影の采配1
もしこの世に今もなお主がおわしますならば、きっとこう仰せられたでしょう。「ブリュージュは誠複雑怪奇、似た者同士が集まる大釜の如く熱狂しておる」と。賑やかしい謝肉祭に集う仮面の美男美女は、舞踏会では踊り狂い、真夏の夜半を飲食に耽る。私はこの雰囲気が一等苦手であって、このような場に行くならば領土で堕胎薬を作っておった方がずっと楽である。そう言う人間に限って外務官を任じられるのだから、世の中は奇妙なものだ。
華やかな町に溢れる薔薇の匂いほど鼻につくものはない。甘ったるい香りを身にまとう侍女とそれを侍らせる貴族達は、この町この祭りの風物詩である。エストーラで言えばガーベラの花こそ相応しいのであって、鮮血の甘い香りはブリュージュにこそ相応しい。とすれば、やはりブリュージュはエストーラとは別の気風で溢れているのだ。
建造物の隙間を覗き込むにつれて人々の路地裏へ対する畏怖の念が感じられる。閑散とした様は、施しを求める者達が群れ成し歓声に紛れる事を理解させる。
大市場の鐘は激しく二回たたかれ、歓楽の都に焼き菓子の匂いが漂い出していた。
「どれ、君。今日は良い情報が手に入ったかな?」
私は後ろを付き纏う町娘に向けて囁いた。彼女は警戒心をむき出しにして私から一歩距離を取る。呆れて思わず息を漏らすと、腰にバスケットで隠していたナイフを帯びていた。
「おや、意外だ。当てずっぽうも捨てたものではないね」
ブリュージュのカーニヴァルほど遊撃隊がその力を発揮する時もない。彼女は私の動向を探る為に町に紛れたその一員であろう。
もし、この場に私の主人がおわすならばもう少し穏便にあしらう所であったが、このうら若き町娘とて私に付き纏う事で知り得た情報の対価を求められると覚悟しているだろう。その証拠に、バスケットで再び隠した腰に手を当てている。
勿論、その手でナイフを抜く事は出来ない。この世界はそれほど単純ではないから。
「君が私に付き纏うだけのメリットがあったかは大いに疑問ではあるが、少しばかり情報料を頂くとしよう」
「情報料……?」
私は人々の雑踏に紛れて路地裏へと向かう。乞食も掏り師も今だけはない仄暗い町の隙間に、町娘と貴人らしい人物だけが残された。
「良くついてきてくださいましたね、貴女の勇気に拍手を」
そして蛮勇に最大の喝采を。この場で私が強引に服を剥ぎ取る事も出来たろうに。もっとも、彼女は観念したのか髪を後ろで結び、バスケットを床に下ろした。露わになった腰帯に視線を送り、やはり息を吐く。私は無意識に親指を回しながら、情報料について思考を巡らせていた。
「例えば、私の行動を観察する事についての対価と致しましては、そのバスケットの中身……。それについてご確認させていただきたい」
さて……。どうかな?町娘は静かにバスケットを手に持ち、その上に乗せた綿布を取った。彼女はそれを傾けもせず、私を睨み付ける。夏のうだる暑さに、路地裏の隙間風が心地よい。
しばらく様子を窺っていたが特別動く気もない様子で、私は一歩ずつ距離を縮めていく。
軍隊でないとはいえ、スパイとは例外なく逃亡用の技術を持っているものだ。彼女の場合、恐らく暗殺の技術を持っているであろう。腰帯のナイフが明らかに素人のそれとは異なっている。相手の視線の位置を把握するためにじっくりと顔色を窺いながら近づくと、なるほど白い肌も滑らかで錦糸の如く、また髪はふくよかで綿花の如く、ほのかな香りは小麦のパンを彷彿とさせる。青い瞳はルビーのごと、怯えるでもなく勇ましく、覚悟を持つ同志としても好感が持てる。それだけに、敬意を以て、接さねばならないと感じた。
「……!?」
バスケットを覗き込む直前に指を弾く。同時に彼女の驚愕した表情。私はゆっくりとバスケットの中身を覗き込み、曝け出された機器を観察する。
筒状の棒に少々難解な文字が複雑に書き込まれている。それを囲い込むようにして描かれた楕円はきっちりと、深く掘り込まれ、消えないように配慮されていた。
ふむ……。法陣術か。恐らく盗聴用の機器と思われる。私はバスケットの中身を一頻り漁ると、そのまま彼女の背後へと素通りした。
虚しい警戒の体制を取る彼女は、背後から聞こえた指を弾く音に振り返る。
煉瓦と煉瓦との隙間、迫りくる赤い壁に挟まれた、仄暗い道には私が立つ。再び指を組み、親指を回し始めると、彼女はバスケットの中身を慌てて確認した。
「まぁ、期待外れではありましたが。主人にお伝えください。今宵は満月の夜でしょうとね」
今日の夜はまだ月が欠けるとは、天文学者の意見である。
私は鼻歌を歌いながら路地裏を抜ける。
市場の大鐘楼が沈黙したまま人波を見下ろす。彼からすれば、この町はきっと黄色く映る事が多いであろう。
雑踏に紛れてしまえば、彼女の姿は認められなかった。




