懸念
カペル王国宮廷より見下ろす景色は誠に美しくあったが、アビスの宿舎も、ルイス・デ・カペシアーノ王子の気を悪くするものではない。強いて言うならば、ペアリス同様騒々しいきらいがあるが、傾斜のある大通りを荷馬車が次々に昇っていく様は見ていて飽きることは無い。アーカテニアの潮風同様、カペルの荷馬車は彼の目に優しく、耳にはやや厳しい。目下の景色を一頻り楽しんだルイス少年は、従者が召し物を抱えて待機しているのを認め、椅子から降りた。
香草を焚いた残り香が香る服を、一枚一枚丁寧に着せられる。彼は従者の成すがままに任せて、両手を広げて待機している。
「アビスは良い町だ。人の流れも多く、それに……上り坂と言うのは面白い」
貴族の召し物特有の細かな装飾を付ける作業に堪えかねて、彼は独り言のように呟いた。従者は手を止めることなく、ボタンを留め、ハンカチを手渡す。
「えぇ、アーカテニアでは見られませんか?」
「アーカテニアなら製粉場が立つ。風車が風を受けるのにちょうどいいからね。……うん、有難う」
ルイスは受け取ったハンカチを丁寧に四つ折りにして仕舞う。ポケットの縁から少しだけ覗くハンカチの先端が、控えめに獅子の王冠の印章、即ち王族の証を見せていた。
彼は最後に姿見で服を整え、短い髪の上から白色の鬘をかぶって満足げに溜息を吐いた。
「さぁ、ご挨拶にうかがおう。今日も実りのある一日でありますように」
彼は朱のマントを翻し、従者の足元を気にしながら、自室を後にする。広々とした先の見えない廊下には、規則的に燭台が取り付けられており、その間に不規則に、花や神々の姿を象った額縁や絵画、黄金の仮面などの祭礼品が掛けられている。雑多な展示品を見せびらかすように大きく開かれた窓からは日中光が差し込み、さざめく街並みを建物にいながら眺める事が出来る。
希望の町、地獄の薫り、茂るが如く林立する商館や、壮麗な大聖堂と聖遺物を納める為の幾つもの教会、連なる煉瓦造りの家……アビスと言う町は篤信家とブルジョワジーたちの町で、いつも楽しみと信仰、野望に満ちていた。
ルイスは一旦従者に水を持ってくるように指示を出し、窓の向こうを眺める。機嫌よさげな鼻歌で傾斜のある大通りで馬車が渋滞を起こしている。馬が重そうに唇を捲り、黄ばんだ歯を見せている。その隙間を縫うように歩く人々は、服の色も様々で、流行のモードに身を包んでいる事も多いが、ルイス自身のように旧来の豪華な服装で威張り散らしながら歩く者もいる。目を細め、慈しむように眺めると、ルイスは益々自分がヒトの営みの上に立つという事実を考えずにはいられなかった。
‐民の安寧は闘争の中にはない。しかし、アーカテニアは繁栄の為に自由を求める人々と戦わなければならないだろう‐
憂いに満たされた心が自然と眉尻を下げさせる。アーカテニア王国の新航路も使われて久しく、銀鉱山も金鉱山もかの王国の手にあるにも拘らず、アーカテニアの財政は傾きかけている。彼は商人ではないためその理由を知る由もないが、アビスのように賑わう町がいくつもありながら、どうしても流血でしか洗い流せない問題‐原住民達の度重なる反乱‐に徐々に力を損なっている事は理解していた。先代から引き継いだ国土が安寧でいられるためには、彼らとの和解は不可避である。しかし、アーカテニアを今のまま発展させるためには、彼らからの搾取は避けようがない。彼の脳内にある憂いは、日に日に高まってきており、父フェルナンドの統治を果たして維持できるのかと言う不安が込み上げてくる。
彼は突然耐え切れなくなり、窓から顔を逸らした。
「ルイス様、お待たせいたしました」
「ん、あぁ、有難う……」
ルイスは心配そうに顔色を窺う従者に笑顔を作り、水差しを受け取る。ほんのひと往復のうちに湯が立つ時期を越え、畑も葡萄色を益々映えさせる季節である。冷えた水の感触も以前ほどありがたくなくなっている。それでも銀の水差しに結露が出来ており、そこに映ったルイスの顔は歪んで見えた。
彼は一杯を飲み干す。満足げな溜息の後で口周りを拭い、従者に水差しを渡して再び歩き始めた。一際目立つピンクの建物、傑出した美術品に満たされたかの建物、ダンドロ銀行に、カペル王国の借金を踏み倒しに向かう為に。
「王の仕事とは、まこと、難儀なものだ……」
彼の独り言に応える者もない。ここには王族は彼しかいないのだから。




