救出
「……でも、この輪っかじゃうまくかかるかどうか分からない……」
ワイヤーの先端はフックを掛けやすいよう、輪になっているが、それをソフトボールほどの球体であるルシファーに引っかけて引っ張らせる事は困難だ。
「いや、あれを使えば……」
運転手はトレーラーの横転箇所に走っていく。そしてある大きな荷物を持ってきた。
広げると三メートル四方にもなる、金属の格子が入ったシートだ。
「これは本来、大きな岩石や土砂をクレーンでつり上げるためのゴムシート付きワイヤーモッコだ。これならルシファーを捕まえられるし、強度も十分だ!」
そう解説しながら、手際よくそれを達也が引っ張ってきたワイヤの先端に、バネ付きフックを介して取り付けた。
ルシファーはもう、ほんの三十メートルほどにまで迫っている。
達也は、ワイヤを掛けている御神木を見て、そして祈った。
(ご神木様、どうか、失礼をお許しください。どうか、どうか杏奈を助けてください!)
ついさっき、「ルシファーとご神木の対決が見たい」などと考えた自分にとって、それが勝手な祈りだとは自覚していた。しかし今祈るべき対象は御神木しかなく、また、実際に杏奈の命を支えてくれる存在なのだ。
真夏の日差しの中にあって、達也は震えていた。震えながら、ルシファーが徐々に近づいてくる、その永遠にも思える時間の中にいた。
人が歩くよりもやや遅い速度で、それは迫ってくる。
そしてルシファーはあの赤いレーザー光が指し示したルートを、正確にトレースするかのように、待ち構えているワイヤーモッコに向かって浮遊してきた。
爆発するかもしれない、などという危機感は、少なくとも達也と、トレーラーの運転手は持っていなかった。ただ、彼女を救いたいというその気持ちだけだった。
そしてルシファーは、ほとんど位置の調整も必要なく、袋状にしたワイヤーモッコに入った。
一瞬置いてワイヤが張り詰め、電柱とご神木が揺れ、そしてガガガッという音と共に杏奈の上の鉄骨が、歩道と平行に、つまり電柱の方向に動き始めた。
達也は全力で杏奈の元に駆け寄る。
そこにはすでに、体格のいい警察官二人と、ロードサービスの作業員一人が、彼女を救うべく待機していた。
達也は杏奈に
「鉄骨が動き出した。もうすぐ助かる!」
と声をかけることしかできないが、それでも彼女にとっては、大きな安心となった。
しかし次の瞬間。
ガコン、と大きな音、一瞬遅れて、「うわあっ」と声を揃え、待機していた三人の男が飛び退いた。
ワイヤーを掛けていた電柱がその加重に耐え切れず、杏奈の方に倒れかかってきたのだ。
彼らの頭上に落ちてくるような勢いだったが、上部が電線に支えられ、一瞬動きが止まった。
ワイヤーも少し上方にずれたが、金属製の足場に引っかかり、なんとかそこで止まっていた。
しかし、電柱は今すぐにも彼等の方に倒れてきそうだ。
ほんの一、二秒の出来事だが、一度恐怖を感じた男たちは、杏奈のそばに近づけない。
その間も、モッコに包まれたルシファーは彼女に迫り、また、鉄骨は少しずつ外れかかっていく。
ただ、電柱が傾いた事と、ワイヤが延びた事により、思ったよりも鉄骨の移動量が少ない。
そんな危機的な状況の中、その時点で杏奈のすぐ側に留まっていたのは、達也ただ一人だった。
杏奈を押しつぶそうと迫り来るルシファー。しかしそれは同時に、杏奈を鉄骨から解放する牽引者でもある。
再びガコン、と電柱が傾く。
他の救出者が尻込みする状況の中、達也だけは彼女の手首を握り、離さない。
「杏奈、大丈夫だ! 絶対に僕が助ける!」
「達也……達也ぁ……」
杏奈は自分の危機的状況と、そして絶対に逃げようとしない達也の姿に、ただ涙を流し、彼の名前を言い続けることしかできない。
この間、わずか数秒――。
そして、その時は訪れた。
ルシファーを包んだワイヤーモッコが、彼女の鼻先、数十センチまで迫った瞬間、
「うおおおおぉーっ!」
達也は杏奈の腹部と地面の間に手を差し入れ、一気に持ち上げた。
その上に覆い被さっていた鉄骨は、もう完全に抜けていた。
跳ねるように彼女の体は持ち上がり、そして車道側へと仰向けに倒れ込んだ達也の上にのしかかった。
彼女は、解放された。だが、危機はまだ去っていなかった。
「達也、危ない!」
ついに荷重に耐えきれなくなった電柱が、ものすごい勢いで彼等の上方に倒れ込んできたのだ。
杏奈は、達也の手を握り、そしてうずくまった。そして彼も一瞬、自分が押しつぶされることを覚悟した。
激しい衝撃と振動、破裂音、そして土埃。
……さらに数秒後、ゆっくりと目を開けると、そこには電柱はなかった。
間一髪、倒れ込んできた電柱はルシファーに当たり、そして歩道側へとずれ込み、そのままルシファーに押されて大きく折れ曲がっていたのだ。
そこにようやく、警官や作業員が救助に来た。
「早くここを離れるんだ! 鉄骨はまだ動いている!」
言われて達也が見てみると、ルシファーに引っ張られた鉄骨が、御神木をぐるりと回り込んでいるところだった。
刹那、彼女のことが頭に浮かんだ。
「杏奈、大丈夫か?」
繋いだままの手の先を見る。
「うん……生きてる……うん……」
相変わらず泣いているが、とりあえず大丈夫そうな様子に安心する。
だが、このままここにいるのは危険だ。彼はそう思って、立ち上がろうとするが、膝がガクガクと震えた。
しかし、心配もそれまでだった。
二人とも、警官や作業員に抱えられ、無事その場を離れられたのだ。
そして待機していた救急車へと運ばれる。
大きな怪我はなさそうなものの、ショックを受けている様子の杏奈。
彼女はすぐに救急車に乗せられる。だが達也は、自分は大丈夫だからと、救急車に乗ることを拒否しようとした。
しかし、
「念のため、君も病院に行きなさい。それに、彼女に付き添ってあげなさい」
という警察官の言葉に、彼も同乗を決めた。
二人を乗せた救急車が、サイレンを鳴らして走り始める。
車内では心電図の電極を取り付けるために、救急隊員が、寝かされている彼女のシャツをまくり上げた。
不意に目に飛び込んできた彼女の白い下着に、思わず顔を赤くする達也。
杏奈も恥ずかしそうに顔を横に向けた。
だが、杏奈は、こう口にした。
「達也……手、つないで……」
一瞬、体がかっと熱くなり、車内を見渡す。
救急隊員の一人が、笑顔で頷いた。
彼は、相変わらずそっぽを向いたままの彼女の手を握った。
暖かかった。
そして彼女が生きていた事を、あの御神木に感謝した。
彼の心は、安堵と、そして幸福感に満ちていた。
**********
トレーラーが横転し、鉄骨が少女に降り注ぐ衝撃的な映像は、全国に生放送されていた。
まもなくルシファーが通過する地点、ということだったので世間の関心は高く、亮太と真優もその瞬間を目撃していた。
事故直後、映像はスタジオに切り替わった。もちろん、その時点では彼女の安否は不明。
進行役の少し小太りのアナウンサーは、
「大変な事故が起きたようです、これは心配です……」
とコメントし、その後CMを挟んだ。
そして次にスタジオへと画面が戻ったときに、
「先ほどの事故の状況ですが、あのスケッチブックを抱えていた少女、事故に巻き込まれたものの、意識はあると言うことです。ただ、まだ詳しい情報が入っていません。大変心配ですが、何か状況が分かり次第、皆様にもお知らせします」
とだけ話し、別のコーナーへと移っていた。
当然、それで視聴者が納得するはずもなく、数千件もの問い合わせが、テレビ局に殺到したという。
その一人が、真優だった。
彼女は泣きじゃくり、
「今から現場に行く!」
とまで言い放ち、
「数百キロも離れているのに、どうやって、何しに行くんだ」
という亮太の説得に、ようやくあきらめた。
(ルシファーがらみの事に、かなり神経質になってるんだな……)
亮太は、それも仕方がないかと思った。そして彼自身も、何もできない自分に、いらだちと焦りを覚え始めていた。
一時間ほどで、彼女が無事に救出され、救急車で病院に運ばれた、という報道がなされた。だが、怪我の程度などは不明。
このときも、真優は
「今からお見舞いに行く!」
と言ったが、亮太の
「もう少し、情報を待ってからにしろ」
という言葉に、素直にその通り待つことにした。
さらに二時間後。彼女が奇跡的に擦り傷程度の軽傷で済んだことが報道された。
しかし、あの大事故の様子から考えると、少女が生きていることすら信じられない。大半の視聴者がそうだった。
鳴り続ける問い合わせの電話に対応しきれなくなったテレビ局は、救出の場面を放送することにした。
トレーラーが横転するその瞬間まで、テレビカメラは彼女を映していた。
事故直後、カメラマンも直ぐに救出に加わったが、そのカメラは回りっぱなしだった。そのため、彼女が救出される一部始終が録画されていたのだ。
それは、一見すると何が起こっているのか訳の分からない光景だった。
数人のスタッフや警察官が見守る中、高校生ぐらいの少年が彼女を救出しようとしている。
そこに迫る、シートにくるまれ、ワイヤーを引っ張る、不自然に浮遊する物体。
「これはルシファーだということです」
というアナウンサーの解説に、全視聴者が驚いた。
そして間一髪で少年が彼女を救い出し、そこに電柱が倒れ込んでくる映像。
二人が待機していたスタッフや警察官に運ばれていく様子。
映画の特撮ではないのか、とすら思える衝撃映像に、誰もが二人の大けがを想像した。
しかしその直後、診察服に身を包んでベッドに腰掛ける少女の、やや疲れているようではあるが元気そうな表情、その傍らで照れたような笑顔を浮かべる少年の姿が映された。
二人のインタビューなどは無かったが、この放送を見て、真優はようやく落ち着きを取り戻した。
「俺たちだけじゃなく、日本中が安心しただろうな」
彼の言葉に、真優は、また涙を浮かべて頷いたのだった。




