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翡翠の章 九 熊退治

蚩尤には恋人がいたみたいです。

 宇延はあれから暇を見つけては荊から平雍に訪れるようになった。


 耿晨に護られっぱなしだったのが、余程悔しかったのだろう。

 朝稽古に参加しては何度も耿晨に挑戦してきた。

 素手対刀でも適わないと分かってからは、邑人に混じって鍛錬に勤しんでいる。


 拓達の育てた羊歯の植物は、崇斎の計らいで荊郷全土にも広がっているらしい。


 また、荊郷の最近の動きとしては、自警団を組織する邑が増えてきたということだった。

 尉士の在駐しない小規模の邑が、平雍を手本として簡素ながら自警を始めた。

 戦闘の基礎を教えて欲しいと、崇斎からの直接の要請が来て、耿晨は周辺の邑に出掛ける機会も増えた。


 なんとなくだが崇斎は、協力要請という形をとりながら、耿晨に政を教授しているのではないか、と感じていた。


 久しぶりの休日。


 耿晨は外隔の上に座り、眼下に広がる蓮薯の田を見下ろしていた。

 足をぶらつかせながら果実を齧る。


 今宵は望月。


 遮られることのない月の光は、静かに煌々と田畑を照らしている。


 蓮薯の収穫にはさらに一月ほどかかるのだと、拓達が言っていた。

 今が盛りと咲き誇る蓮薯の花は、月光を浴びて水田を仄かに白く輝かせている。


 遠くで、田を耕す農夫の鍬の音。

 風に揺らめく白い光の波を見つつ、耿晨は大きく伸びをした。


 汗水垂らして田畑を耕し、大地の恵みに感謝しつつ、一日を終える。

 そんな何気ない日々の積み重ねが、人生なのかもしれない。


 ―――――――――片手には一枚の手配書があった。


 先日崇斎から送られてきたものだ。


 ―――――――――王と目されている人物がそこには記されていた。


 手配書を送りつけてきた崇斎の真意は分からない。

 けれど、何かを託されている気がした。


 耿晨は手配書を懐に突っ込むと、残った果実を口の中に放り込んだ。


「あぁ。今日も平和だ」


 耿晨はもう一度大きく伸びをした。


 その時、―――――――――遠くで鳴り子が響いた。


 鳴り子は――拓達の田の方角だ。


 飛び降りると、耿晨は外隔を駆け下りた。

 邑門を走り抜ける。全速力で、水田の畦道を駆けた。


 ―――――――――熊を取り囲むように農夫が鍬を抱えていた。


 熊の正面に拓達が大刀を構えている姿が見えた。


 熊が大きく振りかぶった前肢を下ろした。


 拓達が刀を弾かれ、たたらを踏む。


 周囲の農夫も数歩後ずさる。

 熊の二撃目をよけた拓達が転がるすんでで踏みとどまる。


「背を見せるなっ。そのまま後ろに下がれっ」


 叫びながら、高く跳躍し、降りざまに刀を閃かせた。

 綺麗な弧を描いた斬撃が、熊の前肢を掠めた。


 傷を負った獣が怒りの咆哮を吐き、立ち上がる。


 立ち上がった姿は、ゆうに耿晨の身の丈の倍はある。

 獰猛な雄叫びに周囲を取り囲む農夫がたじろぐ。


「怯むなっ」


 凛とした耿晨の恫喝が響く。


「いいか、熊は体躯も大きく、間合いも広い。その上動きが俊敏だ」


 熊の攻撃をよけながら、声高く説明する。

 怯みかけていた面々が、武器を構えなおし、耿晨の動きを頭に叩き込むように真剣な眼差し向ける。


「注意しなければいけないのはこの爪だ。一撃で大木をも薙ぎ倒す」


 繰り出される攻撃を、最小限の動きで避けながら、息を乱すこともなく解説する。

 耿晨が解説する為にわざと勝負を長引かせているのは明らかだった。


「爪の攻撃は早い。当たれば確実に死ぬ。

 この攻撃が来たら、とにかく避けることだけを考えるんだ。

 すぐに二撃目が来る。さっきのようたたらを踏んでいては駄目だ。

 体勢を崩さず、視線を外さず、とにかく避けろ。

 ただ、弱点もある。前への動きは早いが、後ろへの動きが緩慢だ。

 避けつつ脇から後ろに回り込むと隙が生じる」


 右前肢の攻撃を、皮一枚で避けると地面を踏みしめ、肢の下がっている右側から回り込み、すれ違いざまに刀を振り切る。


「これは有効だが、少し訓練が必要だ。

 難しいようなら正面の者が注意を引き付けている間に、後ろから攻撃するという手もある」


 熊が振り向き体勢を整えたと同時に、耿晨は大きく跳躍し、熊の肩を踏み台に、巨体を飛び越え、宙で身体を捻りながら背に一線を浴びせる。


 血飛沫を上げながら熊が倒れ、四つ足を付いた。

 周囲から歓声があがる。

 熊は低く呻りながらのっそりと耿晨へ振り返った。


「四つ足を付いている状態は、爪の攻撃は下段のみ。

 しかも間合いが短い。

 前方への突進の速度が上がるので注意が必要だが、攻撃は直線的だ。

 避けつつ、刀を走らせれば、勝手に傷を負ってくれる」


 土埃を上げての突進を交わしながら、刀に左手を沿えて一気に振り切る。

 熊が勢いよく横倒しになった。


「弓を持っている者はいるか」


 耿晨の呼び掛けに数名の声が答えた。


「こいつの後ろに回れ。もう一度立たせる。矢を番えて待て」


 邑人の緊張が一気に高まる。

 息を呑みながらぎこちない仕草で弓を番えている。

 目の端でその姿を見た耿晨は、にっと笑った。


「私に当てるなよ」


「他の者は矢が当たらない位置に移動を。ゆっくりとだぞ」


 熊がのっそりと動く、片足を引きずる黒い塊を一同が固唾を飲んで見守る。


 手負いの獣は目を血走らせながら、緩慢な動きで立ち上がった。

 空気を振るわせるような大きな咆哮が響き渡った。


「今だ、打て」


 一斉に八本の矢が突き刺さった。

 熊が仰け反った瞬間、耿晨の刃が美しい弧を描いた。


 喉を裂かれた熊がよろめく。

 抜きざま返す刃で後ろ首に深く刀を突き立て、そのまま地面へと叩き付けた。


 地面が揺れる鈍い音が振動と伴に響き、余韻を残して消えた。


 静まり返った中、耿晨は熊の背の上でゆっくりと立ち上がった。


 刀を抜き、一振り露を払って流れるような動作で鞘に納めた。


「主力は弓だな。

 とどめは刀で刺す必要はあるが、理想はその前までに、相手を弓で満身創痍にしておくことだ。

 丁度今のように」


 そう言うと、邑人に向き直り大きく笑った。


「初めてにしては上出来だ。皆良くやった。今日は熊鍋だ」


 歓声が沸いた。


 握り締めていた鍬や武器を宙に放って飛び上がった。


「それにしても」


 耿晨は上着の裂けた上腕を押さえて、顔を顰めた。


「私に当てるなと言ったろう」


 歓声の中に笑い声と、慌てて平伏する声が混ざった。

みんなで熊を退治しました。

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