38 ケース1と2
ケース1
誰も出迎えてくれない事は分かっているのに、「ただいまあ」と気だるい声を発しながら、OLさんらしきその女性は玄関から通路そしてリビングへと電気を点けながら進み、寒い寒いと身体を震わせてエアコンのスイッチを入れた。
まだ季節は厳冬を折り返してもおらず、電子レンジにコンビニ弁当を入れつつテレビのスイッチを入れると、関東甲信越から北海道にかけてすっぽりと覆った寒気団による記録的寒波のニュースが流れており、あと三日ほどは大荒れの天気が続くらしい。
部屋の気温はまだ上がらず、コートを羽織ったまま化粧台の前へ赴き、ぱぱっと唇周りだけ拭う頃には電子レンジがチン! と鳴る。
思いのほか残業が厳しい日だったらしく、今日はこの幕の内弁当を冷蔵庫にあったグレープフルーツサワーで胃に流し込み、慌てて風呂に入って就寝しなければ明日がキツイ。寒波の影響で長野市内も雪が降り続いており、除雪をまともにやらない市街地では都市機能が麻痺している事から、早目に起きて早目に通勤しないと会社の始業時間にも間に合わない。
その女性はがっくりと肩を落として疲労を身体で表現しながら、時計を何度もチラチラ見つつ就寝予定時間までどれくらいゆっくりしていられるのかと頭の中で計算しながら、コートを着たまま食事を終わらせ、缶の三分の一にまで減った残りのグレープフルーツサワーを一気に飲み干した。
ほっと息つくヒマも無く、やっと温まり始めた室内でコートを脱ぎながら洗面所へと赴く。
洗面台の隣にある洗濯機は満員御礼なのだが、これは彼女がズボラである事の証明ではなくて、ひたすら続く寒波で洗濯が出来ない事を表していた。
ストッキングを脱いで素足になり、洗面所に隣接する風呂場の中折れ扉をギイと開けて風呂場へと入る。
シャワーヘッドを手にコックをひねり、しばらくそのままシャワーの水をバスタブに向けていると、シャワーヘッドから勢いよく飛び出して行く無数の水玉からもうもうと湯気が立ち昇り、水がお湯に変わった事を知らせて来た。
彼女はそのシャワーの温水をバスタブの内側にかけながら、片手にスポンジを持って内側をこすって掃除し終わると、バスタブに栓をしてお湯を張ろうと立ち上る。
その時……
音が聞こえた訳でもなく、気配を感じた訳でもないのだが、ふと風呂場の中折れ扉に目をやる。
「ひいいいっ! 」
まるで感電でもしたかの様に後方に飛び跳ねながら、彼女は風呂場の中で盛大に尻もちをついてしまった。
何故いきなり悲鳴を上げながら、風呂場で腰を抜かしてしまったのかには理由がある。
強化プラスチック製の曇りガラスをはめ込んだ中折れ扉のその向こう側に、「それ」がいたからだ。
ーー曇りガラスでぼやけた姿ではあったが、間違いなくそれは女で、長い髪を垂らして風呂場に向かって真正面に立っていたのだ。
完全に腰が抜けてペチャリとその場に座り込む彼女だが、可哀想な事に着衣のままずぶ濡れになってしまった。あまりの怖さに手離してしまったシャワーヘッドが、芝生を散水するように床で遊び回ってしまったのだ。
時間にしてどれくらいであろう? その曇りガラスの向こうにある恐怖は、ものの数秒ほどじっくりとガラス越しに風呂場を凝視した後にその場で静かに消え去り、気持ちが落ち着くまでの間ずぶ濡れになり続ける彼女だけがそこに残されてしまった。
ケース2
リビングのテーブルに片肘をつき、沸かした牛乳とインスタントコーヒーで作ったカフェオレを飲みながらホッと一息。
家事と育児が一段落してやっと出来た自分だけの時間にまどろむ若い主婦は、リビングの壁に据えてある薄型テレビで恋愛ドラマをぼうっと見ながら、手元のスマートフォンにチェックを続けている。
『ゴメン、まだ仕事終わりそうにないんだ。夕飯冷えちゃったね』
『シチュー飯だから大丈夫。また温めるから』
『ありがとう。真由美はもう寝た? 』
『さっきね、やっと寝かしつけたよ』
『今日も寝顔しか見れないか』
『もうちょっとガマンすれば週末だよ』
『そうだね、ガマンガマン』
『まだ雪降ってるから気を付けて帰って来てね』
SNSを通じて送られて来る夫のメッセージに対して、間髪入れずに返信する妻。
会話を重ねれば重ねるほど夫も仕事が手につかず、結果として余計に帰宅が遅くなるのは重々承知しているものの、それでもついつい返信してしまうのは、朝から晩まで育児に追われる日々の中で、ふと瞬間的に孤独を感じる寂しさからなのかも知れない。
いずれにしても、夫は未だ仕事に縛られ子供も夢の中。ドラマの続きも気になるが今のうちにお風呂でも入ろうかとあくびをしながら席を立った時、ふわりと右頬に感じた微かな風。
別に換気扇を点けている訳でもないし、窓を開けっ放しにしている訳でもない。むしろ窓など隙間でも明けていようものなら、室温があっという間に下がって口から白い息を吐くようになる。
ーー気のせいかなーー
人とすれ違った時の様な風圧……そんな感覚も覚えるのだが、真剣に悩むような事では無い些細な事で、自分の眠気がそう感じさせたのかも知れない。
早々と記憶からそれを捨て去って、風呂を沸かす為に洗面所に赴こうとした矢先、2LDKの間取りにおいて、リビングに隣接する部屋つまり、夫婦ではなく子供の寝室に利用している部屋から幼い声が聞こえたのだ。
「まぁま……まぁま……」
娘の真由美はやっと言葉を覚えたばかりで、「まぁま」と「ばぁば」しか言えない。
まぁまは母であり、ばぁばは祖母である事から、いかに夫が仕事に追われているのかも垣間見れるのだが、やっと寝かしつけたのにもう起きちゃたのと半ば諦め顔。それでもグズってないのは幸いだから、電気を点けずにもう一度寝かせようと、引き戸を半分ゆっくり開けて、静かに静かに子供の元へと足を運ぶ。
「まぁま、まぁま」
「あらあらどうしたの? 目が冷めちゃったの? 」
ベビーベッドで上体を起こして母を呼ぶ子供、室内灯の明かりで目が完全に醒めないようにと、暗がりの中近付いた母は、仕切り板を片側だけ外して優しく抱き締めてやるのだが、どうも子供の様子がおかしい。
普段は空腹の時もむず痒い時もお漏らしした時も、「まぁま、まぁま」と主張しながら母の顔をまじまじと見詰めるのだが、今回に限っては母の顔を一切見る事なく、顔を傾け母の背後だけを凝視している。
「まぁま、まぁま」
一体何を見ているのかと振り返る、すると、今までそんな気配は一切感じる事がなかったのに、部屋の入り口に長い髪の女性が立っているではないか。
「ひ……ひいっ! 」
反射的に抱き締めたままの子供を守ろうと後ろに回し「それ」に向かって自分の背中を見せる母。
子供部屋が暗がりでリビングには照明が灯っており、逆光になっている事から、長い髪の女だと言う以外は表情も何もまるで見えない。
「誰、誰なの!? 」
勇気を振り絞って母が怒鳴ると、彼女の怒声が触ったのかとうとう子供は泣き出してしまった。そしてその泣き声がきっかけかどうかは分からないのだが、女の影はその場ですうっと消えてしまったのである。
このケース1、ケース2とも年明けの一月中旬に起きた出来事であり、場所は長野市中心部の市街地にある、同じマンション内での出来事である。
管理会社を通じてオーナーの元に報告されるのはそれからしばし時間が経った一月下旬なのだが、目撃証言はその時点でケース11まで増えていたと言う。




