引き込まれ、うんうんと頷いていた。
「クリスタ、ありがとう」
イリナは、クリスタがイリナの体調などを心配してくれているのだと思っている。しかし、クリスタは、ここまで2年間咳1つしないイリナの体の心配など全くしていない。体なら、すぐにお腹を壊すカールロの方がずっと心配だ。
クリスタは、イリナが女性として花開き、輝いていくべき時期に、自分が側にいないことで、イリナの自覚がどんどんなくなることを心配しているのだ。このクリスタのアドバイスは、大正解で、実際にワンピースを着ることになることもあったのだ。
そして、このワンピースが実は使われていたことをクリスタが知るのは、クリスタもイリナも出産を終えた後の少し遠い未来の話である。
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卒業式の後は、全校生徒で、立食パーティーが開かれる。毎年、演劇を呼んだり、絵画展を開いたり、オーケストラを呼んだりと、生徒会の工夫で卒業生を送るのだ。
今年は、屋台と大道芸人を呼ぶことにした。立食料理をいつもの年の半分にしてほぼ甘味だけにした。ポップコーン、ソーセージドッグ、焼き芋に串焼き、スープに饅頭、市井の屋台は、中庭いっぱいに並んだ。パーティー会場の舞台を大きくとり、ヘンリッキの司会で大道芸人たちが、みごとな芸を披露していった。王族の名前で呼んだため、平民でも見たことのない屋台や大道芸に、平民たちも充分に楽しめた。
アルットゥとオイビィは、あまり市井に出ないらしく、すべてが初めてで大変喜んでいた。
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