蝕む闇と正しさの尺度
「分かりやすく気落ちしているな、シウォンは」
皇太子宮殿に帰ってしばらく後、キシュはナフカに言った。ナフカもそれをみて頷く。何やら部屋の空気が重たい。
ナフカは一つため息をつく。
「リフキア様は成長された。それが喜ばしいことであると同時にこの結果を招いたといってもいい。だからといって、かつてのままではリフキア様はこの先生きていられなかった。どちらも苦難の道。ならば、せめて未来があるものの方がいい」
ナフカが言うと、キシュは廊下の壁にもたれて言った。
「未来か。昔は未来なんて見る価値もないと思っていたが、今はそちらの方が面白いな」
「生き方によるさ。俺だって昔はそうだった」
シウォンはこれまで何事にも完璧を貫いてきた。そのシウォンが今回それを果たせなかったことは、もしかすればシウォンにとって初めての達成できないことだったのかもしれない。
「今のシウォンはある意味挫折を経験しているようなものだ。それは本来誰しもが通るべき道だが、シウォンはそれを知らない。その意味も含めて今回のリフキア様はお見事だった」
「それで我らが執務官様は何をしてくれるんだ?」
キシュはナフカの肩にポンと手を置いた。ナフカはもう一度ため息をついた。
「さて、大したことはしないよ」
ナフカはキシュにあることを任せた。それから、本日分のシウォンの仕事を急いで(無理やりに)片付けさせて夕刻、キシュがナフカを呼びに来るとシウォンに声をかけるのであった。
「シウォン様、浴室の準備が整いましてございます」
突然の敬語にシウォンはぱちくりと瞬きをした。本来ならごく自然、しかしここでは奇妙なその話し方にシウォンは疑念を増やすばかりだった。
「いかがなさいますか」
ナフカから向けられた笑みは有無を言わさないものである。この表情を見せられては観念するしかないとシウォンは悟った。
「わかった。支度をしてくれ」
「かしこまりました」
ナフカが部屋を出ていくと、シウォンはキシュに声をかける。
「キシュ」
これはどういうことかと尋ねるつもりだったのである。しかし、それはかなわなかった。
「何か御用ですか」
キシュがシウォンに先んじて言ったからである。ついでにキシュは麗しの執務官を真似た笑みで言った。
「シウォン様、これよりは我々皇太子宮殿一同による殿下へのおもてなしとなっております」
「…もてなしだと?」
さらにシウォンがキシュに尋ねようとしたとき、ナフカが戻ってきた。
「ご支度できましてございます。参りましょう」
ナフカはシウォンを連れて宮殿の最深部の浴室へ向かった。
この皇太子宮殿には、かつての皇太子が風呂が大層好きな人物だったらしくあちこちに多種多様の風呂が用意されている。地下には岩づくりの浴室、ある場所には外の景色を見ることができる浴室など様々である。
中でも一番広いのが、この最深部の浴室である。ここはイスファターナ風の湯に浸かる風呂とは違い、岩盤浴やサウナなどのような異国の文化も取り入れた浴室となっている。
しかし、あまりに広すぎるのでシウォンは落ち着かないといってここを使うことは滅多にない。
「今日はここを使うのか」
そういうわけでシウォンもこの浴室にやって来るのは久しぶりである。
「ええ。ご用意させていただきました」
シウォンは浴室に入ると中央の天蓋付きの床にに横たわる。ほんのりと温められた床は全身をゆっくりと温めていった。
そこにナフカがやって来る。何やらたくさんの小瓶を持って現れた彼は、長い銀髪をひとまとめに結い上げていてまたその美しさに妖艶さが足されている。
「…ナフカ、人払いをしろ」
「かしこまりました」
浴室の端々に控えていた者達を下がらせたナフカは、持ってきた小瓶をシウォンに見せる。
「シウォン様、どれをお塗りいたしますか」
ちらりとシウォンが視線を移すと、蜂蜜の混ざったものや、植物の種子の油を溶かしたもの、その他にも異国もので言えば岩塩が混じったものなども用意されていた。
「…どれでもよい。好きにしてくれ」
「では、こちらを」
ナフカが取ったのは植物の種子の油を溶かしたものであった。背中から塗り広げて筋を揉みほぐしていく。
シウォンはしばらく黙っていたがぽつりとナフカに尋ねた。
「なぜ今日はお前が?いつもは他の執務官だろう」
執務官といえど側に仕える側近一人のことだけを指すわけではない。シウォンの身の回りをお世話するためにあれこれの手配をするのも執務官なのである。もちろんそれはナフカの命を受けてのもので、普段風呂の世話をするのは他の執務官であるところを、今日はナフカが務めている。
「お一人になりたいのではないかと思いました。私ならいたところで気をつかうこともないかと」
「…お前のような有能な執務官が下っ派の執務官の仕事をとってしまえば気の毒なことだ。そのあとでは自信もなくなるだろう」
シウォンは力なく笑う。そしてぽつりと口にした。
「…ナフカ」
「はい」
しばらく浴室は静かになった。ピシャンと少し甲高く水滴の落ちる音がするのみである。
「俺は初めて力を怖いと思った」
その言葉は浴室に反響した。
「分かっているつもりだった。この身分であればどこの誰とも知れない人間に殺せと命じればその人間が死ぬ。それほど恐ろしい力であるのだと。それが権力の本質なのだと…ずっと思っていた。だが、結局それは一面しか見ていないに過ぎなかった…」
このように力ないシウォンを見ることはまずない。よほど今回のことが精神的に消耗を強いたようである。
「…お聞かせ願えますか」
シウォンはこくりと頷いた。
「権力の恐ろしいのは、目的のために時に切り捨てるその覚悟を強いられることだ。大切な人間でさえも、リフキアのようにその幸せを奪うことで俺は生きられる」
「シウォン様」
するとシウォンはナフカに迫った。
「なぜ敬語を使う!俺を軽蔑したからか?」
迫ったシウォンは何かにすがるようにさえナフカには見えた。斜面の土のように崩れていきそうなその表情は、シウォンの奥深くに眠る弱い部分であった。
どれだけ普段ナフカとキシュに気を許していても見えることのないそれは、おそらくは本人にもわからない、シウォンを思っているからこそ見える心情のようなものだ。
ナフカはシウォンを引き剥がすと言った。
「いいえ。あなたを信じるからでございます」
「…何だと?」
「権力の闇に呑まれましたね。だが、時期が悪かった」
「…何だというのだ!」
シウォンの常に澄んでいた青い瞳が今は輝きを失っている。
「私をまっすぐ見ることもできませんか」
「…何?」
「最近、私にもキシュにもあなたは視線を向けているようで向けていない。その先の何かを見ている」
「…」
ナフカは小瓶の蓋を閉めてシウォンに向き直った。
「リフキア殿下へのあのご決断、お見事でございました。どちらを選んでも苦難の道。しかし、殿下が選ばれたものの方が先があります」
「…リフキア」
「シウォン様にとっては初めて何かを切り捨てられた瞬間でもあったのでしょう。このところの迷いと、焦り、そして本日の挫折がシウォン様の心を蝕んでいるのです」
するとシウォンは震えた。
「なぜお前はそう…たんたんと言葉にするのだ。なぜ真っ当なことを言うのだ」
「正しいことを知るのを止めたければ私やキシュを手離されればよいだけのこと。お聞かせできなければ私がいる意味がない。だけど、私はあなたのそばを離れることはないのです」
「…」
「権力の本質を知ったとおっしゃいましたね。しかし、知ったものもある一部に過ぎません。本当の権力とは歴史と共に血にまみれるほど汚れたものです。かつて私はその光景を何度と目にしてきました。権力とは人間の欲を叶えるためのもの…そう思っていました」
シウォンはナフカの顔をまるで赤子のようにじっと見つめていた。
「でも、その欲が国のための欲であった場合に限って報われることを知りました。今回シウォン様はある意味でリフキア殿下を失いました。しかし、まだ手に入れることができる」
ナフカはシウォンの手をとった。
「世に言う正しいこととは結果論。たとえシウォン様を非難するものがいたとしても、その場に身をおいていた人間以外に何がわかりますか。あなたを深く信じ、ついていこうとする人間以外に何がわかるというのですか。正しさへの到達の道はいくらでもあります。回り道には花があるとも言いますが、そういうことを言うのではありませんか。
シウォン様が何に悩んでおられるのかお察しすることしか我々にはできません。しかし、もし後悔なさっているなら筋違いというもの。何故ならまだあなたは正しさへ到達していないのだから後悔することなどないはずだからです。もし後悔なさっているならそれは愚か者のなさることでしょう」
「…愚か者だと言ったか?」
「ええ、愚か者です」
シウォンとナフカはしばらく互いに見つめあっていた。ぶつかる青い瞳と青い瞳は次第にその色の深さを増していく。
見つめ合いをやめたのはシウォンの方だった。
「…ナフカ、肩を揉んでくれ」
シウォンは再び床に転がる。ナフカは小さく笑ってその命令に従った。
「…いい加減答えてくれ。なぜこの浴室を選び、お前達がそんな口調なのか」
シウォンが言う。
「初心に帰るべきかと思ったからな」
ナフカは普段の口調で言う。
「初心?」
「覚えてないか。初めてここに俺が来た日はこの浴室でこんな風にしてただろ?」
「そうだったか?」
シウォンにはあまりその記憶がない。
「そこでお前は色々なことを聞いてきたが、俺の過去に関しては言わずともよしと言ってくれた。得たいも知れない人間を今に至るまで信じてくれているのは感謝している」
シウォンはクスッと笑う。
「…過去など所詮過去だからな」
「昔もそう言っていた。ここで俺はお前の帝になるという夢を聞かされたんだ」
ナフカはさも懐かしそうに言うが、それでも二年前のことである。
シウォンは一通り揉みほくじを終えると大きな浴室の湯船に浸かった。薔薇の香りのたつ湯は一人で使うにはもったいないほどの湯の量がある。普段ならシウォンはこの贅沢に文句を言っていただろう。
「ナフカ。感謝するぞ」
「…何をだ?」
「俺に仕えてくれていることだ」
「何を当然のことを言っている」
シウォンは垂れてきた前髪をかきあげながらナフカの方を振り返った。
「シュワームに聞いた。あいつはお前の兄に代わって生きているのだと」
「!」
ナフカの動きが一瞬止まった。
「…そう驚くこともない。驚くこともないが、お前が帝国の生まれであることが本当で、シュワームが命の危機に遭ったとなると時期を考慮しても、六年前の帝国との同盟の会談でお前の兄は亡くなったと考えるのが妥当だ」
「…」
ナフカは黙っていた。
「俺は詮索をするのは好きではないが、お前の過去に興味がないと言えば嘘になる。これは想像の話だ。お前の兄が帝国の兵なのか、イスファターナの兵として亡くなったのかもわからない。でも、いずれにしても国同士の争いがお前に兄を失わせる結果となった。国を憎んでもおかしくないお前が俺に仕えてくれている。お陰で俺は最強の側近を得ることができた」
ナフカは心のうちに答えを作っていた。
国を憎まなかったのはもっと憎むべき存在がいたからである。あれから六年、いや七年が経とうとしているが、あの冷たい皇帝は今もなおあの冷たい国の皇帝として君臨している。
復讐したい気持ちは誰よりもあったし、あのときの自分なら実力を考えれば可能だったかもしれない。それをしなかったのは兄の皇帝を倒せとも許せとも言った言葉のせいだ。
兄の愛していた国、守ろうとしていた国を自分一人の歪んだ感情で壊すことはできなかった。たとえ、それが腐敗しきった国であろうとも。
シウォンは気づいているのかもしれない。シュワームが恩人と言ったのなら兄というのが帝国の人間なのだということを。イスファターナ兵はあくまでイスファターナ兵。あり得ない話ではないのだが、身内であれば「恩人」という言葉で飾る必要はないのである。それに、調べようと思えば当時の殉職者からすぐに過去は暴けるだろう。
いつか、きちんと気持ちに整理をつけたい。
いつ頃だったか、ナフカにはそんな気持ちが芽生えていた。何にたいしてという具体性はない。だけど、あの七年前のあの日からナフカの時は一部が止まっている。
きっとイスファターナとソウェスフィリナとの同盟が成立しきったあと、その機会がやって来る。ナフカはそう確信していた。
すると、頬に温められた手が添えられた。
「すまん、ナフカ。不快にさせたな」
目の前にシウォンの顔があった。ナフカは首を振った。
「不快など思ってないよ。少し昔を思い出しただけだ」
ナフカはシウォンに顔を拭くためのタオルを渡すと言った。
「…シウォン。いつか、俺の過去は話すつもりだ」
「話さずともよいと言ったぞ」
「いや、話す。あるいは、お前にとって俺の存在が不利となるときが来るかもしれない」
「…」
「とにかく、その時が来たら俺は話す。そのあとはお前に託す」
シウォンはシュワームの言葉とも重なってナフカの陰に深い闇を見た気がした。
「ナフカ。俺はお前を手離さない。それに、仮に手離すことになってもまた手に入れるだけのことだ」
「そうか…では見つけてくれ。俺がどこにいたとしても」
浴室から部屋に戻ると、キシュがバルトレインに料理を用意させていたようで、たくさんの皿が並んでいた。そしてそこにはリヨルの姿もある。
「リヨル、体調はよいのか」
「今日は気分がよいのです。それに、キシュの話によると今後の景気づけの祝いだそうではないですか。参加せぬわけはありません」
他にもこの宮殿に仕える者達が勢揃いしていた。シウォンは渡されたグラスを掲げて言う。
「これまでも、これからも私は皆に多くの苦労をかけることにるだろう。私は臣下に恵まれたようだ。今日、このような会を用意してくれた皆へ感謝をこの場で伝えたい。本当にありがとう」
シウォンは全体を見回した。
「しかし、より過酷となるのはこれからだ。皆が助け合いって乗り越えていこう。ここに集まったのは私の認めている臣下だ。今後もそのはたらきに期待している。乾杯!」
部屋は一気に歓喜に満ちた。
ナフカはそれをしばらく眺めると部屋をあとにする。
自室に戻ったナフカは部屋に鍵をして、本がたくさん並べられたある一部を取り出して、その奥にある布に巻かれた塊を手にした。
青い蘭の装飾がなされた短剣。兄と慕ったキフィルニア=ジュラン=カルデミナが使用していたものである。
「兄さん…」
ナフカはその剣を見ながら呟いた。
「あれからたくさんのものを手にしました。今の俺は皇太子の執務官で、その皇太子シウォンの友であり仲間であり、この国の未来を目指すものです」
ナフカは鞘を抜いて刀身を顕にした。やがてそこにぽつりと涙が落ちてきた。
「…いつまでも満たされない心は常に何かに飢えている。まるで獣のように」
その時、部屋についているテラスで物音がした。
「何者だ!」
ナフカがテラスを開け放つとハクが失敗したと言わんばかりの顔でこちらを見ていた。
「…すみません、主。部屋の鍵がしまっていたのでこちらから来たのですが、テラスが濡れて凍っていたのか滑ってしまい…」
「何事かと驚いたぞ」
「久々に失敗です。申し訳ありません」
ハクは部屋に入るとハクはナフカに言う。
「…皇妃様がリフキア殿下の件にお気づきになるのも時間の問題かと。明後日には帝の触れ書が出る模様です」
「そうか」
「それよりそれは…青蘭さまのものでは?」
「…ああ。少し気になった」
ハクはその先を聞くことをしなかった。ナフカの表情が悪いものには思えなかったからである。
「さ、お前も行くぞ」
「どこへです?」
「今、バルトレインが腕に振るった料理が披露されている。お前も行くぞ」
「しかし俺は…っ!」
この顔と格好で行くのか、とその先に続けたかったハクだが、それより前にナフカに何かを被される。
「顔はそれでいい。服は…あった。これを着ればまあ良しだろう」
渡された服はこの宮殿の兵の服であった。
「兵は山ほどいるから顔をすべて覚えているものはシウォンとキシュ以外いないさ」
ナフカはそうしてハクを変装させると会場に戻る。戻ったナフカはすぐにシウォンに呼ばれた。
「一緒に来たのはハクか?」
「よくわかったな」
「あんな顔はここにはいない」
「ハハッ、やっぱり覚えてたか」
するとキシュがやって来て、ナフカに怪しまなくていいのだろうと確認しに来た。
「ハクなんだろ?」
「あいつだけこの料理を食べられんのも可哀想だろう。シウォンにしたほど手は込んではいないが変装させた」
「一瞬わからなかったよ。彼も大変だな。ちょっと声をかけてくる」
キシュはそう言ってハクに酒を持っていった。
催された会は大いに盛り上がり、警備の兵が言うことには、その日は夜遅くまで宮殿に明かりが灯っていたそうである。




