「私を行かせて」
夕霧立ち込める貧民街。
たとえ、晴れて眩しい日差しが差し込もうとも、どこか薄暗く、よどんだ空気が漂う。貧困が極まり汚濁の吹き溜まりのようなこの場所に立ち入るのは真っ当な人間ではなく、そして住み着いている住人はそれ以上に、胡乱な者たちばかりだ。
少年は生き馬の目を抜くようなこの場所で、それなりに狡賢く生きてきた。
そして今、少年の今日の糧、いややりようによっては当分安心して暮らせる程度になりうる人影を見てほくそえむ。
――いいカモじゃねぇか。
霧に紛れてこの場所に迷い込んだのだろう。
外套を深くかぶり、姿からはどんな人物かうかがい知れない。しかしこの場所に初めて足を踏み入れたと言わんばかりの周りを見渡す動作、素人まるだしのおぼつかない歩き方からして、この街の住人ではないと言うのは丸わかりだった。
うろうろしている姿は、少年でも「チョロイ」と思ってしまうほど、迷いの子羊。
少年が見つけなければ他の者にかっさらわれていくかもしれない。
まだ最初に見つかったのが、少年でよかったとこのカモは幸運に思うべきだ、と身勝手な事を考えなから彼は声を掛けることにした。
「どうしたんだい? そこの人、道に迷ったのかよ?」
「……っ、はい。そうなんです」
後ろから声を掛けた所為か、外套の人物はびくりと驚いた挙動を見せた。
ゆっくりとぎこちなく振り返り、深くかぶったフードの奥から少年の姿を見ると、子供だと安心したようだった。
――本当に、チョロイ。
少年の問いに答えたのは大人しく品のある若い女の声。
もし少年が、警戒をいだかせるような年齢の男だったら警戒していただろう。
「そっか、お嬢さんはどこに行きたいんだい?」
できるだけ無邪気に……子供らしく無害な風を装い尋ねる。
道案内と称してできるだけ金を引っ張るか、それとも、スリ盗るか……その場合は、後から面倒な事になる可能性があるので、この会話の中で判断しなければならない。
最終手段。
ここいらあたりを取り仕切る顔役の元へ連れて行くのは、いくらこの場所に染まっている少年でも少しかわいそうだと思ってしまうのは、最近の稼ぎがよく、機嫌がいいおかげだった。
確かに、目の前の外套の女性は運がいい。
機嫌も懐具合も悪ければそんな事、少しの罪悪感でチャラだ。生きていくために他人を食い物にするのはここでは当たり前の事だったから。
「お嬢さんのような人がこんな場所で迷子ってお危ないなぁ。付きの人はいないのかい?」
「ええ、少し、尋ね人がありまして。道に迷ってしまったんです」
――聞いてよかった。
少年は自分のファインプレーに感謝する。
お付の人間がいない事は、少年の仕事をやりやすくするが。これから尋ねる相手によっては、その客人にちょっかい話出したとして、少年のほうが危険な事になっただろう。しかし、顔はあまり見えないが、若くいいところの女性がこんな場所の……誰に用があると言うのだろうか。
「どこに行くんだい? 知ってるトコなら案内してやるよ」
「ありがとうございます」
さすがに心細かったのだろう、少年に暖かな言葉をかけてもらったと思ってか、酷く安心した声になった。
夕方といえど、若い女性が一人歩きするような場所ではないので、こんな場所で迷っているのは不安になるのは仕方ない。
けれどあっさり少年に警戒を解く様子といい、ここまでよく無傷でこられたもんだと、呆れるより関心してしまう、この女性はよほど運がいいのだろう。
女性は外套の中で何かを探すような動作をすると、ひとつの名刺を取り出して少年に見せた。
「この場所に行きたいのです」
それは不思議な名刺だった。
夕霧に包まれたこの特殊な光源のせいなのか、それとも名刺自体に金箔で模様が施されているからか。うっすらと光っているような不思議な色合いを放っている。
――ためらいなく、オイラみたいなやつに名刺を見せるかねぇ。
平和ボケも極まれり。
盗まれるという心配もだが。
女性はここに住む人間に一般的な上流階級が持っている侮った印象、つまりは文字が読めない人間がいるとは、少しも考えなかったらしい。
少年はこの界隈に住んでいる子供達の中では珍しく、文字が読めたので、その名刺に書かれた住所を読み取ると驚く。
書かれた番地にあるもの――それは。
「本当に……ここに行くのかい?」
この街に住み着いている者ならだれでも知っているが――知っているからこそ近づかない場所。
昔、少年の生まれる前。国王の出した政策でこの街の治安の正常化を狙って、貴族達が立派なお屋敷をこの界隈にいくつも建てたが、結局はそれも周辺の治安の悪さに飲み込まれていった。庶民からして見れば、貴族の道楽の末の遺物の一つだ。
当時は立派なお屋敷だっただろうに、長年放置されていた結果。今では幽霊屋敷のごとく、不気味なほど荒れ果てている。そんな建物が点在していたが、女性が向かうお屋敷は、その中でも特別ないわくがあった。
普通の人間なら立ち入る事に躊躇しそうな廃屋だが、この街の住民がそんな事ぐらいで立ち入る事を止めるはずもない。幾人もの人間が屋敷に何か金目の物がないかと忍び込もうとしたところ、帰ってこなかった者多数。多くはない帰ってきた者も、何か恐ろしい物を見たのか、自分が何をしたのか、何を見たのかもあやふやな状態のまま、その屋敷の中では正体を失ったとしか言いようがない……曖昧な証言しか出来なかった。その様子から、物騒な薬でも製造していて、その削片でも吸い込んだのではないかと言われていたり、呪いだと言う者がいたり、様々な憶測が飛び交っていた。それが何であれ、近づくと、危険ということでは同じだった。この地区の顔役でもその真相は知らないのか、それとも分っていて口を噤み黙認しているのか。その態度に、この界隈では屋敷についておおっぴらに語る事はしてはならないのが暗黙の了解になっていた。
屋敷は時折、灯りが見える時や、人の出入りがあるのも、さらに謎が深まらせる原因となっている。
少年にすれば、呪いなどというものよりも、お貴族様の間で流行っているという、違法幻薬をでも作ってるんじゃないかと密かににらんでいて、末端価格でもかなりの値段がするそれを、少年は忍び込んで盗む事も考えたこともあったが、数々の挑戦者の末路を考えるとその考えを諦めた。その引き際の良さも、少年がこの街で生き残っている理由だろう。
「私は、どうしてもそちらに伺わなければならないんです」
「おすすめはしないなぁ、お嬢さんが行くところじゃない」
少年は思わず本音が出た。
そして取り繕うように、ひらめいた事を言う。
「危険な場所なんだぜ、お嬢さんみたいな人連れて行くのはとっても大変なんだけど」
「……案内してくれとは言いません。せめて、ここからの道順ぐらいは教えてもらえないでしょうか?」
お上品な方々は、普通下々の命の危険なんか考える事すらしない。
てっきり危険だろうが、こちらの都合を無視して案内しろ、と言われると思っていた少年は驚いた。
「口で説明するのは難しいしなぁ。じゃあ、オイラも危険ない橋を渡るのは怖いし、それなりのモン手間賃でもらいたい」
危険とは言ったが、それは金を引っ張る為の方便。
ここあたりの路地裏は少年にとって庭のようなもの。
どのあたりに誰の縄張りがあり、どう回避すればいいのか把握している。
屋敷の敷地中に入らずに、門前まで連れて行くだけなら特に危険という事もない、筈だ。
長年疑問だったあの屋敷の禁忌を……目の前のどう見ても危険とは程遠い場所に居そうな女性は知っているのか。この女性を連れて行くことが吉と出るか凶と出るか。
「ごめんなさい。今はもちあわせがないのです」
「え?」
「それにそんなに、危険な場所とは知らなかったものですから。あなたのような子供を連れていけないわ、早くお家におかえりなさい」
――まさか、こうくるとはね。
嘘で塗り固め、騙し合いの中で生きていた少年にとって、予想外のいまいましい程優しい答えだった。
女性は本心からそう言っている事が感じられて……意外にむず痒いような、心地よさを感じてしまう。
「でも、お嬢さんも行くんだろ?」
「ええ、でも……」
このまま道案内役を、他の奴らに取られるのは癪だったので少年は食い下がる。
「オイラならきちんとお嬢さんをお屋敷前まで送り届けられるよ、それに……」
少年は、人の気配を感じて、女性の外套を引っ張って物陰に隠れる。
明らかに、近づくと危険な何かが通り過ぎるのをやり過ごす。
絶妙な、タイミングだった。
「オイラみたいな親切な子供に出会えるとは限らないぜ? 運が悪けりゃ明日の朝、川にでも浮かんでるかもよ?」
さらに若い女となれば、翌日川で浮かんでいた方がマシだと思えることになるだろう。
「……」
「オイラはこの街で育ったんだから、危険回避はお手の物さ」
「満足なお礼も出来ませんし……」
危険だと植えつけて報酬に色を付けようと思ったのは、この女性相手には間違いだった。
子供を危険な目に遭わせるのをためらっているらしい。
「じゃあ、じゃあその手袋でもくれよ」
名刺を差し出した時に見えたレースの手袋はとても高級な一品だった。
古物商に持っていったとしても、買いたたかれなければ相当な値段になるだろう。
「これ、ですか?」
「お嬢さんは行きたいんだろう、もしやばくなったらオイラだけでも逃げる……って言ったら怒るかい?」
「そう……ですね、それなら。無理は、しないでくださいね」
見捨てると言ったのに、どういうわけか納得し女性はためらいなく手袋をはずして、少年へと渡す。
手袋を外した手は、シミひとつない綺麗で若い女の手。
苦労した事が無いことが透けて見える。
その左手の薬指に光る――金と細かい装飾の中に小さな宝石がついた指輪に、少年は釘付けになった。
「なんだ、いいものもってるじゃないか」
つい口にでた少年の言葉に、女性は今気が付いたかのようにはっとする。
そんなに高価な物なのに身に着けていた事を忘れる程、自然に身に指にあったのは――女性がとても裕福だという事の表れだった。
「え、これは……」
金持ちなんだから宝石なんかいくらでも買えるだろうに。道案内ごときで手放すのは、さすがに惜しいのだろうか。
右手で指輪の感触を確かめながら、女性は言い淀んでから、しばしの沈黙。
女性の中で、何らかの決心がついたのだろう。
「そうね、ええ……屋敷についてから、あなたに差し上げますね」
成功報酬とは意外に、頭が回るらしい。
このまま指輪だけ強引に奪い取ってもいいけれど、少年は目の前の女性に少し好感が持てたし。それに何より、あの屋敷の秘密の片鱗でも窺えないかという好奇心が勝った。
「じゃーそれでいいよ、無事に送り届けてやる」
その言葉を少年は守り、何度かの危険を難なく回避しながらも、少年と女性はついに屋敷の前に到着した。
その間に、目の前の女性がとてもお人よしながらも――意外と口が堅い事が分る。
屋敷の秘密を聞き出そうと、無邪気に話を振ってみても、誰かを訪ねるためだけに屋敷に向かっているという情報しか引き出せない肝心なその「誰か」も「理由」も教えてくれはしなかった。
この場所では嘘を見抜けなければ、善人の皮をかぶった心にやましい事を持つ人間に、カモにされる側になる。
貧民街育ちで培われた勘は、女性と会話をするごとに本当にまっとうな人間だと告げていた。
こんなに善良そうな女性が訪問しようとする、恐ろしい噂しかない屋敷への疑問がさらに深まっていく。
でも約束は約束だ。
敷地にある大きな歪んだ鉄の門扉の前で、少年は成功報酬を受け取ることにした。
女性は、指輪に右手を添える。
震える手で、抜き去ると名残惜しそうに少年へと渡す。
――ただ手放したくなかっただけか。
その仕草は、価値に未練があるのではない、その物自体に未練がある動作だ。
さっきまでしていた事も忘れるような指輪一個で、命が助かるのなら、安い買い物だろうとしか思えない。日々の糧を稼ぐことと、使えるか使えないかでしか判断しない、物に執着しない少年には、わからない感覚。
「本当に、オイラがもらっちゃっていいのかい?」
それはナシというのは癪だが、後から面倒事はゴメンだと、少年は確認する。
「……いいんです、もう私には必要ない物ですから。本当にご案内ありがとうございました」
「本当にいくのかい?」
外套のフードのせいで表情は見えないのに、まるで消えてしまうように感じてしまうのは。
必要ないという言葉に、何か引っかかりを覚えるからなのか、今から女性が入る屋敷が屋敷なだけに少年は柄にもなく心配した。
どうやら、女性の「お人よし」はうつるものらしい。
「はい、私を行かせてください」
そう答えるのは少年にではなく、自分自身に言い聞かせているようで。
女性は軽く別れのお辞儀をすると、錆びつき歪み、不気味な鉄の門をためらいもなくくぐる。
「もし出て来た時に俺がいたら、帰りも案内してやるよ!」
その後ろ姿に、思わず少年は叫ぶと。
屋敷の玄関に合図のように明かりがともる。
――人が、いる!!
初めて少年が見る、この屋敷に灯りが点る光景。
この屋敷に向かう途中で日も暮れ、荒れ果てたこの街に点るのは不気味な光のはずなのに。
緊張や恐怖より感じるのは、夢のような美しさと温かさ。
噂されている呪いや禍々しさなど、不快なものは全く感じ取れない……そこにあるのはただただ綺麗な光景だった。
女性がノッカーを高らかに叩くと、玄関のふちからまるでツタが這いでるように黄金色が走った、と思ったのは、扉が開かれた為に光が差す見間違いだったのだろうか。
その隙間から覗く明るい光が、屋敷の中を少しのぞかせる。
一瞬見えた屋敷の中は、廃屋には見えない室内が広がっていた。
少年があっけにとられている間に、キイと、ドアが軋む音を立てながら閉じていき、同時に女性の姿も扉の奥へと消えていく。
ぴったりと閉じられた後には、光も暖かな光景も扉に吸い込まれたかのようになくなり、いつも通りの物騒な暗闇と静寂があたりを支配する。
夢が醒めた心地で少年は、女性が屋敷から出てくるのをまんじりとせず待った。
帰りの道案内の報酬も目当てだったが、屋敷の不思議が気になって仕方ない。
――そして、あのお人よしな女性が、無事に帰って来ることも。
しかし――いくら待っても女性は、二度とそこから出て来る事はなかった。




