母の言葉
お待たせしました
皇太子宮殿での騒ぎがあった夜、イスファターナ貴族街に並ぶグリュネール邸に一人の来客があった。
ハサキはその来客を見て驚いた。
「ナフカ!」
目の前にいたナフカは酷くやつれているように見えた。
「ナフカ、どうしたの?こんな夜遅くに。お仕事は?殿下の側にいなくていいの?」
「…ハサキさん。少しだけ、少しだけでいいんです。ここにいさせてくれませんか」
ナフカのこんな様子を見るのは初めてだった。それでもハサキはナフカに厳しく言葉をかけた。
「…ここはあなたの家です。あなたが望むときに帰ってくればいい。だけど、あなたの求める答えはここにあるのかしら?」
「…ハサキさん、俺は」
ナフカの様子を見たハサキはその姿にどこか危うさすら感じた。初めて会った頃にも感じた、大人のようで消えない子どものような危うさ。突き放すべきかと思ったが、目を離せば消えてしまうような、子どもをハサキは放ってはおけないと思った。
「私はあなたの母だと勝手に思ってますから、あなたにはいくらでも甘い言葉をかけられる。前に言ったわね、シュワームと同じ道を歩くことは苦しくないの、って」
「はい」
ハサキはナフカを席に座らせる。そして紅茶を淹れ始めた。
「辞めてもいいとも言ったわ。私達に何か恩を感じて執務官となるならそれは私達にも殿下にも失礼だと」
ハサキから出された紅茶を一口飲んだナフカは、紡ぎ出すように言葉を吐いた。
「俺は…迷ってます。今日、俺の過去が明るみになりました。公ではないけれど、少なくとも殿下やキシュはとっくの昔に気づいていたことで、俺はずっとそこに触れさせまいとしてきた。でも、もうそれは限界なのかもしれない。俺は話していいんでしょうか。二人を信じてないわけじゃない。だけど、怖い」
「…楽な方を選びなさい、ヒュバル」
ヒュバルと呼ばれたことにナフカは思わず顔をあげた。
「この名前、何度も練習したのよね。発音が難しくて。いまだに帝国の言葉は難しいけれどあなたの名前くらいはちゃんと読める」
ハサキはにこりと笑った。
「信じているなら楽な道を選びなさい、ヒュバル。それでお咎めがあるならそれまでと思いなさい。私もシュワームもあなたが無理をすることを望んではない。もうあなたは十分に気を張って生きてきたと思うわよ」
すると、ヒガタが部屋にやってきた。
「奥様、坊っちゃん。宮殿より馬車が参りました…その、殿下とお付きの武官が参っております」
ナフカは立ち上がった。そしてハサキをちらりと見る。
「あちら方はもう覚悟を決めていらっしゃるみたいね。あとはあなただけよ、ヒュバル」
ナフカは深く呼吸をすると、こくりと頷いた。
「ヒガタ、殿下方にお茶を。私も殿下方にお会いします」
「それではお支度をメイドに伝えて参ります」
「ええ」
ナフカがヒガタの横を通りすぎると、ヒガタはナフカに言った。
「坊っちゃん、及ばずながらこのヒガタも旦那様に奥様、そして坊っちゃんについて参る所存です」
ナフカは静かに振り返った。
「…ありがとう。だが、坊っちゃんはよしてくれ」
その顔にはどことなく笑みがあった。
ナフカはそうして、シウォン達の待つ応接室へ向かったのである。
▽▽▽▽▽
「シウォン、これでいいんだよな」
グリュネール邸の応接室でナフカを待ちながら、ずっと黙り続けるシウォンにキシュは言った。
「…これでいい。ナフカの過去を知ったからといって俺はナフカを手放さない」
シウォンは揺るぎない答えを持っているように感じた。それを聞いて、キシュも覚悟を決める。
「お待たせしました殿下、キシュ」
ナフカは二人の前に座る。その隣にはハサキが座った。
「夫人、このような夜分に押しかけて申し訳ありません」
「いいえ、殿下。ナフカのことでご迷惑をかけるのはこちらの方ですから。本来なら私は席を外すべきかもしれませんが、今回お話しすることは私にも関係すること。息子の話をぜひ最後までお聞き入れ願いたく、私もその全てを聞き届けるつもりです」
「もちろんです、夫人。ナフカ。話を聞こうか」
ナフカは頷いて話を始めた。




