「君を離さない」
妻のその別れの言葉が、騒がしい広間の中妙に余韻を引くのは、男の気の持ちようなのか。
単純に曲の切れ間だったからか。
自分からセマームから離れたがった癖に、今までの不快な出来事を思い知らせる為に報復してやりたかったと、後ろ髪を引かれながら。
不作法だが夫人に適当な理由をつけて、このような茶番を提供したのだから十分だろうとばかりに夜会を退出した。この醜聞を治めるのは、男ではなく……アマリス夫人か、セマーム自身であるべきだ。
帰りの馬車で、怒りが収まらなくて大人げなく口数が少なくなった男に、やっと二人きりになった妻は口を開く。
「ごめんなさい」
「?」
「慌ててしまいました、コンカドール卿へのあいさつ」
「ああ」
本来なら、貴婦人として退出のあいさつとしてはおかしかったかもしれない。
どちらかというと、男の方が強引に場を切り上げ、不作法極まりない態度だったのだが、妻は夜会に出る事は未だに慣れてなくいっぱいいっぱいで、夫である男に恥をかかせていないかどうかが心配のようだった。男の不機嫌の理由を、自分の不作法で何か失敗したと勘違いしたらしい。
「緊張してしまったんですね、ごめんなさい、グリフ様」
「あんな事があったのなら……仕方がない」
男をグリフと愛称で呼ぶ人間は身内だけだ。
彼女から呼ばれると、ただの名前も特別に――甘く響く。
馬車の中は、男の魔力によって煌々と照らされていたので、妻に自分の大人げない気持ちを表情から悟られたくなくて、男は馬車の窓から外を何気なく見るふりをした。
「……君は、コンカドール卿を見てどう思った?」
その問いに、妻の表情は見ていなかったが、息を飲むような雰囲気が感じ取れる。
「私は……」と言いかけて、妻は口を閉じた。
どうやら男には言いにくい感情を抱いたらしい。
不安になり視線だけを妻に向けると、明らかに動揺しているようだった。
「聞いたら、きっとグリフ様は軽蔑してしまいます」
答えながら目を伏せるその視線は、まるで男を拒絶しているようで、不愉快だった。男はどんな答えが返ってくるのかこの質問をしたことを、妻の戸惑いだけで後悔する。
男から軽蔑されるようなことを、セマームに対して浮かべたのかと。
もし――男が恐れている言葉を考えていたのなら聞きたくなかった。
しかし一方で、男の生来の性格が否定の言葉を聞きたいが為に、詰問せずにはいられなかった。
「君はあの男を庇っていたな、気になっているんじゃないか?」
「そ、そうではありません……」
「じゃあ、何だって言うんだ?」
馬車という密室によそいきの口調が崩れて、不機嫌さが丸出しとなっていた。
夜会で見せていた紳士然とした態度はもうそこにはない。
男は矛盾していた。
王族の端くれとして、自分の素を隠して仮面をかぶることなど朝飯前の事だった。
妻には嫌われたくない、懐の大きい男で優しく紳士的でいたいと思っているのに……何故か素が出てしまう。
聞きたくないのに、妻の口から聞きたくなる。
男の機嫌をより伺っていたのは、妻としての「義務」からではないのかとうがった見方をしてしまう。
妻に初めて会ってからそうだ――男にとって矛盾だらけだ。
「違います!」
優しげな口調で話す妻が、珍しく声を荒げた。
「……もしかしたら、私も」
妻の瞳が悲しみに陰る。
「ただ私は、セマーム様を見て、もし好きな人がお亡くなりになったら……同じように、求めてしまうと思ったんです」
あのような醜聞を犯してでも……求めてしまう愛。
愛している者が亡くなる慟哭。
「それはとてもはしたなくて、みっともなくても……グリフ様が好きだから」
私を置いて居なくならないでと、たとえ話なのに泣きながらグリフの袖を引っ張ってささやかな主張をする妻に愛しさが募る。
みっともなくとも――愚かだろうとも。
妻は男にすがってしまう程、愛している。
ここまで聞くと――妻が言いにくそうにしていたのは最もな事だった。
妻は男が機嫌が悪い理由を、あのセマームの振る舞い、悲しみに、みっともない事だと軽蔑してその行動に同調していた事を言い出せなかったのかと言動が腑に落ちた。
実際はただの「嫉妬」という身も蓋もない事で、不機嫌になっていただけなのだが。
振る舞いのみっともなさと言えば、男もセマームには劣らない。
「私があの場を収めたかったのは、セマームさまが本当に亡き奥様を愛していらしたのが感じられて、これ以上セマームさまが醜聞を重ねるのを奥様も望んでなかったと思いますから、何とかして差し上げたかったん……」
妻が最後まで言い終わらないうちに、男は妻の手を取ると口づけを落としていく。
こういう愛情表現にいまだ慣れていない妻は、恥ずかしさで口を閉じた。
男の口付けが、段々と顔に近づき、唇に落ちそうになるころには、さすがにここがどこなのか思い出したようで男のキスを拒絶する。
そんな拒否も気にしないように腕の中に閉じ込めて。
「私があの男なら――君を離さない」
冥府まで追いかける……と耳元でささやけば、腕の中の妻からは「洒落になりません」と困ったように返事が帰って来る。
男は国一番どころか大陸随一と称えられる魔術師の父の血を濃く受け継ぐ、魔術師。
妻は本気にとってはいないが――セマームよりみっともなく、人の道に背く事をしでかせる力が男にはあった。
それは宮廷どころか、国中を揺るがすような大事になるだろう。
「君を……これほどまでに欲しい」
男がそう言いながら、キスのその先を求めるように手を動かすと、妻がささやかに抵抗する。
見つめる瞳は困ったように揺れていて。
「こ、ここではだめです……」
「じゃあ、寝室なら?」
冗談のようにそう返すと。
「………そ、そんな事聞かないで……ください、意地悪です」
と恥らい、可愛らしく非難をしてから。
しばらくの沈黙と、抵抗。
それが止んだあと、耳まで真っ赤になった妻が首を縦に振る。
「嫌なわけないじゃないですか……っ」
控えめにそう答える妻に、意外な答えが返ってきて、男は目をまん丸くする。
――妻はもう全てを男に捧げているのに。
あの青年が何をしたとしても、何も心配する事はないのに。
あの青年のように、失ってからでは全てが遅い。
大事なのは過去でもなく未来に繋がる今だ。
そう感じると、男にしては珍しく、掛け値なしの反省の言葉が素直に出た。
「すまない、意地悪だった」
「本当に、意地悪です……意地悪だけど……」
「安心します」
「!」
どうやら、妻に優しくしようと言う努力は――妻にとってはよそよそしく感じたらしい。妻は言う、王族として装っている男の事は、少し遠くに感じると。
ちょうど馬車が、男と妻の住む屋敷について止まる。
「ならこの意地悪にも安心するんだな」
「きゃ!」
馬車の扉を従者が開けたとたん、男は妻を横抱きにして馬車から降ろし、屋敷の扉をくぐった。
「ベッドの上ならいいんだろう?」
やはり往生際の悪く、じたばたと可愛らしくもがく妻を宥めながら、男は妻に愛されているから許される、という満ち足りた気分で微笑み、大事なものを抱える腕に力を込めた。