恋する胸の痛み
――あの子は、無事にお家へ帰れたのかしら?
屋敷に入った少女は、門前に残してきた少年の事を考えた。
「あの子」と、年下扱いして心配するのもおこがましい程、自分よりしっかりとした少年だった。
私のような世間知らずの人間が行くべき場所じゃない。
ここを知り尽くした少年にそう忠告されても、行かなきゃならないと、決めていたから。
今まで足を踏み入れたこともなく本来なら治安の悪いこんな場所をさ迷えたのは覚悟かあったことと、霧が色々なものを覆い隠してくれたからかもしれない、それでも不安があったのに……。
少年の言葉を聞いて、覚悟していた場所は、確かに廃墟ともいえる建物しかなく、門柱は錆びつき歪み、何年も手入れをされていないようだった。
本当に名刺に書かれた住所はここだろうかと、手を掛けた扉が開かなかったら……と不安になったが、思いの他スムーズに動いてまるで屋敷に歓迎されているように思える。
――これで良かったのよね。
当たり前のように左手の薬指に身に着けていた、結婚指輪。
言われるまで、つけている事さえ忘れていたはずなのに。
改めて、手放すと思えばためらってしまう。
外してもまだそこにあったかのように指輪の後と、感覚が残っている。
感触を振り切るようにドアのノッカーを叩くと、魔法がかかったように一斉に館に明かりが灯った。
その暖かさは、少女を歓迎しているようだ。
扉が開き、廃墟とは思えない、ごく普通の貴族の屋敷のような豪華な内装が、館の中には広がっていた。その様子に驚いて茫然としていると、執事らしき人間が優雅に迎え入れてくれる。
執事らしき、と思ってしまうのは男性は紛れもなく執事の装いだったが、顔には執事には似つかわしくない、黒地に青銀の意匠が施された美しい仮面をかぶっていた。
仮面舞踏会でよく見る形のそれは目と口元ぐらいしか見れないが、その仮面でも隠しきれない美貌、凛とした立ち振る舞いとあわせて、怖いぐらいに美しい――魔法仕掛けの氷人形のよう。
ペールブロンドと、深く落ち着いた存在感の所為で、老人かと思ってしまったが、若い男性のようだった。
仮面をかぶっていると言う事で、この場所では何事も詮索不要だと念を押されているように感じる。
「名刺を――」
銀の盆を差し出し、透き通るような冷静な声で促されて、少女は恐る恐る名刺を取り出して、置く。
「……では、主人にご案内いたします令夫人」
盆の上に置かれた名刺を一瞥すると、納得したように執事は歩き出す。
人形と思ってしまったのは、丁寧な言葉でしゃべってはいるが、こちらが取りつく暇もない程冷たさを感じるせいだ。
廊下を案内されながら内装を見回すと、飾り気のない一般的な貴族のお宅を訪問しているような感覚に陥ってくる。目の前を滑らかに歩いている執事を見ると、こんなに不審で不安になっても仕方のない出来事の渦中にいるのになぜか警戒心が湧かない。これから案内される先に待ち受けているという、この奇妙な館の主人にも。
少女がこの場所に導く不思議な名刺を手に入れたのは、数週間前の夜会。
生涯忘れたくても、忘れられない出来事が起こった夜。
その思いを胸に。
――私は、その為にここに来たのだもの。
少女の夫は、とても美しく優しい貴族階級の青年だった。
一方、少女の方は貴族ではないが、豪商の娘として生まれた。
一人娘として大切に育てられ、貴族にも劣らない贅沢な生活を送っていた。
たが、自分自身の魅力。
……特に美しい容姿も、人を引き付ける才能もない平凡な少女が、彼と結婚できたのは夢のような奇跡だった。
年頃になった社交シーズン。
人生の伴侶を探すの舞台で、ひときわ注目の花となった少女には並み居る求婚者が現れた。
しかし、貴族ではなく、特に有力な後ろ盾もないと言う点が、並み居る求婚者たちの質を下げた。
求婚者たちは平凡な少女を通して、持参金だけを見ていたのである。
社交界に出る前から社交場で友人になった、ロベリアーノ男爵の娘ローレル。
美しく、そして才気煥発で人を引き付ける魅力があり、すぐに夜会でも人の輪ができる。
彼女は少女とは違って逆に爵位はあるが財産はなく、その地位もお飾りのように低いため、彼女の望むような求婚者が現れないという、不遇に陥っていた。
そのローレルの友人、コンカドール家のセマーム様。
初めて紹介された時は、ガーデンがお好きな、さる公爵夫人開催の園遊会。
黄色の薔薇が美しく咲き乱れる中だった。
初めて公爵様ご自慢の庭園を見た時。
様々な薔薇が美しく整えられ咲き乱れる様は圧倒的で、こんなに夢のような美しさがあるのかと見惚れていたのに、それらが霞むような存在感で彼は存在していた。
まるで乙女の夢を形にしたような、王子様。
天使のような金の髪に、顔には甘くやさしげな表情を浮かべ、にこやかで暖かな緑の瞳。
繊細な美術品のような、どちらかというと中性的な立ち姿……だからと言って、女性的ではない男性的な魅力も十分に感じる。
存在自体が、別格だった。
背景の薔薇が霞んで、彼だけしか少女には見えなくなる。
ローレルに声を掛けられるまでは、完璧に見惚れてしまっていた。
そんな存在には少女がローレルの友人でなければ、話しかけられもしなかっただろう。
――少女はあくまでローレルのおまけだった、セマームに対してではなくても。
正式に、ローレルから紹介されて、何度か招待された共通の夜会で出会い、段々とローレルがいなくても挨拶ぐらいはする程度には親しくなっていった。
周りの視線が痛い程だったけれど、それぐらいセマーム様とお話ができるならなんてことなかった。
時折、話せること自体に興奮して、自分でも馬鹿みたいに話し過ぎてしまったわ……と、反省した事も何度もあった。
こんなちっぽけで平凡な自分にも、レディとして敬いながら優しく接してくれる。
セマーム様の事が話せば話すほど好きになっていったけれど、自分では不相応な相手だと分りすぎる程身の程をわきまえていた。
少女の恋は、実るはずがない事を知っていた。
身分でも、中身でも、外見でも……全てが釣り合わない。
――私に話しかけるのは、ローレルに敬意を払っているから。
少女はこれを心に刻んで、あふれそうになる恋心に蓋をする。
会うたびに何度も、何度でも。
その蓋がゆるんでしまうようになったのは、何度目の再会の夜会の舞踏会だったか。
少女の付き添い役の女性が好ましい男性にダンスを申し込まれ、受けたいけれど席を外すのを迷い、少女としては快く送り出したいけれど……と、迷っていた時。丁度挨拶に来てくれたセマーム様が代わりとなって、ダンスの間だけでもとエスコートを引き受けてくれてくださった時だった。
最初で最後かもしれない、セマーム様と踊れる機会。
少女にとっては、とても幸運なことだったが、同時に不幸なことだった。
上流階級の子女としては相応しくなく、少女はダンスが不得意だ。
なので必要最低限、出来るだけ踊らないように心掛けている。
「ダンス、お好きではないようですね」
それをセマーム様に見透かされていたと思うと、恥ずかしかった。
みっともないところなんて、好きな人には見せたくない。
でも嘘はつきたくなくて正直に答えた。
「ええ、実は……お恥ずかしながら、そうなんです」
セマーム様とは踊りたい、でも。
せっかくの機会に葛藤している間に、セマーム様はダンスを誘う事を諦めてしまったようだ、自分で遠回しに断ったようなものなのに、残念な気持ちになった時。
「……なら、ご一緒にしても?」
その一言で、気分は浮上してしまう。
が、瞬時に気を引き締めた。
「セマーム様が壁の花なら、摘みたい女性が沢山いるのでは?」
ダンスを誘って欲し気な女性たちが、こちらを痛いほど見ていた。
恋人同士なら兎も角、女性からダンスを誘う事ははしたないとされている。セマーム様と会話する淑女の皆様は、淑女らしくなく会話の端々からダンスを誘ってほしい秋波を送っている事に、彼を意識してる少女としては十分に感じ取っていた。
「あなたには、重要な秘密をお教えしましょう」
「まぁ、なんでしょうか?」
「実は私も、ダンスは得意ではないのですよ。こうやって座って、周囲をゆっくりと眺めている方が、本当は楽しいんです」
そう言われて、少女はびっくりする。
ここは社交の場。
ただ眺めているなんて、いろいろな機会を逃す愚か者のする事のような贅沢な怠惰。
ある時、ローレルにそう言われた事があった。
しかし、少女は座ってただ会場の中を眺めているのが好きな、ローレルに言わせると愚か者だった。
まるで、観劇を見ているように美しい光景が目の前には広がっているのだ。
あちら側で動いていては、じっくりと見れない傍観者としての光景。
群像劇。
卑屈さとは全く違った、心が浮き立つような気持ちだった。
それは――離れている方が、見えるものがあるから。
今もまた、付き添い役の女性と、思いを寄せる男性が幸せそうに踊る時を見れる嬉しさを感じ取って知らず知らずに笑みがこぼれる。
本当なら、あまり理解されない少女の気持ち。
それなのにセマーム様も同じ事を考えていたなんて。
そしてダンスが「苦手だ」と言っても、無理強いせずに一緒に座ってくれる。ダンスが得意ではないと言うのは少女に気を遣ってくれただけだろう。見事に踊るセマーム様を見たことがある少女は分っていた。でもその些細な気遣いだけで、なんとも言えない浮き立った気持ちになる。
だからと言って、ただの知人としてセマーム様を独り占めする気はなかった。
それをするには周囲の視線が痛すぎた。
「セマーム様も踊ってばかりでは、お疲れでしょうから。お休みになりたい時には、お話し相手になってくださいね」
「ええ、ありがとうございます、是非」
ただの社交辞令だと思っていたのに。
それからは二人は、何度かの夜会で「ダンスを休みたい時の話し相手」になった。
ローレルを挟まなくても、向こうから挨拶に来てくれるほどには親しくなっていく。
忘れたいと思っていても、こんなに接点があっては、恋する胸の痛みは消えるどころか増すばかり。
他の女性とは共有できない時間、ただそれだけで少女には十分な時間だった。
ある日、両親が――商売先の馬車の事故で亡くなったという報せがくるまでは。
※すみません、初期投稿時点でルビのタグ入力をしていなかったため
表示がおかしくなっておりましたorz