第1話 異世界転移
やってしまった。
私の手から力が抜ける。ことり、とそれは床へと落ちる。
刃が赤く染まった包丁が、血だまりの中でギラリと輝く。
こんなつもりはなかった。ただ、自分の身を護るだけのつもりだった。
しかし、やってしまったことに違いはない。
目の前には胸に血の染みがついた男が一人。その血の染みは時が過ぎるごとに大きくなる。
結婚する予定だった。でも、その日が近づくにつれ、彼の暴力は日に日に増していった。
別れようと切り出した。すると彼は拳を振り上げた。
私は咄嗟に、キッチンの包丁を手に取り、構えた。
そこから先は記憶にない。気が付いて目の前に広がっている光景が、これだった。
思いつめていたのは確かだった。
ある日、気づいたら、包丁で人を刺す方法を調べていた。その記憶が蘇る。
彼の刺し傷は、横向き。肋骨にさえぎられることなく心臓に届く。
わかっていてやったのだと、誰の目にも明らかな方法で私は、彼を刺したのだ。
唯一、言い逃れができるとしたら私が一般女性よりもやや高く、彼との身長差が少なかったため急所に刺さってしまった……ぐらいだ。
私はその場にうずくまった。逃げるつもりなんて毛頭ない。やったことから逃げる気はない。
きっと、明日には『交際トラブルか。○○アパートで殺人事件』みたいな形で報じられるのだろう。
そこには『不生道子容疑者(24)』という形で私のことも報じられ……社会的に、殺される。
現代日本には情状酌量の余地は制度的にあっても、社会的には実質存在などしない。
自業自得。でも、私がこの日々から解放されるにはこの方法しかなかった。
私はゆっくりと自分のポケットからスマホを取り出し、警察に電話をしようと、スマホの画面をタップした。
その瞬間。スマホの画面が白く輝き光を放ち、あたり一面を強く照らす。思わず、タップした手で光を遮ろうとするが光は容赦なく、私の視界に映る世界全てを真っ白に染めつくしてしまった。
突然、スマホが私の手の中から消える。その異変を感じ取り、思わず私はあたりを見回す。すると、白かった世界に徐々に色が戻ってきた。
しかし、そこから現れた造形は私の知る光景ではなかった。
殺したはずの男も、包丁も。現代アパートの一室は影も形も残っていない。
地面には赤い、それこそ血のようなもので魔法陣のような図形が描かれており、随所に蝋燭が立てられていた。中世の石造りの地下室のような広い空間に描かれたその魔法陣の中心に私はいたのだ。人の気配を複数感じ、視線を少し上げた。
それとほぼ同時に声が聞こえた。
「おお……成功だ……間違いなく、成功だ! 神よ! 感謝いたします!」
黒いローブを着た男が、歓喜の声を上げる。血まみれの私を見て。
状況が、飲み込めない。消えたスマホ。移動した場所。私の姿に歓喜する理由。何もかも。
しばらくすると黒いローブを着た男の奥から貴族風の服を着た男たちが数人現れた。恰幅の良い男に付き従うように二人の男が両脇を固めている。その状況から、恰幅の良い男が最も地位が高い人間なのだろう、ということが見てとれた。
「まさか女性とは。いや、だがしかし。我々が求める条件に合致する人間であることは間違いない! 素晴らしい!」
私の姿を見て恰幅の良い男もまた歓喜の声を上げる。条件? 求める? 私は、人を殺した存在価値のない人間なのに、何故……
「ここは、一体? 私は、どうしてここへ……?」
思わず声をあげた。彼らの言葉は私にも理解ができた。もしかしたら、私の言葉も通じるかもしれない。そう思ったから。すると、彼らは思いがけない言葉を発した。
「おお、これは失礼いたしました。異世界の方。私はこの世界にあるグランディウス王国の王、グラム=グランディウスと申します。貴方様を、この国に起きている危機を乗り越えるために、我が国の秘術を使い喚ばせていただいたのです。どうか、貴方様のその『人を殺せる勇気』を持って、この国を救っていただけないでしょうか」




