第2話 昭和61年、夏
第3部
昭和61年(1986年)の、七月。
エルドラドが封印されてから、三か月が過ぎた。
涼太の日曜は、変わっていた。
台に座る時間は短くなり、台の後ろに立つ時間が、長くなった。
他の客の打ち方を、後ろから眺める。
ボタンを押してから、リールが止まるまでの、ごく小さな間。
図柄の並びが、どこで、どう滑るか。
ノートに、鉛筆で、書き留める。
中身が読めないなら、外から見る。
その言葉だけが、涼太を、動かしていた。
その日、ホールの壁に、新しい貼り紙が出ていた。
〈打ち方を、意図的に変える行為は、ご遠慮ください 店長〉
浅田の字だった。
その下に、小さく、朱の判が押されている。
「変則打ち、だとよ」
辰さんが、煙草をくわえたまま、貼り紙を指で弾いた。
「店も、必死だな。紙を売ってた連中には、とうに、お引き取り願ったってのに」
「……それだけ、技術が、怖いんでしょう」
涼太が呟くと、辰さんは、ふっと笑った。
「兄ちゃん、いい目をしてる。ところで、会わせたい男がいる」
ホールの隅の、喫煙所。
そこに、痩せた男が、立っていた。三十代の半ば。よれたシャツに、使い込んだカメラ。
「町田です」
男は、名刺を差し出した。
〈月刊 回胴通信 編集部 町田〉
「回胴、通信」
「パチスロの、打ち手向けの、小さな雑誌です。部数は、まだ、細々ですが」
町田は、涼太の鞄に、目を向けた。
「辰さんに聞きました。台の後ろで、ずっと、ノートを取っている青年がいる、と」
「……何でもありません」
「見せていただけませんか。台の癖の、記録でしょう」
涼太は、鞄を、少し引き寄せた。
「これは、人に、見せるものじゃありません」
町田は、驚いた様子もなく、うなずいた。
「そうでしょう。ただ、うちは、ゴトは載せません。ホールが許す範囲の、技術の話しか、扱わない。そこだけは、お約束します」
「どうして、僕に」
「台の癖は、一人の目では、分からないからです」
町田は、静かに言った。
「千人の目が、要る。あなたは、その千人の中の、一人になれる」
涼太は、答えなかった。
その沈黙を、町田は、断りとは受け取らなかった。
「一度、編集部へ、いらっしゃってください。見るだけで、結構です」
翌週の水曜、夕方。
編集部は、駅前の麻雀屋の、二階にあった。
階段を上がると、紙の匂いがした。
狭い部屋に、机が四つ。
壁際には、輪ゴムで束ねられた葉書が、山のように積まれている。
「編集長の、大河内です」
奥の机から、五十がらみの男が、立ち上がった。
眼鏡の奥の目が、細く、鋭い。
「町田から、聞いている」
「河田です」
「葉書を、見てみるか」
大河内が、束の一つを、涼太に渡した。
読者からの、葉書だった。
全国の、ホールの名前。機種名。
手書きの、小さな文字。
〈エルドラドが、急に、出なくなった。何が変わったのか〉
〈同じ機種なのに、うちの店と、隣の店で、出方が違う〉
〈小役が、取りこぼしやすい台と、そうでない台がある〉
涼太は、一枚、また一枚と、読んだ。
ばらばらに見えた、一枚一枚の葉書が、重なっていく。
自分の目では、見えなかった、広い景色。
「台の癖は、一人の目では、分からん」
大河内が、言った。
「千人の目が、要る。うちの仕事は、その千人を、つなぐことだ」
「……台を、操る方法を、書くことも」
「書かん」
大河内は、即座に、答えた。
「ゴトは、書かん。ホールが禁じていることも、書かん。それが、うちの、筋だ」
涼太は、大河内の目を、見た。
迷いは、なかった。
「ただ、技術は、書く。打ち手が、機械を知るための、正しい技術だ」
大河内は、机の上の、ペンを取った。
「あんたの、観察の目を、貸してもらいたい。名前は、出さんでいい。ペンネームでも、結構だ」
涼太は、葉書の山を、見つめた。
中身が読めない世界で、外から見るために。
いま、この千人の目が、必要だった。
涼太は、顔を上げた。
「……名前は、数、でお願いします」
「数、か」
「はい。かず、と読んでください」
大河内は、小さく笑った。
「いい名前だ」
その夜。
涼太は、アパートの四畳半で、葉書の写しを、机に並べた。
町田が、貸してくれた、何十枚かの写しだった。
エルドラドの葉書が、何枚か、あった。
〈封印のあと、急に出なくなった〉
涼太は、その一枚を、じっと見つめた。
自分だけが、知っている、理由。
その理由を、誰にも、言えない。
だが、これから、書く。
言葉を選び、線を引きながら。
書いていいことと、書いてはいけないことの、境目を、探りながら。
鉛筆の先が、ノートの上で、止まった。
涼太は、ノートの余白に、その一字を、書いた。
数。
11/5 8:10 に投稿します。
【 再会 昭和61年、秋 】
昭和61年(1986年)の秋。
時代は急速に変わりつつあった。
前年の昭和60年に施行された新風営法によって、
保通協(保安電子通信技術協会)の厳しい型式試験をクリアした
「1号機」と呼ばれる統一規格のパチスロ機が、
全国のホールへ一斉に導入され始めていたのだ。
仕事帰り、涼太は
駅前のアーケード街に新しくオープンしたパチスロ専門店
『モンテカルロ』の自動ドアをくぐった。
店内には有線放送から流れる歌謡曲のアップテンポなボーカルが
大音量で響き渡り、重苦しい煙草の煙と、
メダルを洗浄する機械油の匂いが立ち込めていた。
シマにずらりと並んでいるのは、大手メーカー・東洋電子が送り出した
1号機の話題作『キングダイス』だ。
この時代の1号機には、まだ
メダルを50枚まで機械内部に貯留できる「クレジット機能」が存在しない。
レバーを叩くたび、下皿から手づかみでメダルを3枚すくい上げ、
コイン投入口へカチ、カチ、カチと1枚ずつ手で滑り込ませるのが
絶対の作法だった。
空き台を探してシマの通路を歩いていた涼太の背中に、
聞き覚えのある甲高い声が飛んだ。
「お前……河田じゃねえか! 涼太だろ!?」
振り返ると、そこに立っていたのは高校時代の同級生、井上博康だった。
制服を着ていた頃の痩せ型だった面影はあるものの、
どこかくたびれたトレーナーの袖を捲り上げ、
右手にはメダルの油と黒ずみがべっとりと付着していた。
「井上か……久しぶりだな。こんなところで何やってんだよ」
「何って、見れば分かるだろ! キングダイスだよ、キングダイス!」
井上は目を輝かせ、興奮冷めやらぬ様子で涼太の肩をバンバンと叩いた。
「お前も打ちに来たのか?
いやあ、奇遇だな! 俺なんか今週これで4日目だぜ。
地元の整備工場で働き始めたんだが、
定時になった瞬間にタイムカード押してここに飛んできてんだ」
井上はとにかくパチスロが楽しくて堪らないといった様子で、
自分の台の下皿に溜まった数枚のメダルを愛おしそうに撫で回した。
「なあ涼太、お前『キングダイス』の攻略法って知ってるか?
街の噂じゃな、右リールの中段にダイス柄が止まった時に、
レバーを叩くタイミングをコンマ数秒遅らせると
ボーナスが連チャンするらしいんだよ! 今それ試してるところなんだ!」
井上は誇らしげに語るが、
それは当時、雑誌の嘘情報や打ち手たちの妄想から生まれた典型的な
ガセ攻略法だった。
「井上、レバー叩くタイミングで乱数は変わらねえよ。
内部のマイコンが毎秒何兆回ってクロックで動いてると思ってんだ。
人間の手でコンマ数秒を狙ったところで意味がない」
涼太が呆れ気味に事実を告げると、井上は
「かーっ! お前は相変わらず頭でっかちだな!」と大笑いした。
「そんな細かい理屈なんかどうでもいいんだよ!
レバーをガチャンと引いて、ボタンをポン、ポン、ポンと押してよ、
リールがズバッと揃った瞬間のあのファンファーレ!
あれを聞いたら仕事の疲れなんか一発で吹き飛ぶね!
理由なんかどうだっていい、打ってりゃ最高に満足なんだからよ!」
井上はそう言い捨てると、再び自分の台に向き直り、
慣れた手つきでメダルを3枚手投入した。
カチ、カチ、カチ。
ガチャンと金属製の重いレバーを引き下げる。
リールが「ピロピロピロ……」という
1号機特有の電子音とともに高速回転を始める。
井上は目を見開き、息を詰めてストップボタンを叩いた。
ポン、ポン、ポン。
左リールに赤7、中リールにダイス、右リールに赤7が斜めに停止する。
山型の出目――『キングダイス』を象徴する、
息をのむような美しい「リーチ目」だった。
「うおおおっ! 来た! 来たぞ涼太、見ろよ! リーチ目だ!」
井上は躍り上がって叫んだ。
次のゲーム、メダルを3枚投入してレバーを叩き、
中央に赤7を一直線に揃えてみせる。
耳をつんざくようなファンファーレが頭上で鳴り響き、
下皿へ「ジャラジャラジャラ!」と音を立ててメダルが吐き出された。
無邪気に喜ぶ井上の横顔を見ながら、涼太は静かに息を吐いた。
(井上は、この機械が吐き出す熱狂と興奮そのものを楽しんでいる……)
対して自分は、リールが止まるたびに「テーブル制御で何コマ滑ったか」「内部の乱数テーブルのどこを参照したか」ばかりを考えている。
だが、パチスロという機械の本質は、
井上が見せるこの理屈抜きの熱狂にこそあるのかもしれない。
1号機という新しい時代の波が、職人としての涼太と、
一人の客としての井上の目の前で、音を立てて大きくうねり始めていた。




