第四章 自分で選ぶということ 最終話
ご愛読ありがとうございます。
本日更新分でおかげさまで最終話です。
最後までお楽しみいただければ幸いです。
部屋中が、彼女の声を聞いていた。
「あなたは私に選ばせていたんじゃない。
選ばされたと、思わせていただけ」
ハーバルの顔から、少しずつ笑みが消えていく。
「何を言っているんだ、ディアナ」
「これを見て」
彼女が手を上げると、フォースが一歩前へ出た。
机に置かれたのは、数枚の紙だった。
偽造された診断書。
同じ筆跡の診断記録。
侍女の証言書。
そして――透明な薄膜のついた、例のあみだくじ。
ハーバルの顔色が変わる。
「これは――」
「あなたの従者が保管していたものです」
フォースが言った。
「昨夜、辞職願とともに提出されました」
「そんなはずはない――」
マジスタが前へ出た。
彼女はまっすぐにハーバルを見る。
「もう、終わりにしましょう」
「マジスタ」
「あなたは、いつも言っていましたね」
その青い瞳は、初めて揺れていた。
「『僕は選んでいない』と」
「それは――」
「でも、違うわ――」
彼女は言い切った。
「あなたはいつも、“選ばない方を選んでいた”だけ」
その言葉が、真正面から彼を刺した。
ハーバルは一歩、後ずさる。
だが、まだ崩れない。
その様子を見ながら、ディアナは不思議と静かだった。
ここへ来るまでに、もう話は終わっている。
集めた証拠は、すでに双方の両親へ示してあった。
最初は信じなかった父も、偽造された診断書と、透明な薄膜のトリックを見て、ついには言葉を失った。
そして、チョイス侯爵もまた、 息子を庇いきれなかった。
従者たちは、当初は何も語らなかった。
長く仕えてきた"怖い”主人を、自ら告発することはできなかったのだ。
だが――
「真実を述べよ」
その一言を命じたのは、ハーバル本人ではなく、その父だった。
侯爵家当主の命令に、彼らはようやく口を開いた。
婚約解消は、その時点でほぼ決まっていた。
今日この場は、その可否を問う場ではない。
本人に、自分のしたことを見せるための場だった。
「……僕は、誰も傷つけていない」
その声は震えていた。
「誰も?」
ディアナが問い返す。
「私は?」
答えはない。
「マジスタ様は?」
沈黙。
「あなたの従者たちは?」
ハーバルは口を開きかけ、 閉じた。
それでもなお、彼は言った。
「僕は、正しくしていた」
その一言で、ディアナは悟った――
この人は最後まで、自分を悪人だとは思わない。
たとえ、すべてを暴かれても。
それが、彼の恐ろしさだった。
そして、哀れさでもあった。
「ええ――」
ディアナは静かに頷いた。
「だから、もういいの」
彼女は婚約解消同意書を取り出した。
机に置く。
羽根ペンを取る。
さらり、と署名する。
――ディアナ・レクション――
その名前を書き終えた瞬間、 胸のどこかで、長く絡みついていた糸がぷつりと切れた気がした。
「私と彼との婚約を、ここで解消します」
チョイス侯爵が重々しく頷く。
レクション伯も異論を挟まない。
書類は、静かにハーバルの前へ回された。
「ご署名を――」
家令長が告げる。
ハーバルは一瞬、卓上の羽根ペンへ視線を落とした。
――だが、取らない。
「使い慣れたものを使わせてもらうよ」
そう言って、彼は胸元から一本の細いペンを取り出した。
愛用品なのだろう。
その動きを、誰も不自然とは思わなかった。
彼はそのペン先を、卓上のインク壺へ軽く触れさせた。
その仕草は、あまりに自然だった。
「お待ちください――」
声を上げたのは、フォースだった。
ハーバルの手が止まる。
「そのペンを、確認させてください」
「――何のつもりだ」
「念のためです」
穏やかな声――
だが、拒否を許さない響きだった。
フォースはペンを受け取ると、 紙の端に一本、短い線を引いた。
黒い線が現れる。
そしてそれを、窓辺へ運ぶ。
陽光の中で、数十秒……
その線は、 ゆっくりと薄れていき――
消えた………
部屋に、小さなどよめきが走る。
「消えるインクです」
フォースが言う。
「内部にあらかじめ仕込まれている。インク壺に浸したように見せれば、誰も疑わない」
ハーバルの顔色が変わった。
「――違う……」
その否定は、もはや力を持たない。
「――まだ、選べるつもりだったのですね」
ディアナが言った。
怒りではない。
ただ、静かな確認だった。
ハーバルは、何も答えられない。
チョイス侯爵が立ち上がる。
「そのペンを下げろ。新しいものを」
新しい羽根ペンが運ばれる。
今度は、誰の手も加えられない。
ハーバルは、震える指で署名した。
――ハーバル・チョイス――
それを書き終えた時、彼はようやく理解した。
もう、何も変えられないのだと。
もはや、覆ることはない。
ハーバルだけが、そこに取り残されていた。
「……ディアナ」
彼が初めて、彼女の名を呼ぶ。
縋るように――
けれど、その声はもう届かない。
「さようなら」
彼女は一礼した。
その言葉に、未練は一片もなかった。
◇
その日の帰り道、空はよく晴れていた。
初夏の風が、街路樹の葉を揺らしている。
久しぶりに、空を見上げた気がした。
「終わりましたね」
隣を歩くフォースが言う。
「ええ」
「気分は?」
ディアナは少し考えた。
「……静か」
「そうでしょうね」
「初めてあみだくじに勝った…のですから………
もっと晴れやかになるかと思ったのに」
「喪失感は、解放感と同時に来ますから」
その言葉に、彼女は小さく笑った。
「相変わらず、時々だけ詩人ね」
「時々だけです」
夕陽を受けた石畳が、二人の影を長く伸ばしていた。
「ディアナ」
「はい?」
彼は懐から紙を取り出した。
見覚えのある白い紙。
けれど今度は、線は一本も引かれていない。
「……何?」
「もう、あみだくじは要りませんから」
そう言って、彼はその白紙を彼女へ差し出した。
「次は、自分で選んでください」
何を書くのか。
どこへ進むのか。
誰の手を取るのか。
それを決めるのは、もう自分だと――
ディアナは、その白紙を受け取った。
指先に、紙の感触が伝わる。
それは今まで見てきた どんなあみだくじよりも、ずっと自由だった。
だが――
「できれば……」
フォースが、少しだけ言いよどむ。
「その紙を、白紙のまましまい込まないでください」
「……どうして?」
「もし何か書くなら、その最初の一枚は――」
彼は一瞬だけ視線を逸らし、 すぐに戻した。
「私宛てだと、少し嬉しい」
彼女は顔を上げる。
夕陽の中で、フォースが待っている。
急かさず。
押しつけず。
ただ、返事を待っている。
だから彼女は、忘れていた笑い方を思い出すように、微笑んだ。
「…やっぱり、詩人ね……」
その言葉は、彼に向けたものだった。
もう二度と、誰にも選ばされないように。
けれど今度は、自分で選んだ相手へ、自分の言葉を届けるために。
「………書きますわ……必ず」
初夏の風が、二人の間を柔らかく吹き抜けていった。
同時期の短編です。こちらもお楽しみいただければ幸いです。
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