遺されたもの
「影克君、玄丈先生を呼んで来てくれ。玄哲のご隠居でもいい」
いつの間にか布団に手を入れ、脈を取っていたらしい清可が、声をかけた。輝理はそこで初めて、息子の守護人である影克が控えていたことに、気付いた。
「学校は」
「しかし‥‥」
「心配するな。お前にお咎めがないよう、私が計らってやる」
輝理を蚊帳の外に置いて、二人は話を進める。影克は、輝理を不安気に見たが、無言で道場を後にした。
「清可さん。これは自決なのね」
「そうとも言えるし、違うとも言える。守護人は、隠退したら死ぬ決まりらしい。私は本来、知る立場にないんだ。影治殿も、同じ頃に亡くなったであろう。覚えているか」
「あれは、事故だったと」
詳しくは覚えていないが、当時、そのような話を聞いた。
「そうだ。毎度同じでは芸がない、とでも申し送っているのだろう」
清可は皮肉らしく話したが、布団に手を入れたままだった。その先には、もう動かない影臣がいる。
「愛してらしたの」
輝理が尋ねると、清可は、ふ、と笑みを漏らした。布団から手を引き出す。
「一応、妻だからな。まあ、同志といったところだ」
「止めるべきだった」
責めたつもりはなかったが、清可は表情を改めた。
「輝理さん。あなたをここへ連れてきたことは、例外だ。考えてもみろ。臣が死にたくなかったら、儀式の場で異議を唱えれば済む。臣は、それをしなかった。このまま兄様に、病死の診断を出してもらう。家へ戻って、知らぬ顔をしてもらえないか。頼むから、余計なことをしないでくれ」
「ここまで来て、戻れば余人に怪しまれる」
輝理は言った。藤野家の当主として、知った以上、そのままにしてはおけなかった。しかし、既に帰らぬ人となった影臣を、世間の好奇に晒すことは望まなかった。
輝理が出かけたことは、奉公人にも告げてある。彼らの耳目も侮れない。
程なくして影克が連れ出した玄丈は、妹と共に輝理までいるのを見て、ひどく苦々しい顔をした。
「知っていたなら、止めてくれれば良かったのに。私は、こんなお役目のために医学を修めたんじゃない」
「兄様。輝理さんは、今知ったばかりだよ」
「お前だ、清可。勝手にカルテを漁りおってからに」
兄妹でやり取りを交わしながら、手際よく書類を二通作り上げた。一つは提出用、一つは保管用、それぞれ異なる死因が記されている、と見てとれた。
玄丈が影臣の遺体をそれらしく整える間に、影克が、青柳家の一同を連れてきた。
継主である檜一朗の顔は、覚悟していたそれであった。続くその妻には、知らされていなかったようである。腕に抱かれた幼い佐和には、何が起きたかわからない。
やはり藤野家当主の存在に驚く檜一朗に、偶々来合わせた、と空々しい言い訳をした後、輝理は暇乞いをした。
若くして突然の病に倒れた影臣の葬儀には、多くの人が弔問に訪れた。以前勤めた会社からは、退社から年月を経ているにも関わらず、弔電が送られてきた。
葬儀の場で、清可は妻らしく振る舞っていた。涙を見せることはなかったが、周りからは、悲しみを気丈に耐えている、と見做された。
澪は、葬儀に来なかった。
輝理は、遠くから偲んでいるのではないか、と気をつけて探してみたが、それらしい姿は見当たらなかった。
澪が見つかったのは、青柳家の墓前であった。影臣の四十九日を数える頃である。
見つけたのは、朝鍛錬で墓参りもしていた影克であった。
どこかの医者から処方された睡眠導入剤を大量に飲んだ上、寒空の下で一晩過ごしたらしい。死因は、凍死であった。
玄丈には、辛い仕事がまた増えた。彼女もまた、表向きは自宅で病死したことにされた。
遠い勤務地からは、弔電と共に、生徒から寄せ書きが届けられた。
死後、向坂家へ知らされたことには、澪は、既に病気療養のためと称し、教師の職を辞していた。そのため、澪の死は、世間に怪しまれることなく済まされた。
辞職の日付は、影臣の葬儀と同日であった。
盆の送り火を終えて、家に戻る。青柳家と藤野家の墓は、両家の近くに隣り合ってあり、毎年打ち揃って迎え送りするのであった。今年、青柳家の方は新盆である。
門を潜った先に、清可がいた。向坂家もまた、今年は新盆であった。
「夜分にすまない。明朝、早く帰るから、その前に」
「生徒は休みでも、先生はお仕事だものね」
清可の目が、下へ落ちる。
「黒柴か。暗くてよく見えなかった。大人しいな」
「輝聡が貰って来たのよ。一応、Admiralって名もつけたのだけれど」
「提督か。うちの学校でも、一番人気は軍人さんだよ‥‥何か、臣っぽいな」
「わん」
清可が輝理を見た。
「ごめんなさい。いつの間にか、それにしか返事をしなくなってしまって」
「母上に、一番懐いているんです」
輝聡が付け加えた。一同の間に、沈黙が落ちる。
清可は、ぷぷっと吹いた。
「生まれ変わりにしては、早すぎるね。大方、輝理さんがいつも餌をやっているのだろう。犬は、序列をよく見る動物だ。ご当代様、世話をしなければ、部下も離れますよ」
「心得ました」
輝聡は、真面目に頷いた。
そこで輝理は、犬の手綱を輝聡に預け、嗣宣共々後の始末を奉公人に任せて、清可を自室へ導いた。ランプと、すっかり手放せなくなった、蚊取り線香を点ける。
墓に供える線香とは異なる除虫菊の香りが、安心感をもたらした。
「夕食はどうしたの」
「済ませてきた。お館様は、もう帰ったのか」
「ええ。今朝方に」
「遠いからな」
巳喜八郎は、一日でも滞在できれば、遠方からでも帰省していた。現在の勤務先は、関西である。
座卓を挟んで向かい合う。
清可が、手提げから、折り畳まれた和紙を出した。
目が吸い寄せられた。懐かしい筆の跡は、影臣のものであった。
差し出されるまま、手に取り読み進める。
影臣の寮生活が記され、女子寮の生活がどのようであろうか、不自由はないか、などと気遣う内容であった。随分と古いものである。そして、冒頭と末尾が中途で切れているように読めた。
「これは」
「澪の荷を整理した。納戸に仕舞い込んだままであったからな」
「形見分け、かしら」
影臣の書いた手紙を手に、輝理は戸惑う。
確かに、澪の遺品ではある。しかし、そこに記されたものは、澪に宛てた影臣の面影である。輝理が貰うのは筋が違う気がする。では、他にこの紙をどう解釈したものか。
ただ、懐かしさに見せてくれただけかもしれない、と思い当たり、紙を返そうとした。
「それは、輝理さん宛の文だよ。澪が隠していた」
「あ」
そういう事も、あった。澪が輝理から離される因となった件である。
「でも、これがどうして」
輝理宛てと断じることができるのか。文面には、輝理の輝の字もない。
「わかるんだよ。私の元には、臣から澪宛てに出した手紙の束がある。寮を引き上げた時に、取り上げた。全く違う。臣も、罪なことをした。人の文を覗いた澪が、一番悪いのだが」
「そうだったの」
どのように違うのか。清可が見せない以上、輝理から求めることはできない。改めて比べることは、死者に鞭打つ行為とも思われた。
「では、私が持っていても、いいの」
清可は、形式上とはいえ、影臣の妻であった。看取りも葬儀も行っている。
「遅くなったが、返しに来た。それは、輝理さんのものだ」
そう言った清可は、実にさっぱりとした表情であった。輝理は、ありがたく受け取ることにした。
清可が帰った後、輝理は文箱を取り出した。実は、影臣からの手紙はほぼとってある。但し、数は少なかった。
最も長く離れていた寮生活のほとんどの間は、手紙のやり取りなしで過ごした。
影臣はせっせと出していたのだろうが、それを澪が密かに抜き取っていたのだ。どのくらいの手紙を受け取り損ねたのか、もはや輝理が知ることはない。
澪は、証拠隠滅とばかりに、輝理宛の手紙を片端から処分していた。寮の引き上げをした清可から、当時そのように聞いていた。この文が残っていたのは、奇跡と言っていい。
文箱から、封書の一つを取り出して、広げる。澪が休学した後、輝理が卒業するまでの半年の間に受け取ったものだ。
拝啓から始まる文は、季節の移り変わりや、身の回りの出来事に絡めて、輝理の心身を案ずることで終わっていた。他の文も同様である。改めて読み返すと、文中、やたらと輝理の名前が書かれていることに、気が付いた。
澪が、ただ一葉を持ち続けた理由が、わかるように思った。
いつの間にか、全ての手紙を読み返していた。
手紙に記された事どもは、影臣とのごく一部の思い出でしかない。一緒に居たために、書かれることのなかった記憶が、次々と甦る。
幼き日、その背に負われたこと、帰省の道中で話したこと、互いに弁当を交換したこと、泊まりがけで旅行したこと、子供達を二人がかりで寝かしつけたことや、泣く子をあやしてもらったこと。
思い出される影臣は、笑顔であった。
了
主な参考文献
東京女子高等師範学校 編「東京女子高等師範学校六十年史」東京女子高等師範学校1934
高槻幸枝 氣多恵子「絵巻『郊遊会図』および『隅田の家つと』」お茶の水地理vol.46、2006、P.76-84
塩竈市教育委員会「塩竈の歴史」東誠社 昭和50年(1975)




