呪い
横転事故を起こしたトレーラーは、長さ十二メートルの鉄骨を五本積載していた。
その鉄骨一本の重さは、約五トン。計二十五トン超の積み荷で、通常その重さなら走行に問題ないはずだった。しかしこの日、もうすぐルシファーの警戒区域に入り、通行できなくなることを恐れ、ドライバーはスピードを上げていた。
それに加え、現場は緩やかながらカーブとなっている。
御神木の脇のテレビカメラとアナウンサーに注目してしまっていたこと、その直後に、スケッチブックを抱えて歩道の端ぎりぎりでしゃがんでいる杏奈に気づき、はっとして急ハンドルを切ってしまったことが横転のきっかけだった。
五トンの鉄骨は、人間の手でどうにかなる重さではない。
「クレーンが到着するまで、どのぐらいかかるんですか!」
達也が運転手に詰め寄る。
「準備もあるし、一時間ぐらいは……」
「遅すぎる!」
めずらしく……いや、初めて声を荒げる達也を見て、杏奈は我が身の危機を悟った。
「ワイヤーでつないで、車で引っ張ればいいんじゃないですか? この一番手前、彼女の上に覆い被さっている鉄骨をずらせばいいんだ!」
若い警察官が、狼狽しきっている達也やトレーラーの運転手、そしてテレビ局のスタッフらに声をかける。
(そうだ、言い争いをしている場合じゃない……)
達也は我に返り、周囲を見渡して一番馬力のありそうな車を指さした。
「あれで引っ張ってください!」
それは、テレビの中継車だった。
普段から重い機材と電送システムを搭載したその特殊車両は、通常のワゴン車などよりは遙かに大きい。
スタッフの一人は頷くと、急いで中継車に向かった。
うなだれていたトレーラーの運転手も、横転の際に外れてしまったワイヤを確保した。
普通、鉄骨をクレーンでつり上げる場合は「玉掛け」と呼ばれる作業を行うが、今回は時間がない上、「真上に」ではなく、「横に」ずらす必要がある。
運転手は鉄骨のボルト接続用の穴に金属製のフックを通し、そこに玉掛け用のワイヤも接続した。
玉掛け用のワイヤはもともと両端が輪になっており、反対側を中継車の牽引用フックに引っかける。
今、杏奈の体は歩道と車道のちょうど中間に位置し、その境目のわずかな「へこみ」に体が埋まっている状態だ。
また、彼女の左右には、二本の鉄骨がその体を挟み込むように、平行に並んでいる。
彼女の上にある鉄骨は、歩道と車道の境目にある段差から、二本平行に並んだ鉄骨に渡って乗りかかっている。
このままゆっくり「歩道と平行に」一番上の鉄骨をずらせば、彼女の体は脱出できそうだ。
ただ、「道路側に」ずれてしまった場合、その鉄骨が落ちてきて、杏奈の上半身は押しつぶされてしまう。
「歩道の奥側に」力を加えれば、平行に並んだ鉄骨の上を一番上のそれが滑るようにずれそうなので脱出できるであろうが、そもそも奥は川であり、そちらの方向に引っ張る術がなかった。
トレーラー運転手の合図と共に、中継車がゆっくりと歩道と平行に、東方向に移動し始める。
しかし、ワイヤがぴん、と張った次の瞬間、がくんとその動きがとまり、エンストした。
もう一度試す。
今度はワイヤが張った状態から、少しずつエンジンの出力を上げていく。
空ぶかしのような不快な音が数回響いた後、またあっけなくエンストした。
重量五トンの鉄骨。
対象が車輪のついた車であったなら、ぎりぎり牽引できるだろう。
しかしこの重さの、車輪のついていない荷物を引っ張ることは、そもそも無理だったのだ。
あるいは、横転したトレーラーと同程度の大きさの特殊車両であれば可能かもしれない。
だが、それも要請はしたものの、現場に着くまでに三十分はかかるという。
また、通行規制が行われている現状では、偶然そのような大型車が通ることは期待できない。
民間のロードサービス車が、緊急事態ということで避難指示を無視してたどり着いたものの、作業員は現場を見て息を飲んだ。
一般車の脱輪を救助するのとは訳が違う。
少女の体を傷つけずに、五トンもの鉄骨を移動させる。しかも、残された時間は十分を切っていた。
もっと大きな救援車でないと無理だ、という結論に達したのは、中継車と同じ方法で鉄骨の移動を試みた後だった。
達也の体からは、暑さによるもの以外に、冷たい汗が流れていた。
彼女を助けようと、大勢の人が協力してくれている。
みんな懸命に、「戦って」いる。
なのに、自分はただ、杏奈のそばで「絶対助けてくれるから、大丈夫だ」と言い続けることしかできない。
また、そうしていろと大人たちから言われていた。
それは、自分が足手まといにしかならないからだと理解していた。
「達也……私、助からないの……?」
杏奈のか細いその声は、彼をぞっとさせた。
「ばかな……絶対助かるって! もうちょっとだから、がんばれ!」
「怖い……達也、私まだ……死にたくないよ……」
「大丈夫だ。絶対僕が助けるから!」
「本当? 約束だよ……」
いつもの勝ち気な杏奈は、そこにはいない。
自分の死を意識し、どうしようもない状況におびえる、小動物のような彼女。
己を犠牲にしてでも、絶対に彼女を助ける……そう覚悟を決めた達也だったが、その手段が見つからない。
「ルシファーが見えた!」
誰かが叫んだ。
それはほぼ目線と同じ高さで、水田の上に浮いていた。
黒く、丸く、そして小さい。
距離にして、約三百メートル。ルシファーはこの距離を、五分ほどで進んでくる。
その飛行は正確だ。そして正確であるからこそ、彼女の体にもまた、確実に迫っている。
目の前には、御神木が立っている。
(ご神木の呪いなのか……ばかな、そもそも杏奈はご神木をむしろ心配してたじゃないか。罰を受けるとしたら、ルシファーとご神木の対決を見たい、なんて考えていた僕の方じゃないか……)
そこまで考えたとき、ぞっとする思いが彼に浮かんだ。
(まさか……これは僕に対する呪いなのか……僕から、杏奈をむごたらしい方法で永遠に奪い、そして一生僕を苦しめるのか……そんな……絶対に嫌だ、それなら僕を殺せ!)
そして少年は叫んだ。どうして杏奈なんだ、と。地面に両手、両膝をついて、大粒の涙をこぼした。
あたりは、しん、と静まりかえった。
打つ手がない。
ただ、ルシファーがわずかでも彼女の体を逸れてくれることを祈るしかない。
しかし、あのレーザーはミリ単位で、正確にルシファーの進行場所を指し示している。
絶望的な空気があたりを包む。
ルシファーからの距離はもう、百メートルを切っていた。
(……鉄骨はどかせない。だったら、ルシファーを止めるしかないのか……)
しかし、それが不可能である事を、達也は知っていた。
海上自衛隊の砲撃にびくともせず、山脈をも貫くほど強大な力を持ったルシファー。ここにいる人間だけで止められるはずがない。
だが、何とかしないと杏奈は死ぬ。どうあっても、何とかしなければならないのだ。
(理不尽だ……あんな小さな玉がすべてを貫くとんでもないパワーを持っているというのに、僕らにはこの鉄骨をどけるだけの力すら……)
そのとき、達也の中で、電撃のような閃きが走った。そしてテレビで見た、あの少女の実験が思い出される。
彼女は、ルシファーにレジ袋をかぶせ、引っ張ろうとして逆に引きずられていた。
ルシファーは止めることはできないが、袋状の物をかぶせることにより、逆にルシファー自身に何かを引っ張らせることはできるのだ。
彼は立ち上がると、すぐにトレーラーの運転手の元へ駆け寄った。
「もっと長いワイヤー、ありますか!」
「あ、ああ……そこに……」
指さされたその箇所には、先ほどの中継車に引っ張らせたものよりも太く長いワイヤーが無造作に置かれていた。
「これ、借ります!」
達也は言うが早いか、ワイヤーの一方の端を鉄骨側フックに通し、そのまま伸ばしていき、まず杏奈から歩道沿いに十メートルほど離れた電柱に掛けた。
そこで九十度以上向きを変え、もう一方の端を持ったまま道路を横断し、そして御神木をぐるりと百八十度巻き込むように引っかけたところで、ほぼワイヤーの長さが尽きて、ピンと張った状態になった。
上から見たならば、ワイヤーは、鉄骨、電柱、御神木を頂点とした垂直三角形の辺のようになっている。ただ、御神木から鉄骨までは距離が足りていない。
ルシファーは南からやってきて、正確に、ご神木の脇を通り抜け、杏奈の現在居る、鉄骨の下を通ることが分かっている。
「ルシファーに鉄骨を引っ張らせるんだ!」
達也の叫ぶようなその言葉に、そこにいる警察官やテレビ局のスタッフ、そしてトレーラー運転手も、彼が何を考えているかを理解し、そしてその発想に驚嘆した。




