兄と慕った人
「ヒュバル様!」
ハクの叫ぶ声がした。
その声にヒュバルが振り返ると、ヒュバルの前に倒れて死んだはずのニールがいた。すでに振りかざされた暗器をは確実に自分に向けられている。そう自覚したものの、足に根が張ったように全く身動きが取れなかった。
(このままでは死ぬ!)
走馬灯のようなものさえ見えた気がした。そして、ヒュバルが生への執着を手放そうとしたときである。
「…くっ」
床の大理石にはたはたと赤い斑点が落ちていく。ヒュバルの目の前に黒い影が差して、向けられた暗器を一人受け止める。
「…っ!」
ヒュバルは体が動かなかった。あってはならないことに体のなかで心臓以外のすべての機能が停止したのだ。
「…ぃさん!兄さん!」
目の前で崩れていくジュランをヒュバルは支えた。刺さった暗器は見事に胸に刺さっている。
ハクがニールのもとへ駆け寄ると、すでにその息はなかった。最後の力をヒュバルに向けたのか、あるいは必ずヒュバルを守ると思ってジュランを狙ったのかはわからない。
ジュランの出血は誰もが一目で助からないのが分かるほど多い。
かすれるような呼吸をしながら、ジュランはヒュバルを見つけてその頬に触れた。しかし、その指に力が入らない。ヒュバルはその手ににすがるように、ジュランの手に自らの手を添えた。
ジュランは笑う。
「ほら…言っただろ?俺に出会ったのはきっと地獄の方だって。お前に平和な暮らしを期待させておいて…こんな無様な…カハッ…」
ジュランは口から血を吐き出した。
「兄さん!」
「ヒュバル…お前が俺にかけられた憎しみの呪いから解き放ってくれた…。もっと、やるべきことがあるんじゃないかって、思わせてくれたんだ。それまでの俺は本当に…お前に見せられないくらい酷いやつだったんだから」
ヒュバルは必死に止血しようと傷口を圧迫する。重症なのは明らかだったが、どうにもならないと理解したくなかった。
「皇帝《あの人》は永遠の孤独の中にいる。あの暴挙を止められるのは…その責任は息子である俺がとらなくてはと思っていたのに…結果としては何もできなかった。ヒュバル、俺の代わりにお前があの暴挙を止めてくれないか。こんなことを頼むのは間違っている。もう俺では止めてやることができない!どんな方法でも構わない。頼む …!!」
皇帝の息子であると初めて知った他の者たちの中には、ジュランの境遇や思いを知って涙する者もいた。
ジュランは自分を囲む飛燕達に言った。
「みんなももう自由に暮らすといい。望みもせず殺しに身を投じることはない。これまで本当にありがとう」
すすり泣く声があちこちから聴こえる。
「キフィルニア殿下…」
シュワームの姿を見て、ジュランは体を起こした。そして、シュワームの手をぎゅっと掴む。
「何か…私にできることはないだろうか」
握り返された手の温かさ、力強さにジュランは張り詰めていたものが緩むような、そんな感覚を覚えた。
「…あなたにはヒュバルを頼みたい。まだ十四歳。本来なら何にでもなれる歳だ。そしてこの子の才能を伸ばせるのはあなただけだ。
そしてもしこの先、イスファターナがソウェスフィリナと手を組んで、 帝国を滅ぼす日が来たら、今日のことは忘れてどうか成し遂げて欲しい。あなたの言ったように先人の思いに応えられなかったというだけのこと。それが…この国の運命というものだ。あなたと出会えたことは私の喜びだ。ありがとう」
「…っ!あなたがイスファターナの人だったらと何度も思った。一度貴殿に救われたこの命、必ず何事かを成し遂げるために使わせていただく」
シュワームがそう言うと、ジュランは小さく笑った。
「兄さん…」
ヒュバルが泣いている。美しく整った顔がぐちゃぐちゃだ。
「…ヒュバル、ニールを恨んではいけないよ。他のみんなも。あいつもようやく解放されたんだから」
ジュランはヒュバルの涙を見ながらにこりと笑う。
「…ヒュバル、俺はお前のいい兄でいられたか?」
「もちろんです。なぜそんなことを」
「なぁ、ヒュバル。さっきはああ言ったが、皇帝のことは忘れろ。その代わり、お前に今の俺との関係以上に大事にしたい仲間ができたら、その仲間のためにお前の全てを尽くせ」
「兄さん以上に大事な人なんて!」
ヒュバルは添えていた手に力を込めた。
「現れるぞ…必ず。俺をお前と出会わせてくれたことを運命と呼ぶなら、お前はまた誰かと強い運命によって出会うことになる…俺の計画ではお前の結婚式に出て、子どもと遊ぶ予定だったんだが、どうも叶いそうにない。俺はお前の側にいるから思い出さなくていい…飛燕のみんなも…。苦しむことも多いだろう。だが、ここにいる者は手を…取り合うことを…知っているはずだ…生きろ」
『生きろ』という一言が、その場の者の心に突き刺さる。言い切るやゴホゴホと咳き込んだジュランは、再び大量の血を吐き出した。
「兄さん!!」
ヒュバルの呼びかけに、ジュランは頷く。
「…ここにいる」
すると、ヒュバルが握っていない方の手がジュランの胸のペンダントに触れた。いつもなら身につけることのない、皇帝家の紋章が入ったものだった。
「兄…さん?」
「キフィルニア………たいそうな名前だな。俺にはっ…ジュランの方が似合っている………」
宮殿に静寂が訪れた。
雨もいつのまにか止んでいる。しかし、その空に月はない。
一つの命が失われた現実を知ったその時から、しばらく誰も言葉を発しなかった。
―――――
『…ジュラン。ごめんね』
(…母上。あぁ…)
あなたが毒に苦しむあの光景を忘れたことはなかった。
今なら、わかる。
あなたはいつも私を守るために戦っていた…。
―帝国皇帝の息子―
事実が公に知られれば、私は飛燕に消されていたかもしれませんね…。
過ぎたこととはいえ密通は大罪。誇り高き帝国の皇帝の不義は歴史に残してはならない。
私とあなたはあのまま死ぬ運命にあったのですね。
考えればわかったはずなのに認めたくなかったんだ。
『もう、お別れは済んだの?』
『はい、私の役目は果たしました。この先の未来は弟に託しましたから』
『そう。…あなたの弟の話、聞かせてくれる?』
『もちろんです。実は、母上と話したいことはたくさんあるのです』