逃げの極意
昼開け早々、既に集まった人々の中には、アグルダインとは異なる金属の相場に関する話をする者もあった。流石に専門用語塗れで私には理解が難しかったが、彼らが異なる金属について語っている事が、私の責任の重さを物語っているらしかった。
初の市場、初の商い。小僧たちよりも遥かに見劣りする自分であっても出来るのだと、心臓の高鳴りに言い聞かせる。
開場のベルが鳴り、カーテンが開かれ、先刻の相場を記した書蝋板が現れる。市場の職員がインク壺に入れられたペンを静かに手に取ると、集まった客人達を一頻り見回した。
商人や、貴族の従者、それに小銭稼ぎの子供に、この商いに全てを賭けんとするみすぼらしい服装の人々が、一段高い取引場の上から一望できたに違いない。彼は片眉を持ち上げ、銀色に磨かれた小さな予鈴の上に手をかける。
買い手市場が声を上げて数分後、終に運命を分けるベルがチン、と音を立てた。
職員が手を持ち上げるより先に、売りの声が叫ばれる。金属の価格は数分前に買い取られたその分だけ微増していた。
(ここで売る……?商人らしい人はそうしている……!)
売価は徐々に上っていく。まだ耐えられる?動悸が速くなる。視線が書蝋板に釘付けになる。多くの怒号のような叫び声を聞いてもなお、売価はまだ、まだ伸びている。
落ち着け、落ち着け。フーケに言われたことを、唯実行すればいい。そうすれば、最悪損をすることは無い。それだけでも賭けに「勝った」と言える。
フーケからの私への助言、それは、『危なくなる前に逃げる』と言うものだった。より具体的に言えば、『危なくなる前』とは、売り手と買い手の数が均衡状態を保つ一瞬の「間」の事を指す。アグルダイン自体の価格上昇の鈍化を考えると、それは近いうちに必ず訪れる、とも。フーケが私の旅立つ日をなるべく早くするように促したのは、この均衡点は上昇・下降と比べて非常に短いためである。一瞬だけ売買の量が均等になっても、再び伸び続ける事もある。しかし、私のような初心者は、取りあえずこの「天井」まで粘って、今までよりも価格の伸びが鈍化したその瞬間に売り抜ける方が無難だ、と言うのだ。
だからまずは、冷静に書蝋板を見つめる。深呼吸をし、いつでも声を上げられるようにする。
(大丈夫、大丈夫。微増している。まだ、行ける……)
声を気にしないで。ただ数字だけを見つめた。雑音に塗れた周辺で、駆け回る小さな足音。貨幣と紙片や紙袋が交換される。ペンは滞りなく記録を残し続けている。
やがて、市場は更なる売りの声に飲み込まれる。一人、二人と、安物の上衣に身を包んだ男がその場を離れる。その後ろをついて歩くのは子供や奴隷で、時には帳簿を持つ者もある。
そんな怒号の中、ほんの一瞬、流れるペンが止まった。
「売りだ!売り!」
今しかない、そう思った。この地獄から逃れたい、とも。男性を中心とした市場に、私の声はよく通った。それと同時に、ギヨームが巨体で華奢な子供達を掻き分ける。手を掴まれれば振りほどき、屈強な肉体で無理矢理外に押し出した。流れるような売りの宣言、戸惑う明らかな初心者たち。朝の私と同じように、強く証券を握っているだけの人もあった。
ギヨームは遂に手続き所に辿り着いた。市場の真横に天秤と重りと、硬貨と証券とが置かれているそこでは、真面目そうな職員が無表情で手続きを行っていた。価格は横ばいだが、若干増加の傾向がある。まだ耐えられたか。ギヨームは手続きを終え、対価の証券を大切に仕舞う。腹と頭が一つ突き出た彼の動きをゆっくりと追いかけ、再び伸び始めたアグルダインの価格に失敗と名残惜しさを感じた矢先、今度は買い手市場の方に動きがあった。
声が途切れたのだ。
売りの声はまだ続いている。その瞬間から、アグルダインの価格は少しずつ、減少し始めた。焦って人波を掻き分ける姿が現れる。ギヨームは静かに私の傍に戻り、書蝋板を見て安堵の溜息を吐いた。
「うまくいったようですね」
「ダンドロ銀行に向かいましょう。直ぐに処理をしないと」
私は暴徒のように動き回る人の波に背を向け、大通りを目指して歩き始めた。
長い影が市場に向けて夕暮れの市場に伸びている。混乱する人々の目の前で、市場終了のベルが、弱々しく鳴り響いた。




