279 凶獣ランダ、暗黒の獣神
突然、現れたバロンに似た、巨大な牙を生やした黒獅子に目を剥く。慌てて周りを見渡し、七王の玉座の間ではないと気づく。
ここは俺の心の中だ。以前、バロンと会った場所に似ている。だが、どこか殺伐としていて、冷たい雰囲気が漂っていた。
じっと俺を見つめる異形の黒獅子。その目は赤く、憎悪に満ちていた。俺は用心深く様子をうかがいながら、黒獅子に問う。
「おい、お前は誰だ?」
言葉が通じるか不安だったが、異形の黒獅子は静かに口を開いた。
<私はランダ。聖獣バロンと対となる凶獣よ>
その声色に息を呑む。それは女の艶めかしさと獣の猛々しさが混ざり合った、歪な咆哮だった。
容姿は雄の獅子だが、声は女性を連想させる。一瞬混乱するが、俺の心に棲む凶獣だ。こちらの常識で測っても仕方ない。
「ランダか、分かった。俺の中にいたんだから名前ぐらい知っているよな? 一応、念のために名乗るが、ガリュウだ」
少しおどけて告げたが、ランダはぴくりとも表情を崩さず、じっと俺を見ている。やはり、その深紅の目には憎悪が宿ったままだ。
だが、その憎悪は俺だけに向けたものではない。なぜか、そう感じてしまう。この世のすべてを憎むような、激しく冷たい眼差しだった。
彼女に何があったか知らないが、急いで現実に戻らなければならない。この心の中に時間の概念があるかは分からないが、いつまでもリューハを待たせるわけにいかない。
バロンのときのように力でねじ伏せようと、拳を突き出して構えを取ろうとした――そのとき、ランダが飛びかかってきた。
咄嗟のことで構えが遅れる。しかも聖獣神化もできない。胸の奥にいるはずのバロンの気配も、さっきまでより遠い。
焦る気持ちを抑えてランダに集中する。バロンが無理なら――と、聖獣化しようとしたが、それも間に合いそうにない。
仕方なく両腕を目の前で交差し、防御の構えを取って腕の隙間から、ちらりとランダの様子を見やる。
その姿に絶句する。宙を飛び、放物線を描きながら襲いかかるランダの体が、瞬く間に巨大化していく。
俺の眼前に迫るころには、何十メートルもの巨躯へと変貌し、その巨大な口で、俺を一口で飲み込んだ。
咆哮とともに世界が反転する。目に映る景色は闇と牙だけになり、俺の意識を噛み砕いた。
◆
それは一瞬の出来事だった。リューハと対峙していたガリュウは突然、黒き四腕の獣神へと変身した。
その姿は聖獣神化した姿に似ていたが、放たれる闘気は荒々しく、憎悪に満ちていた。明らかに神気とは違う。あれはフォルテが纏う魔神気に近い。
だが、フォルテの荘厳で静かな魔神気と違い、漆黒のガリュウが放つ魔神気は禍々しく冷たい。氷のマグマのようだった。
何がきっかけで変身したのか分からないが、あれがガリュウに眠っている力の正体だろうと察する。
バロンの力を借りた聖獣神化よりも、その力は圧倒的に思えた。鋭く長い牙が生え、すべてを憎むような咆哮を上げる姿は、暗黒の獣神そのものだ。
ガリュウの闘気が冷たい熱となり、俺の頬を焼く。目を細め、リューハを見つめると、彼は拳を突き出して構えを取っていた。
さすが初代武導王とはいえ、今のガリュウを見て、本気を出さなければ勝てないと判断したようだ。
――対峙する二人の姿は対照的だった。
ガリュウは雄叫びを上げ、怒りと殺気を全方位に撒き散らしているが、リューハは冷静に前だけを見つめ、右拳を突き出していた。
緊張が伝播する。思わず、ひゅっと息を呑んだ。刹那、ガリュウが動いた。
四腕を振り上げ、一気にリューハへ突っ込む。その踏み込みは神速。一歩で間合いに入ると、リューハを目がけて連撃を放つ。
ただの正拳突きだったが、すべてが一撃必殺の威力があった。大気を裂き迫る暗黒の拳――それをじっと見つめるリューハは、初めて両手を上げて防御の構えを取った。
そして、ガリュウが放つ剛撃を掌で優しく受け止め、軌道をずらす。四つの拳を両手で流麗に捌いていく。
柔よく剛を制す――まさにそれを体現するかのように、黒き台風のごとき猛攻を、柳の枝のごとくしなやかに受け流している。
どれほどガリュウが鋭い打突を放とうが、予見していたかのように手が伸び、柔らかく受け止める。すべての拳は、リューハの体に触れることなく回避された。
まさに武導王の名に相応しい技量。六王までなら通じた攻撃が、まったく届かない。
リューハに構えこそ取らせたが、ガリュウの実力はまだ足元にも及んでいなかったようだ。それに気づけなかった俺は、二人よりも弱い。
ガリュウに加勢したいが、リューハに隙はない。そして何より、今のガリュウに近づけば、俺にも攻撃してくるだろう。
あの深紅の目には自我はなく、憎悪だけが宿っている。
何もできない自分が情けなくなり、視線を落として歯を食いしばる。そのとき、バキッと部屋中に音が響いた。
嫌な予感がして、慌てて顔を上げると、今度は右下の腕を折られ、怨嗟の咆哮を上げるガリュウの姿があった。
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