桜は舞い散り、
カンっと、教科書が背表紙から落ちた音。静粛な教室に響いたその音で、私の意識は朧げながらも覚醒した。太ももを制服ズボン越しにつねり、黒板の左上辺りにある掛け時計を見る。
…十分ほどの時間のズレを認識し、自分は授業中に熟睡していたのだと気づく。視線を少し右下にずらすと、板書を書き進める先生が視界に入った。ようやく焦りを感じた私は、板書ノートと黒板を見比べる。
よかった、そんなに進んでない。
そう思い、ペンをしっかりと握ったタイミングで先生が振り返る。
「そうだなぁ、じゃあこのクラスの野球部に…。…おーい、起きろ甘城」
呆れたような口調で、教卓から対象に呼びかける。…それは私ではなく、右前。
肘をついて支えられていた上体が、ビクッと反応を見せた。そして、ふにゃふにゃと聞き取れないことを言って、目を擦るような仕草をする。
先生は彼女の意識の覚醒を待っているのか、声をかけてから数秒、空白の時間を作った。その間、耳に残ったふにゃふにゃ声が脳内で何度も再生されて、ようやく彼女がなんて言ったか見当がついた。多分"寝てませんよ"だ。
…ずいぶんと無理がある。
「起きたなら質問。baseball、を野球と翻訳したのは誰だ?」
妙に癇に障る発音が、クラスの失笑を引き起こす。笑いが消えるまでの数秒を、この教師はシンキングタイムとしてよく扱っている。
だから、私はこの時間中に有名な歌人の名を心の奥底で唱えた。
一方当てられた彼女はというと、黒板の右端の方に書かれた作品名とその歌人の名前を見た。
クラスの笑いは収まり、"えっと"とタイミングを見計らってから、甘城は口を開く。
「…正岡子規ですか?」
「おーし、誰かが正解するまで立っとけ」
納得がいかないと言いたげに首を傾げながらも、仕方なしと立つ彼女。引っ掛けれた事が嬉しいのか、子供のように笑いながら次を当てようとする教師。
ほんの少し、クラスがざわつく。…嬉々として前の席に話しかけている奴は、きっと正解を知っているのだろう。
しかし、ざわつきの間に教師の表情は変わる。その理由は、直後の問いから察せた。
「あれ?このクラスの野球部、甘城だけか?」
首を傾げる教師に、首を縦に振る天宮。直後、教師の目線がこちらの方へと移る。そして、絶望感が脳を満たすより先にその口は開いた。
「なら一瀬、回答。あと、もう目は覚めたか?」
…残り五分か。時計を見た私は、心の中でそう呟く。そして一言、"分からないです"と答えた。
「きりーつ、れーい」
いつもと比べておとなしい掛け声に、ありがとうございましたと、クラス皆で声を合わせ一礼。
つい、下げた頭を上げて、その声の方向を見てしまう。いつもと違い、日直が号令役だった。
そこでようやく、このクラスの委員長であり、私の友人の依光舞が休みだったことを思い出した。
…今日は寄り道でもして帰るかな、一人だし。そう考えつつ、私はのんびり帰る準備をし始めた。すると、すぐにガラガラッと教室の引き違い戸が開かれる音がしたので、視線は反射的にそちらの方へ向く。
ボストンバッグを肩に掛けて、ダッシュで教室を出て行く生徒が数人。自前のリュックを背負い、手提げ鞄を持って駆けていくのも数人。
ボストンバックの方には、野球部員の天宮もいた。
「おーい、あぶねぇから走るなー」
おおよそ教室内にいる人にしか聞こえないだろう教師の声で我に返った私は、視線を自分のカバンに向けなおす。そういえば今日数学から宿題が出てたっけな、とか考えながら。
後ろの個人ロッカーに教科書を取りに行くと、左の方から小さい割に良く通る声が聞こえてきた。
アニメ声と表現すれば良いのだろうか、クラスのガヤガヤとした音とは決定的にどこか違う、そんな声。
「すみませーん。桜花ちゃ…、一瀬さんはいますかー?」
ただの言い直しだろうが、名前と苗字両方ともを使って呼び掛けられた私は、聞き覚えのある声に対し小さくため息を一つ吐いてからその方向を向く。
オレンジ色の明るい髪は、オドオドとした声色と共に私を呼んだ二年生のもの。教室の引き違い戸を両手で押さえている彼女の方へと、私はスタスタと近寄る。
「…何の用ですか、双葉さん」
「ちょっと相談したいことがあって、よかったら話だけでも聞いて欲しいなぁって…」
この学校の野球部に所属していて、私の経歴を知っていた彼女は、私に対して熱烈なスカウトを行った過去がある。
だけれど、当時の私はその誘いを一蹴した。
それから一ヶ月ほどが経ち、今日が久々の再会。当然、そんな経緯があったものなので、それが心躍るものとは到底言えない。正直、適当な理由をつけて話を聞くことすら断りたいと思うほどに。
…それでも、決着をつけるきっかけとして見るなら、丁度いいかもしれないとも思った。
「…ここじゃ邪魔になるんで、自販機室で話しましょう。荷物纏めたいんで、先行っててください」
だから、私はまだたくさんの人が残っている教室を一瞥しながら、ほんの少し早口でそう言った。




