紫紺の章 三 湖詠は玲凛の神様です
記憶喪失の少年に緋雲と名前をつけました。
龍の壷とは、洞穴の奥、峰の頂の真下にある地底湖を言う。
頂から吹き抜けになっており、月が中天を通る時、月影を湖面に写し出す。
古くは湖自体が信仰の対象だった時代もあったという。
光苔に照らされた洞穴内を歩きながら、玲凛は緋雲に説明した。
「倒れてた場所に行けば、何か思い出せるかもしれないでしょ」
狭い路が終わり、急に広大な空間が現れた。
小さな里が一つ入ってしまいそうな広大な空洞。
敷き詰められた発光植物が、二人を中心に光の弧を描く。
床にも、壁にも至る所に、様々な植物が生え、どれもが金緑色に発光して、周囲を淡い緑色に染め上げていた。
中心には地底湖。
澄んだ水は凪ぎ、ぼんやりと青緑色に光っている。
仰ぎ見ると、円蓋には大きな穴。
遠くの宙に浮かぶ星影の瞬きが、淡く光る湖面に映し出されていた。
「綺麗だ……」
緋雲は言葉を無くして、眼前の幻想的な光景を見詰めていた。
玲凛は瞳をくるりと回すと、得意げに説明した。
「今日は三日月だからこの程度だけど、満月の夜なんて、それはもう明るくて、眩しいくらいなのよ」
緋雲は佇んだまま、無言で頷いた。
阿雪が脇をすり抜け、小走りに湖へと駆け出す。
阿雪が光苔を踏む度に、細かい光の粒子が宙に舞った。
「綺麗です。どうして光ってるんでしょう」
物珍しそうに周囲を伺う緋雲に、玲凛は指を突きつける。
「敬語、また使ってる。止めてって言ったでしょ」
あ、と緋雲を両手で口を覆い、「すみません」と決まり悪げに謝った。
かと思うと、またすぐに周囲の風景に興味を移した。
「花が咲いてるのもあるんだね。可愛い花だなぁ」
子犬のような無邪気さに、苦笑する。
「あれは蒲公影。
蒲公英に似てるでしょ。
蒲公英が太陽の光で育つように、月の光で育つの。
花だけじゃなくて、綿毛も光るのよ。
光りながら飛んでいく様は本当に幻想的なのよ」
玲凛は緋雲の手を引いて、湖の畔に誘った。
「湖詠の話では、この辺りに倒れていたそうよ」
「こんな綺麗な場所、一度見たら忘れる筈ないんだけどな」
人事のように不思議がる。
「やっぱり思い出せない?」
緋雲は残念そうに頷いた。
「邑に戻ったら情報を集めてみるわね」
幸い外見にかなり特徴がある。
尋ね人としては優秀だ。
明るく笑って見上げると、緋雲が不思議そうな顔をした。
「邑に帰るって、玲凛はここに住んでるんじゃないの」
ああ、と笑って玲凛は湖畔に腰を下ろす。
阿雪が寄ってきて膝の上に頭を乗せた。
片手で阿雪をなで、もう一方の手で緋雲にも座るように促す。
「私は近くの固河という邑で商家に住み込みで働いているのよ」
そうなんだ、と少し寂しそうに呟く。
「家族も固河にいるの?」
「家族はいないわ。両親は私が六つの時に殺されたから」
突然の告白に紅い目が見開かれた。
「凌州の小作農だったんだけどね。長雨で収穫が思うように行かなかったの。
税に満たなくて、二人とも斬首されちゃった」
「そんな。税が足りないくらいで」
緋雲の異議に玲凛はくつりと笑った。
「緋雲はきっと良家の人なのね。
税を怠れば斬首。凌州じゃ常識よ。
王のお膝元なんだもの」
改めて観察すると、確かに立ち居振る舞いに品を感じさせる。
どこか幼さの残る口調や仕草も、育ちの良さからくるのかもしれない。
「私も緋雲と同じ。ここで行き倒れていたのを湖詠に拾われたの」
緋雲は再び瞠目した。掌を額に当て嘆く。
「なんかもう、玲凛の話は刺激が強すぎるよ。眩暈がする」
―――――――――――――――――――――――
湖詠に拾われた日は満月だった。
肩を揺さぶられ目を開けると、白髪の男の不機嫌そうな顔があった。
七歳だった玲凛は、それを神様だと思った。
餓えて細り、力も入らぬ手で縋り付いて泣いた。
お願いします。お父さんとお母さんを生き返らせて下さい。
何でもします。掃除だってお馬の世話だって、何だってできます。
裁縫は少し苦手だけど頑張ってやります。畑仕事だってできます。
お父さん達の分の年貢も私が働いて納めますから。お願いします。お願いします。
後に湖詠から
「煩くて、後一歩で頭から湖に投げ込むところだった」
と評されたのだが、とにかくその時は必死だった。
縋り付く力が無くなっても、頭を湖詠の足に擦り付け、必死に訴えた。
不機嫌な顔をした神様は、両親を生き返らせてはくれなかったが、玲凛に温かい臥榻と食事をくれ、学問を教えてくれた。
そんな日々の中で、玲凛は傷ついた天狗の子供を拾い、阿雪と名づけて育てた。
玲凛の心の傷が癒えたのは、阿雪の力に負うところが大きい。
玲凛が十歳になったとき、湖詠の世話で今の商家に引き取られた。
その時も、玲凛は泣いて縋った。
離れたくない。
傍に置いてくれ。
嫌いにならないで、と。
泣きじゃくる玲凛に、湖詠は告げた。
「お前は私のように隠遁するには幼い。
世俗の暮らしで得られるものもあるだろう。
それは決して、登葆山にはないものだ」と。
その時は湖詠の言葉の意味が分からなかった。
けれど今は玲凛なりの理解をしていた。
きっと湖詠は「苦労しなさい」と言いたかったのだ、と。
―――――――――――――――――
「だから今は月の五日のお休みだけ此処に来て、勉強しているの」
次に此処にくるのは十日後かな。
それまでには何か思い出していると良いわね」
記憶が戻っても、黙っていなくなったりしないでよ、と釘を指す。
「しないよ。ちゃんと待ってる。
僕が固河に会いに行っても良いしね」
「それは、ちょっと危険かも。
森を通るし、街道も今は一人歩きは危険だわ」
緋雲はぷうっと頬を膨らました。
「玲凛は一人で歩いてるんでしょ。
僕は男だし、玲凛より年上だよ、多分」
玲凛は破顔すると、膝の上で寛ぐ阿雪の赤い毛を撫でた。
「違うの。私には阿雪がいるから」
「阿雪?」
「そう、阿雪は天狗という妖獣なの。
人を喰わない温厚な妖獣。
天狗は魔を退けるみたいで、阿雪といると妖獣に襲われないのよ」
「魔以導和ってやつ?」
「正確には違うけど、そんな感じ。よく知ってるわね」
玲凛が感心して肯定した。
同時に、間違いなく良家の息子だと確信する。
教養が高い。
―――妖獣を使って妖獣を抑える。
即ち、魔を以って和へと導く。
妖獣を使役出来るのは王だけだが、姉妹同然に育った阿雪は、図らずも魔以導和の役割を果たしていた。
玲凛にとって湖詠は神様みたいです。