第七話「神の前で胸張れますか」
礼拝堂に、夕の鐘が響いた。
祈りを終えた生徒たちが、ぽつぽつと外へ出ていく。その流れに逆らうように、アルノルドは中へ入った。
最後の一人が出ていくのを待って、扉を閉める。
祭壇の前、まだ一人残っている人影があった。セシルだ。組んだ手に額を当てて、静かに祈っている。穏やかで、清廉で、この場所に一番似合う人間だとアルノルドは思った。
だからこそ、今の状況が惜しかった。
足音を立てて近づくと、セシルが顔を上げた。
「……アルノルド殿。珍しいところで」
「少し話をしたかった。時間をもらえるか」
セシルは微笑んで、隣の席を示した。
アルノルドは腰を下ろした。二人並んで、祭壇を見る。
しばらく、沈黙が続いた。
礼拝堂は静かだった。外の喧騒が、遠く聞こえる。
アルノルドは祭壇を見たまま、口を開いた。
「セシル。誰かに肩入れするということが、どれほど怖いことか――考えたことがあるか」
「……怖いこと、ですか」
セシルは穏やかに聞いている。アルノルドは続けた。
「一度偏れば、次も偏る。それだけじゃない。今後も同じことが起きうるということだ」
「……」
「権力が目の前にちらついた時。金が動いた時。地位や名誉が絡んだ時。その時も、お前は自分を強く持てるか」
セシルの指が、わずかに動いた。
「偏るやつには、それができない。一度傾いた天秤は、また傾く。歯止めが利かなくなる」
アルノルドは、静かに続けた。
「金をもらったから、こいつを優遇しよう。自分と近しいから、こいつを優先しよう」
声は責めていない。ただ、真剣だった。
「そういうことが積み重なった時――誰が神を信じる」
「……」
「偏るということは、自分が中心になっているということだ。信仰は、二の次になっているということだ」
セシルの表情が、微かに揺れた。
「お前が今やっていることは、自分では気づいていないかもしれない。でも傍から見れば、お前が一番不平等を推進している」
礼拝堂に、言葉が静かに落ちた。
セシルは口を開こうとした。しかし言葉が出なかった。
アルノルドは続けた。
「平等という物差しを、自分で測っているうちは無理だ」
「……どういう、意味ですか」
「自分が正しいと思った時点で、その物差しは歪んでいる。平等とは、自分の外にある基準で測るものだ。お前が信じてきた神の前では、全ての人間は等しいはずだろう」
セシルの組んだ手が、ゆっくりと解けた。
アルノルドは最後に、真正面からセシルの目を見た。
「今のお前の行いを――神の前で、胸を張って語れるか」
長い沈黙が落ちた。
礼拝堂に、風が通り抜けた。燭台の炎が、わずかに揺れた。
セシルは、ゆっくりと――目を逸らした。
その視線は、祭壇の上の神ではなく、自分の膝の上に落ちていた。
組み直した手が、小さく震えていた。
アルノルドは立ち上がった。
何も言わずに、礼拝堂を出ようとした。
扉に手をかけた時、セシルの声が背中に届いた。
「……アルノルド殿」
「何だ」
「あなたは、どうして――」
セシルは続けようとして、止まった。
アルノルドは振り返らずに答えた。
「間違っている時に、正面からぶつかってきてくれる人間がいる。それがどれほどありがたいことか、私は身をもって知っている」
扉が、静かに閉まった。
◆◆◆
渡り廊下の角。
夕暮れが、すっかり夜に変わりかけていた。
エリゼはいつも通り、柱に背を預けて立っていた。しかし今日は、少しだけ表情が違った。
「どやった」
「目を逸らした。震えていた」
「……そか」
エリゼは空を見上げた。
「セシルは、本物の信仰を持っとるやつや。だからこそ、自分の矛盾に気づいた時が一番しんどい」
「……」
「でも、それを乗り越えたやつだけが、本物になれる」
しばらく沈黙が続いた。
アルノルドは夜空を見ながら、ぽつりと言った。
「四人、全員と話した」
「うん」
「全員、目を逸らした」
「うん」
エリゼは少しだけ笑った。
「よう頑張ったな」
それだけだった。
褒め言葉でも、労いでもない。ただ、そう言った。
アルノルドは何も言わなかった。
しかし、その一言が、今日一番胸に響いた。




