第46話 王立図書館
あれから一ケ月。
俺たちが仕掛けた、独自の流通網とフランチャイズ展開が、静かに王都に浸透し始めた。
俺はひとり、王城の敷地内にある王立図書館に足を踏み入れていた。
表向きは『軍師として王国の法律を学ぶため』。
もちろん、そんなのは建前だ。本当の狙いは二つ。
ひとつは、あのフローラ王女との接触。
そしてもうひとつは……ある『記録』の確認。
大理石の柱が立ち並ぶ、静謐な空間。天井まで届きそうな巨大な書架。
ひんやりとした空気の中に、古い紙と埃の匂いが溶けている。
斜めに陽の差す、閲覧室の一番奥。
人気のないその場所に、彼女はいた。
フローラ・グランゼル。
城の廊下で見かけた時と同じ、飾りのない紺色のドレス。
分厚い羊皮紙の束に向かい、一心不乱にペンを走らせている。その細い指先は、ひどくインクで黒ずんでいた。
向かいの席に音を殺して腰を下ろすと、彼女は弾かれたように顔を上げた。
透き通った青色の視線が絡んだのは、ほんの一瞬。怯えた小動物のように、彼女はすぐに目を伏せてしまった。
「驚かせて申し訳ありません、殿下」
声を潜め、軽く頭を下げる。
「王国の歴史について、少し学ばせていただこうかと」
「……歴史の、お勉強、ですか」
か細く、けれど澄んだ声。
「ええ。ただ、司書が見当たらず。歴史書のある場所をご存知でしょうか」
彼女はこくりと小さく頷き、無言のまま席を立った。書架の奥へと姿を消し、しばらくして戻ってくる。
その細い腕に、自分の顔ほどもある分厚い革表紙の本を抱えて。
そっと、俺の目の前にそれが置かれた。
「ありがとうございます」
礼を言うと、また小さく頷いて、彼女は自分の羊皮紙に向き直った。
言葉を交わしたのは、たったそれだけ。
だが、俺の意識は目の前の歴史書にはなかった。
視線の先にあるのは、彼女の机の端に積まれた、別の書類の束。
先ほど、彼女が席を外したわずかな隙に、俺はその中身を盗み見ていた。
魔法の理論書でも、歴史の文献でもない。
そこに書き連ねられていたのは――貧民層の戸籍。
身元不明の病人の罹患記録。
そして、路地裏で野垂れ死んだ者たちの、誰にも顧みられることのない死亡記録。
冷たい水でもぶっかけられたような感覚。
あの謁見の間で感じた違和感の正体が、鮮明な輪郭を持って迫ってくる。
『呪いの姫』。
表舞台から隠され、何の権力も持たされていない孤独な少女。
彼女は、この薄暗い図書館の奥底で、たった一人で『スラムの人間台帳』を編んでいたのだ。
国家という巨大なシステムが、真っ先に「いないもの」として放棄する人間たち。
それを、インクで指を真っ黒に染めながら、一つ一つ拾い上げている。
死んでいく者たちの生きた証を、せめて文字として繋ぎ止めようとする、祈りのような切実な抵抗。
息を細く吐き出し、彼女から視線を外す。
手元の『王国年代記』の重い表紙を開いた。
第二の目的。俺がこの世界で、何よりも先に確かめなければならなかった事実。
分厚いページをめくる。
建国の歴史。獣人との戦争。魔族との不可侵条約。
そんなものはどうでもいい。膨大な記述を読み飛ばし、ここ数年の記録が記された最終章へ指を滑らせる。
そして。
ある一行の上で、俺の指先が凍りついたように止まった。
『五年前、北東山脈に魔王イルミナ突如として顕現。魔族領を統一し、王国に宣戦を布告す』
……五年前?
ドクン、と耳の奥で、嫌な音がした。
急激に、呼吸が浅くなる。
違う。おかしい。
前世の記憶が、頭蓋骨の裏側でガンガンと警鐘を鳴らす。
オンラインゲームの相棒「イル」からの、最後のやりとり。
『ちょっと最近しんどいかも』。あのSOS。
あれを受け取ってから、俺が事故で死ぬまで……たしかに『一年』だったはずだ。
あの日以降、彼女はログインすることは二度となかった。
なのに、この世界の歴史書は、魔王イルミナが『五年前』から存在していると突きつけてくる。
計算が、合わない。
俺が死んだ時間と、魔王が現れた時間に、四年もの致命的なズレ。
……ということは。
魔王イルミナは、前世の相棒『イル』そのものではない?
いや、待て。あの魔王軍の旗のデザインは、俺たちが作ったギルドマークと完全に一致していた。
偶然で片付けるには、あまりにも出来すぎている。
そして、極めつけは、女神が最後に託した言葉。
『あの方を探して』。
点と点が、歪な形で繋がり始める。
魔王軍のどこかに、『イル』がいる。
魔王としてではなく、別の何らかの形で。
確証なんてない。針の先ほどしかない、馬鹿げた仮説だ。
あのSOSから逃げ出し、何千時間も一緒にバカをやった相棒を見殺しにした俺にとっての、ただの都合のいい妄想かもしれない。
それでも。
「生きているかもしれない」というその可能性だけで、目の奥がカッと熱を持った。
腹の底から、今まで感じたことのないような熱い思いが沸き上がってくる。
魔王領へ、行かなければならない。
何が何でも。
そのためなら、俺たちをこの王都に縛り付けようとするクソみたいなシステムなんか、内側から完膚なきまでに食い破ってやる。
王都の盤面をひっくり返す。その最大の動機が、今、圧倒的な重量を持って俺の背中にのしかかった。
パタン、と。
重い音を立てて、年代記を閉じる。
深く息を吸い込む。
肺の中で荒れ狂う感情を、元コンサルタントの冷たい思考の箱に、無理やりねじ込んだ。
ふと顔を上げると、向かいの席のフローラが、ペンを止めてこちらをじっと伺っていた。
俺の放つ空気が、わずかに漏れ出していたのかもしれない。
「……お騒がせしました。少し、興奮しすぎたようです」
立ち上がり、分厚い本を机の端へ寄せる。
閲覧室を出る前。
俺は彼女に向かって、深く頭を下げた。
「殿下」
俺の低い声に、彼女の小さな肩がビクッと跳ねる。
「いつか、お力を借りに参るかもしれません」
あえて言った。
力を貸す、ではない。力を借りる。
彼女がそのインクで汚れた手で、必死に守り抜こうとしているもの。
それは間違いなく、いずれ俺の盤面を完成させるための、決定的な切り札になる。そんな確信があった。
フローラは、何も答えなかった。
ただ、湖のような青い瞳が、ほんのわずかに揺れる。
それは怯えではなく、自分の『存在』を真っ直ぐに見透かされたことへの、どうしようもない戸惑いの色だった。
俺は踵を返し、図書館の冷たい床を歩き出す。
背中越しに。
カリ、カリと、ペンが羊皮紙を引っ掻く音が、再び静かに響き始めていた。




