第5話 最後の扉
重い鉄扉が開いた。
ギギギギギ……。
耳障りな音が施設中に響く。
玲たちは動かなかった。
誰も。
すぐには。
動けなかった。
長い時間をこの場所で過ごした。
多くの死を見た。
仲間を失った。
裏切りを見た。
そして。
藤原奏も死んだ。
全てが終わったはずだった。
それなのに。
心の中の違和感だけは消えない。
「終わった……んだよな」
黒川が呟く。
誰も答えない。
館内放送だけが響いている。
『ゲーム終了』
『生存者の解放を開始します』
機械的な声。
感情はない。
だが。
確かに終わりを告げている。
美咲が玲を見る。
「行こう」
小さな声だった。
玲は頷く。
四人は歩き始める。
出口へ。
自由へ。
生還へ。
長い通路だった。
来た時には気づかなかった。
いや。
気づく余裕などなかった。
コンクリートの壁。
天井の配線。
無数の監視カメラ。
どこまでも続く白い照明。
まるで刑務所のようだった。
「本当に外に出られるのかな」
美咲が不安そうに言う。
玲も同じ気持ちだった。
ここまで来ると。
何も信用できない。
やがて。
巨大なシャッターが見えてきた。
最後の扉。
その向こうが外。
そう考えるだけで胸が苦しくなる。
黒川が前へ出た。
「開けるぞ」
誰も止めなかった。
シャッターのボタンを押す。
ゴゴゴゴゴ……
巨大な扉が上がる。
冷たい風が吹き込んだ。
玲たちは目を細める。
そして。
扉の向こうを見て。
全員が言葉を失った。
夜だった。
だが。
それだけではない。
目の前に広がっていたのは。
巨大な工場跡地だった。
錆びた鉄骨。
崩れた建物。
放置されたコンテナ。
雑草。
割れたアスファルト。
そして。
どこにも人がいない。
「なんだよ……ここ」
黒川が呟く。
玲も周囲を見渡す。
街ではない。
住宅地でもない。
完全な廃墟。
その時。
由奈が小さく言った。
「知ってる」
全員が振り返る。
「ここ……」
由奈の顔が青い。
「東都ショッピングモール跡地」
静寂。
玲の背筋が凍る。
七年前。
火災が起きた場所。
全ての始まり。
「馬鹿な……」
ショッピングモールは消失したはずだ。
取り壊されたはずだ。
ニュースでもそう報じられていた。
だが。
由奈は首を振る。
「地下施設だけ残されてた」
玲は周囲を見る。
確かに。
建物の配置が資料写真と一致している。
つまり。
自分たちはずっと。
事件現場の真下にいた。
その事実に寒気が走る。
その時だった。
パチパチパチ。
拍手が聞こえた。
四人が一斉に振り向く。
誰かいる。
廃墟の中央。
崩れた建物の上。
一人の男が立っていた。
黒いコート。
白髪。
五十代ほど。
知らない顔。
だが。
その目だけは異様だった。
「おめでとう」
男が笑う。
「よくここまで辿り着いた」
玲は身構える。
「誰だ」
男は少しだけ笑った。
そして。
「初めまして」
そう言った。
「私は神崎誠一」
玲の心臓が止まりそうになる。
神崎。
聞いたことがある。
忘れるはずがない。
神崎優。
交通事故で亡くなった少年。
玲がずっと気にしていた名前。
男は静かに言った。
「優の父親だ」
美咲が息を呑む。
黒川も顔色を変える。
由奈だけが俯いた。
まるで。
知っていたかのように。
男はゆっくり歩き始める。
廃墟の中を。
こちらへ向かって。
「そして」
男の目が玲を見た。
真っ直ぐに。
逃げられないほど真っ直ぐに。
「このゲームの本当の主催者だ」
その言葉と共に。
玲たちは理解する。
藤原奏は黒幕ではなかった。
本当の黒幕は。
今。
目の前にいる。
夜風が吹き抜ける。
廃墟となった東都ショッピングモール跡地。
その中央で。
神崎誠一は静かに立っていた。
玲たちは言葉を失う。
今までの全て。
デスゲーム。
監禁。
死。
その先にいた人物。
それが目の前の男だった。
「あなたが……」
美咲が震える声で言う。
「全部やったの?」
神崎は否定しなかった。
「そうだ」
あまりにもあっさり。
まるで天気の話でもするように。
黒川が前へ出る。
「ふざけるな!」
怒鳴り声が廃墟に響く。
「何人死んだと思ってる!」
神崎は静かに聞いていた。
「知っている」
「だったら!」
「だからこそだ」
その一言で。
黒川の言葉が止まった。
神崎は玲を見る。
「君たちは勘違いしている」
「何を」
「私は復讐のためにゲームを開いたわけじゃない」
玲は眉をひそめる。
「じゃあ何のためだ」
神崎は少しだけ空を見上げた。
そして。
「真実のためだ」
静寂。
誰も理解できなかった。
神崎は続ける。
「七年前」
「東都ショッピングモール火災」
「世間は事故だと思った」
「警察もそう結論づけた」
「だが違った」
玲は黙って聞く。
「私は調べた」
「何年も」
「何年も」
「何年もだ」
その声には重みがあった。
「そして分かった」
神崎の表情が変わる。
「事故ではない」
「誰かが隠した」
玲の心臓が大きく鳴る。
隠した。
つまり。
まだ知られていない真実がある。
「奏は放火犯だった」
神崎が言う。
「それは事実だ」
「だが」
数秒の沈黙。
「火災の原因はそれだけじゃない」
玲は息を呑む。
「どういう意味だ」
神崎は廃墟の一角を指差した。
崩れた建物。
ショッピングモールの中心部。
「当時」
「この施設には重大な欠陥があった」
由奈の顔色が変わる。
神崎は続ける。
「違法建築」
「違法配線」
「避難経路の封鎖」
黒川が目を見開く。
「まさか……」
神崎は頷いた。
「本来なら小火で終わっていた」
「だが」
「建物そのものが死の罠だった」
夜風が吹く。
玲の背筋が寒くなる。
つまり。
奏が火をつけた。
それは事実。
だが。
大量死の原因は別にあった。
建物の構造。
隠蔽。
利益優先。
そして。
責任逃れ。
神崎は拳を握る。
「何十人も死んだ」
「それなのに」
「誰も責任を取らなかった」
怒り。
長い年月をかけて積み上がった怒り。
玲にも分かった。
だが。
「だからって」
玲が言う。
「人を殺していい理由にはならない」
神崎は黙った。
数秒後。
小さく笑った。
「そうだな」
意外な返答だった。
「君の言う通りだ」
玲は少し戸惑う。
神崎は反論しない。
言い訳もしない。
ただ認めた。
「私は間違っている」
静かな声。
「だが」
「真実は必要だった」
玲は首を振る。
「違う」
神崎が顔を上げる。
「真実は必要だ」
「でも」
「こんな方法じゃ駄目だ」
神崎は玲を見つめる。
長い沈黙。
その時。
由奈が突然口を開いた。
「一つ聞きたい」
全員が振り向く。
由奈は神崎を見ていた。
真っ直ぐ。
「どうして玲を選んだの」
神崎の表情が変わる。
初めて。
少しだけ。
苦しそうに。
「それか」
由奈が頷く。
玲も気になっていた。
なぜ自分なのか。
なぜこのゲームに。
なぜこんなにも重要人物のように扱われるのか。
神崎はゆっくり言った。
「玲だけは違った」
「え?」
「七年前」
「君だけが」
「陽菜を助けようとした」
玲の目が大きく見開く。
断片的な記憶。
炎。
少女。
手を伸ばしたこと。
確かに。
思い出し始めていた。
「君は逃げなかった」
神崎の声は静かだった。
「だから最後まで見届ける資格があると思った」
玲は何も言えなかった。
その時だった。
突然。
遠くからサイレンの音が聞こえた。
全員が振り返る。
赤色灯。
複数。
どんどん近づいてくる。
警察。
そして。
特殊部隊。
神崎は小さく笑った。
「来たか」
玲は気付く。
神崎は逃げる気がない。
最初から。
そのつもりだった。
だが。
次の瞬間。
神崎の表情が消えた。
彼の視線。
その先。
廃墟の上。
誰かが立っている。
黒い影。
そして。
神崎が初めて動揺した。
「……馬鹿な」
玲の背筋が凍る。
神崎が驚く相手。
それは。
死んだはずの人物だった。
夜の廃墟。
パトカーのサイレンが遠くから近づいてくる。
赤色灯が崩れた建物を照らしていた。
だが。
その場にいた誰も。
警察の方を見ていなかった。
全員の視線は同じ場所へ向いていた。
崩れたショッピングモールの屋上。
そこに。
一人の人影が立っていた。
風が吹く。
長い髪が揺れる。
細い身体。
見覚えのある姿。
「そんな……」
美咲が呟く。
「ありえない……」
黒川も言葉を失う。
玲は目を見開いたまま動けなかった。
そこにいたのは。
桜井遥だった。
死んだはずの。
首輪の爆発で命を落としたはずの。
桜井遥。
「遥……?」
黒川の声が震える。
だが。
遥は答えない。
ただ。
静かにこちらを見下ろしている。
その目に。
玲は違和感を覚えた。
何かがおかしい。
あまりにも。
感情がない。
まるで。
別人のように。
神崎誠一が一歩前へ出る。
「誰だ」
低い声。
玲は驚いた。
神崎は遥を見ている。
しかし。
その顔には困惑がある。
つまり。
神崎も知らない。
神崎の計画外。
その存在は。
本当に予想外だったのだ。
遥がゆっくり口を開く。
そして。
笑った。
「久しぶりですね」
その声を聞いた瞬間。
玲の背筋が凍った。
遥の声じゃない。
似ている。
だが違う。
もっと低い。
もっと冷たい。
神崎の顔色が変わる。
「まさか……」
初めてだった。
この男が恐怖を見せたのは。
遥は続ける。
「本当に面白かったですよ」
「人間というのは」
「追い詰められるとよく壊れる」
玲は拳を握る。
誰なんだ。
こいつは。
その時。
由奈が息を呑んだ。
「違う……」
誰にも聞こえないほど小さな声。
しかし玲には聞こえた。
由奈の顔は真っ青だった。
「知ってるのか」
玲が聞く。
由奈は震えていた。
そして。
「知ってる」
そう答えた。
「でも」
「生きてるはずがない」
静寂。
玲の鼓動が速くなる。
遥は笑っていた。
まるで全てを見下ろすように。
「自己紹介をしましょうか」
夜風が吹く。
そして。
その人物は言った。
「私の名前は」
数秒の沈黙。
「橘修司」
誰も反応できなかった。
知らない名前。
だが。
神崎だけは違った。
完全に顔色を失っていた。
「橘……」
「生きていたのか」
橘は笑う。
「正確には違います」
「私はもう十年前に死んでいます」
美咲が後退る。
意味が分からない。
死んでいる?
なのに。
目の前にいる。
橘はゆっくり歩き始める。
崩れた屋上の縁を。
まるで散歩するように。
「神崎さん」
「あなたは勘違いしていた」
「このゲームは最初からあなたのものじゃない」
玲の心臓が跳ねた。
「何?」
神崎も固まる。
橘は続ける。
「あなたが施設を作った」
「参加者を集めた」
「資金も出した」
「全部事実です」
そして。
微笑む。
「でも」
「計画を誘導したのは私です」
沈黙。
誰も言葉が出ない。
神崎でさえ。
言葉を失っていた。
つまり。
神崎は黒幕ではない。
利用されていた。
その事実が。
あまりにも衝撃的だった。
玲は叫ぶ。
「お前は何者なんだ!」
橘は玲を見る。
そして。
静かに答えた。
「東都ショッピングモールの設計責任者」
夜風が吹く。
「そして」
「火災で死んだ男です」
玲は息を呑む。
設計責任者。
違法建築。
隠蔽。
火災。
全ての中心人物。
だが。
死んだはず。
ならなぜ。
遥の身体で動いている?
橘は微笑む。
「その話は次にしましょう」
その瞬間。
遠くから銃声が響いた。
警察部隊が廃墟へ突入したのだ。
だが。
誰も動けない。
目の前の存在が。
あまりにも異常だったから。
そして玲は理解する。
この事件はまだ終わっていない。
むしろ。
今からが本当の終幕なのだと。
銃声が夜の廃墟に響く。
だが。
誰も動かなかった。
玲も。
美咲も。
黒川も。
由奈も。
そして神崎誠一も。
全員の視線はただ一人。
桜井遥の姿をした男――橘修司へ向けられていた。
東都ショッピングモール設計責任者。
火災で死亡した男。
そして。
神崎すら利用していた存在。
あまりにも異常だった。
「ありえない」
神崎が低く言う。
「お前は死んだ」
橘は笑った。
「ええ」
「死にました」
即答だった。
「十年前に」
玲は眉をひそめる。
十年前?
火災は七年前だ。
数字が合わない。
橘は続ける。
「正確には」
「私の肉体が死んだのは十年前」
「ショッピングモール火災で完全に消滅したのは七年前」
意味が分からない。
美咲が震える声で聞く。
「何を言ってるの」
橘はゆっくり目を閉じた。
「順番に話しましょう」
夜風が吹く。
警察のサイレンが近づいてくる。
だが。
橘は気にしていない。
まるで。
最初から逃げる気がないように。
「私は技術者でした」
「優秀だった」
「少なくとも自分ではそう思っていた」
その声には自嘲が混じっていた。
「大型施設の設計」
「防災設備」
「避難システム」
「全部私の専門でした」
玲は黙って聞く。
「だが」
橘の顔が曇る。
「私は金に負けた」
静寂。
「工事費を削った」
「安全基準を無視した」
「避難経路を減らした」
「配線も簡略化した」
神崎が拳を握る。
「その結果が火災か」
橘は頷いた。
「そう」
「私が作った建物は」
「最初から巨大な棺桶だった」
誰も反論できない。
七年前。
多くの人が死んだ。
奏の妹。
神崎の家族。
そして。
数え切れない犠牲者。
「だが」
橘は続ける。
「私は責任を取らなかった」
玲は眉をひそめる。
「死んだんじゃないのか」
橘は笑った。
「死んだよ」
「でも」
「その前に逃げた」
夜風が吹く。
「私は全てを部下に押し付けた」
「書類を書き換えた」
「証拠を消した」
「責任者を別人にした」
黒川が吐き捨てる。
「最低だな」
橘は否定しなかった。
「その通りだ」
そして。
「だから私は死んだ」
その言葉に。
玲は違和感を覚える。
まるで。
自殺したような言い方。
橘は玲を見る。
「察しがいいね」
玲の目が大きくなる。
「まさか」
「そう」
橘は静かに言った。
「私は十年前」
「自分で命を絶った」
静寂。
誰も言葉を失う。
つまり。
ショッピングモール完成前。
すでに死んでいた。
「じゃあ誰が設計を」
美咲が呟く。
橘は答える。
「弟子たちだ」
「私の図面を引き継いだ」
「欠陥もそのまま」
玲は理解した。
火災は。
一人の悪人だけで起きたわけじゃない。
無数の怠慢。
無数の隠蔽。
無数の責任逃れ。
その積み重ねだった。
だが。
一番重要な疑問が残っている。
「遥は何なんだ」
玲が聞く。
橘は少しだけ笑った。
「それか」
神崎も顔を上げる。
誰もが知りたいことだった。
死んだはずの桜井遥。
なぜ今ここにいるのか。
橘はゆっくり言う。
「遥は死んだ」
「それは事実」
黒川が拳を握る。
「じゃあ!」
橘は空を見上げた。
「私は遥じゃない」
「でも遥でもある」
意味不明だった。
しかし。
由奈だけが青ざめていた。
「まさか……」
小さな声。
玲が振り返る。
「知ってるのか」
由奈は震えていた。
そして。
「地下研究室」
そう呟く。
玲は眉をひそめる。
地下研究室。
聞いたことがない。
だが。
神崎の顔色が変わった。
完全に。
「お前……」
橘は笑った。
初めて。
本当に楽しそうに。
「そう」
「ようやく辿り着いた」
夜風が吹く。
「このデスゲームの本当の目的は復讐じゃない」
玲の心臓が鳴る。
「じゃあ何だ」
橘は答えた。
「実験だ」
その瞬間。
全員の背筋が凍った。
「人間は極限状態でどう変化するか」
「罪を抱えた人間は何を選ぶのか」
「記憶を失った人間は真実へ辿り着けるのか」
橘は笑う。
「私はそれを見たかった」
玲は怒りで拳を握る。
何人も死んだ。
苦しんだ。
泣いた。
それを。
実験?
「ふざけるな!」
玲が叫ぶ。
だが。
橘は静かだった。
そして。
「まだ終わっていない」
そう言った。
次の瞬間。
廃墟全体が揺れた。
爆発音。
地面が震える。
警察の怒号。
美咲の悲鳴。
そして。
橘は笑った。
「最終実験の始まりだ」
遠くで。
ショッピングモール跡地の地下施設が崩れ始めていた。
ドォォォォン!!
地面が大きく揺れた。
崩れたショッピングモール跡地の地下から、爆発音が連続して響く。
土煙が舞い上がる。
警察の怒号。
パトカーのサイレン。
すべてが混ざり合い、廃墟は一瞬で混乱に包まれた。
「伏せろ!」
黒川が叫ぶ。
玲たちはとっさに身を低くする。
数秒後。
崩れたコンクリート片が近くへ落下した。
轟音。
砂煙。
視界が白く染まる。
玲は顔を上げた。
橘修司がいた場所を見る。
だが。
そこに人影はなかった。
「消えた……」
美咲が震える。
神崎も周囲を見回していた。
初めて焦りが見える。
「まさか」
その時。
警察無線らしき声が聞こえた。
「地下に多数の設備を確認!」
「研究施設らしき区画あり!」
「爆発が連鎖している!」
地下研究施設。
橘が言っていた場所。
玲の脳裏に一つの言葉がよぎる。
実験。
もし橘が本当に人間実験をしていたなら。
まだ何かが残っているかもしれない。
その時だった。
「玲!」
由奈が叫ぶ。
振り返る。
崩壊した建物の向こう。
かすかに人影が見えた。
橘だった。
廃墟の奥へ向かって歩いている。
まるで。
誰かを誘うように。
玲は走り出した。
「待て!」
「玲!」
美咲の声が聞こえる。
だが止まれなかった。
ここで逃がしたら終わる。
奏。
遥。
大地。
翼。
健吾。
隼人。
死んでいった全員。
その真実が永遠に闇へ消える。
玲は瓦礫を飛び越える。
橘も振り返らない。
ただ前へ進む。
やがて。
ショッピングモール中心部の跡地へ辿り着いた。
そこだけ妙に静かだった。
崩壊音も遠い。
風だけが吹いている。
橘は立ち止まった。
「来ると思ったよ」
玲は息を切らしながら睨む。
「全部話せ」
橘は笑った。
「全部?」
「そうだ」
「なぜ遥の姿なんだ」
「なぜデスゲームをやった」
「なぜ俺たちだった」
玲は叫ぶ。
橘はしばらく黙っていた。
そして。
「簡単だ」
静かな声。
「私は死にたかった」
玲は固まった。
「何?」
「十年前から」
「ずっとだ」
夜風が吹く。
「だが死ねなかった」
橘は空を見る。
「責任から逃げた」
「真実から逃げた」
「罪から逃げた」
「だから私は生き続けた」
その声には疲れがあった。
長い年月。
逃げ続けた人間の疲労。
「遥は偶然だった」
橘が続ける。
「地下研究施設に残されていた技術」
「人間の記憶を模倣する実験」
玲は眉をひそめる。
「記憶を?」
橘は頷く。
「遥のデータが残っていた」
「私はそれを利用した」
完全な説明ではなかった。
だが。
少なくとも一つだけ分かる。
目の前の存在は。
もう普通の人間ではない。
罪と執着だけで動いている。
「だから実験したのか」
玲が聞く。
橘は首を振った。
「違う」
「最初は真実を残したかった」
「だが途中で変わった」
「人間が見たくなった」
玲は拳を握る。
その好奇心で。
何人も死んだ。
許されることじゃない。
その時。
遠くから由奈たちの声が聞こえた。
「玲!」
「どこだ!」
追いついてきている。
橘は小さく笑った。
「時間切れか」
玲は警戒する。
橘の様子がおかしい。
やけに穏やかだ。
そして。
その視線の先。
崩れかけた巨大な鉄塔。
ショッピングモールのシンボルだった構造物。
爆発の影響で傾いている。
今にも倒れそうだった。
玲は気付く。
鉄塔の真下。
由奈がいる。
「危ない!」
玲が叫ぶ。
次の瞬間。
メリメリメリ……
鉄骨が悲鳴を上げる。
巨大な鉄塔が倒れ始めた。
由奈は気付いていない。
間に合わない。
玲は走った。
全力で。
そして。
もう一人。
同時に走り出した人物がいた。
橘修司だった。
玲は目を見開く。
なぜ。
なぜ助けようとする。
橘は何も言わない。
ただ。
全力で由奈へ向かって走っていた。
巨大な鉄塔が落ちる。
地面が揺れる。
誰かが叫ぶ。
そして。
轟音。
世界が白く染まった。
轟音。
崩れ落ちる鉄塔。
舞い上がる土煙。
視界は真っ白になった。
玲は何が起きたのか分からなかった。
耳鳴りだけが響いている。
身体中が痛い。
呼吸も苦しい。
やがて。
少しずつ煙が晴れていく。
玲はゆっくり身体を起こした。
「由奈!」
叫ぶ。
返事はない。
心臓が嫌な音を立てる。
立ち上がろうとして膝をつく。
それでも前へ進む。
煙の向こう。
倒れた鉄骨の下。
人影が見えた。
由奈だった。
「由奈!」
玲が駆け寄る。
由奈は目を開けた。
「玲……」
生きている。
玲は安堵の息を漏らした。
大きな怪我もない。
ただ。
由奈の前には。
もう一人。
人が倒れていた。
橘修司。
巨大な鉄骨を支えるように。
血まみれで。
動かなくなっていた。
静寂。
玲は言葉を失った。
最後の瞬間。
橘は由奈を突き飛ばしたのだ。
自分の命と引き換えに。
あの男が。
何十人もの人生を壊した男が。
最後だけは。
誰かを助けた。
玲は複雑な感情に包まれた。
許せない。
でも。
憎みきれない。
そんな感情だった。
その時。
橘の指が僅かに動いた。
「!」
まだ生きている。
玲は近寄る。
橘は薄く目を開いた。
夜明けが近い。
東の空が少しずつ明るくなっている。
橘はその空を見ていた。
「綺麗だな」
掠れた声。
玲は何も言わない。
橘は小さく笑った。
「久しぶりに見た」
「朝日を」
その顔は。
今までで一番穏やかだった。
「玲」
名前を呼ばれる。
「何だ」
橘は少しだけ笑う。
「君は」
「私みたいになるな」
玲は黙って聞く。
「罪から逃げるな」
「失敗から逃げるな」
「後悔からも」
呼吸が苦しそうになる。
それでも橘は続けた。
「向き合え」
「それしかない」
玲は静かに頷いた。
橘は満足そうだった。
そして。
最後に。
小さく呟く。
「すまなかった」
それが。
橘修司の最期の言葉だった。
朝日が昇る。
その光の中で。
橘修司は静かに息を引き取った。
長い物語が終わった。
警察が到着する。
救急隊も来る。
事情聴取。
捜査。
報道。
全てが始まった。
隠されていた真実も。
少しずつ明るみに出ていった。
ショッピングモール火災。
違法建築。
隠蔽。
そしてデスゲーム。
世間は大騒ぎになった。
だが。
死んだ人は戻らない。
遥も。
大地も。
健吾も。
翼も。
奏も。
戻らない。
それだけは変わらなかった。
数か月後。
玲は一人で墓地を訪れていた。
静かな午後。
風が吹いている。
目の前には新しい墓石。
藤原奏。
その名前が刻まれていた。
玲は花を供える。
「終わったよ」
誰に聞かせるでもなく言う。
奏は間違った。
たくさんの人を傷つけた。
でも。
苦しんでいたのも事実だった。
玲は空を見る。
青空だった。
あの日とは違う。
煙も。
炎もない。
ただ静かな空。
後ろから足音が聞こえた。
振り返る。
美咲。
黒川。
由奈。
三人が立っていた。
「やっぱりここにいた」
美咲が笑う。
黒川も肩をすくめる。
「探したぞ」
由奈は少しだけ微笑んだ。
あの日から。
みんな少しずつ前へ進んでいる。
傷は消えない。
後悔も消えない。
それでも。
生きている。
だから進む。
玲は墓石を見つめた。
そして。
静かに言った。
「さようなら」
風が吹く。
花が揺れる。
空はどこまでも青かった。
彼らの人生は続いていく。
悲しみも。
罪も。
全て抱えたまま。
それでも。
前へ。
朝焼けの向こうへ。
完




