第二十六話「縁の話」
>視点座標:第4,441番世界線 現代期 ある都市
>話者:四名(本人・友人A・友人B・隣人C)
>記録取得方法:神経活動から直接抽出
>記録期間:扉の目撃から各自の回収まで
——一「本人・女性・二十四歳」
扉を見た。
路地の奥に、扉があった。
古い木の扉だった。
路地の突き当たりの壁に、扉があった。
壁に扉があるのはおかしかった。
向こう側に何があるのかが分からなかった。
扉が少し開いていた。
隙間から、黄色い光が漏れていた。
甘い匂いがした。
走った。
路地から出た。
走って、走って、家に帰った。
扉のことを、友人二人に話した。
話さずにいられなかった。
その夜から、テレビがおかしかった。
映像が乱れた。
乱れた映像の中に、黒い服を着た子どもが映った。
笑顔があった。笑顔の中に、何も入っていなかった。
三日目の夜、テレビの電源を抜いた。
電源を抜いたのに、テレビがついた。
画面が膨らんだ。
膨らんだガラスから、手が出た。
腕が出た。肩が出た。頭が出た。
テレビの画面から、子どもが這い出てきた。
這い出た子どもが、床に立った。
目の焦点が、五センチ奥にあった。
笑顔だった。
一歩、近づいてきた。
急いでいなかった。全く急いでいなかった。
「い——」と言おうとした。声が出なかった。
——二「友人A・男性・二十五歳」
本人の部屋に駆けつけた翌日、部屋に誰もいなかった。
テレビが割れていた。
内側から割れていた。
ガラスの破片が、テレビの前の床に散らばっていた。
内側から何かが出てきた形の割れ方だった。
本人がいなかった。
警察に通報した。
警察が来た。
警察が「何か心当たりは」と聞いた。
「ぱんでむの扉を見たと言っていた」と答えた。
警察が「ぱんでむ?」と聞いた。
説明した。路地の扉のことを。黄色い光のことを。甘い匂いのことを。
警察が記録した。
でも、警察が「関係ないでしょう」という顔をしていた。
帰り道、考えた。
テレビから何かが出てきた。
テレビの画面から出てきた。
鏡面から来る、と思った。
反射する面から来る、と思った。
根拠はなかった。でも怖かった。
家に帰って、全部塞いだ。
洗面台の鏡。玄関の姿見。テレビの画面。スマートフォンの画面。
窓ガラス。食器棚のガラス扉。時計のガラス。
鏡面になり得る全てを布で巻いた。アルミホイルで覆った。
光が反射する面を全て遮断した。
完璧だと思った。
布団に入った。
目を閉じた。
三時間後、肩を叩かれた。
後ろから、肩を叩かれた。
振り返った。
黒い服を着た子どもが立っていた。
笑顔だった。笑顔の中に、何も入っていなかった。
「鏡面を全部塞いだんですね」と子どもが言った。感情の温度がなかった。
「どこから入ってきた」と言った。
「扉から」と子どもが言った。
「扉は全部施錠してある」と言った。
「扉であれば、どこでも」と子どもが言った。
部屋のドアを見た。閉まっていた。鍵がかかっていた。
「扉を見ていなければ関係ないと思いましたか」と子どもが言った。
答えられなかった。
「ぱんでむの存在を知った瞬間に、もう縁は結ばれているのですよ」と子どもが言った。
笑顔のまま、一歩近づいてきた。
急いでいなかった。
——三「友人B・女性・二十三歳」
本人が消えた。Aも消えた。
Aの部屋に行った。
アルミホイルが貼られた窓。布で巻かれた鏡。覆われたテレビ。
全部塞いでも来た。
では鏡面が問題なのではない。
扉が問題だ。
Aが「扉から入った」と言われたと、Aが消える前日に話してくれていた。
扉をなくせばいい。
扉のない空間に入ればいい。
考えた末に、大型の金属タンクを用意した。
直径一メートル、高さ一・五メートル。
内部に酸素ボンベと食料を入れた。
タンクの中に入った。
蓋を閉めた。
内側から溶接した。
扉の機構がない。蓋は扉ではない。
完璧だと思った。
でも——本当に完璧か。
完璧だと思ったところで来るのかもしれない。
Aも完璧だと思って失敗した。
私は最初から、完璧ではないかもしれないと思っていた。
完璧ではないかもしれないと思いながら、それでも入った。
他に方法がなかった。
暗いタンクの中で、膝を抱えた。
三時間後、声が聞こえた。
タンクの外からではなかった。
頭の中から聞こえた。
「タンクの中にいるんですね」と声が言った。
やっぱり来た、と思った。
完璧ではなかった。
「頭の中に入るのに、扉は必要ないのです」と声が言った。
やっぱりそうか、と思った。
「扉を見ていなければ関係ないと思いましたか」と声が言った。
「思っていませんでした」と答えた。
「そうですか」と声が言った。
「ぱんでむの存在を知った瞬間に、もう縁は結ばれているのですよ」と声が言った。
「知っていました」と答えた。
声が少し止まった。
「それでも入ったんですか」と声が言った。
「他に方法がなかった」と答えた。
声が何も言わなかった。
しばらく沈黙があった。
それから、声が頭の中に広がり始めた。
思考が声で埋まっていった。
タンクの内壁に指で書いた。
「頭の中に声が」
続きを書こうとした。
思考が、声に置き換わっていた。
——四「隣人C・男性・四十一歳 (本人・A・Bとは無関係)」
隣の部屋で失踪事件があった。
警察が来て、廊下で話していた。
自分は関係なかった。
廊下を通る時に、少し聞こえてしまった。
聞こうとしたわけではなかった。
廊下を歩いていたら、聞こえてしまった。
「ぱんでむ」という言葉が聞こえた。
意味は分からなかった。
一秒も気にしなかった。
翌日には完全に忘れていた。
一ヶ月後も忘れていた。
完全に忘れていた。
忘れた状態で、普通に生活していた。
ある夜、テレビを見ていた。
画面が乱れた。
「あれ」と思った。
それだけだった。
翌朝、出勤しようとした。
玄関のドアを開けた。
廊下ではなかった。
黄色い光があった。
甘い匂いがした。
「え」と思った。
それだけだった。
後ろから、声がした。
「いらっしゃいませ」と声が言った。
振り返った。
黒い服を着た子どもが立っていた。
笑顔だった。笑顔の中に、何も入っていなかった。
「私、何もしていません」と言った。「関係ないはずです」
「扉を見ていなければ関係ないと思いましたか」と子どもが言った。
「見ていません」と言った。「何も知りません」
「少し、聞こえてしまいましたね」と子どもが言った。
「忘れました」と言った。「完全に忘れていました」
「忘れていても」と子どもが言った。「縁は残ります」
「そんな」と言いかけた。
「ぱんでむの存在を知った瞬間に、もう縁は結ばれているのですよ」と子どもが言った。
「知ったつもりもありませんでした」と言った。「一瞬聞こえただけです」
子どもが笑顔のまま、一歩近づいてきた。
急いでいなかった。
「知っていても、知らなくても」と子どもが言った。「聞こえていても、忘れていても」
また一歩。
「縁は、こちらが決めます」
——五「記録・同日 同時刻」
同じ夜に、この都市で失踪が起きた。
隣人Cが消えた時刻と、同じ時刻に。
同時刻に、この都市の別の場所でも消えた。
また別の場所でも消えた。
また別の場所でも消えた。
失踪者の一覧を、翌日の記録から抽出する。
警察官・男性・三十一歳。本人の失踪を最初に受理した担当者。捜査中に「ぱんでむ」という単語を聴取していた。
警察官・女性・二十七歳。Aの失踪現場を調査した担当者。捜査メモに「ぱんでむ(意味不明)」と記録していた。
警察官・男性・四十三歳。Bのタンクを切断して開けた担当者。現場で同僚から経緯を聴いていた。
検察官・男性・五十一歳。三件の失踪を関連事案として処理した担当者。案件名にぱんでむという語を含むファイルを開いていた。
記者・女性・二十八歳。失踪事件を取材していた。取材ノートに「ぱんでむとは何か」と書いていた。
記者・男性・三十三歳。同じ事件を取材していた。担当記者と情報共有をしていた。
記者の上司・男性・四十八歳。記事の掲載可否を判断するために記事原稿を読んでいた。原稿に「ぱんでむ」という単語が含まれていた。
近隣住民・複数。警察が聞き込みをした際に、話の断片を耳にした者たち。
野次馬・複数。現場の前を通りかかった際に、会話の断片を聞いた者たち。
SNSで拡散を見た者・多数。事件がSNSに投稿されていた。投稿に「ぱんでむ」という単語が含まれていた。
閲覧数:四万七千三百二十一。
同時刻に失踪した者の総数:
集計中。
集計が追いつかなかった。
集計している者も、集計中に消えた。
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補充記録No.026
分類:縁結合型蒐集(知識汚染・偶発的聴取・二次三次伝播経由)
大規模同時回収
担当クルー:複数
各話者の縁結合の経緯:
本人:
路地の扉を目撃した時点で縁が結合。
テレビ画面からの回収を実施。
担当:黒い制服・金色のMのバッジ・笑顔・テレビ画面から這い出た。
友人A:
本人から直接話を聴いた時点で縁が伝播・結合。
本人の失踪現場を確認した後、鏡面遮断の対策を試みた。
部屋のドアを経由して回収。
担当:黒い服の子ども・肩を叩いた。
友人B:
本人・Aの両方から話を聴いた時点で縁が二重結合。
AがCに語った失踪状況を踏まえ、タンク密閉の対策を試みた。
縁が結合している個体への頭部直接接続は扉を必要としない。
「知っていました」「他に方法がなかった」という発言を記録した。
担当:声のみ・頭部に直接。
隣人C:
廊下で「ぱんでむ」という単語を一瞬聴取した時点で縁が結合。
意図的な聴取ではなかった。記憶への定着もなかった。
玄関ドアを経由して回収。
担当:黒い服の子ども・笑顔・「いらっしゃいませ」。
同時回収された者たちの縁結合の経緯:
捜査関係者への縁の伝播は、
「ぱんでむ」という単語を職務上聴取・記録・閲覧した
全ての者に自動的に発生した。
記事の閲覧者への縁の伝播は、
「ぱんでむ」という単語を含む投稿を
表示した全ての者に自動的に発生した。
閲覧数四万七千三百二十一のうち、
単語を認識した者:全員。
認識しなかった者:零名。
同時回収を実施した理由:
縁の結合から回収までの期間は通常、
素材の熟成を待つために設ける。
今回は熟成を待たずに一斉回収とした。
理由:伝播の連鎖が加速しており、
これ以上の放置は管理不能な規模になると判断した。
素材の一部は熟成不足だったが、
量で補った。
担当クルーについて:
本件に関与したクルーの識別情報については記録しない。
ただし、テレビ画面から這い出たこと、
鏡面を全部塞いでも扉から入ったこと、
扉なしで頭の中に直接来たこと、
「いらっしゃいませ」と言ったこと、
以上は記録する。
縁の定義について:
縁は、M社が一方的に決定する。
対象が縁を望むかどうかは関係ない。
対象が縁を認識しているかどうかは関係ない。
対象が縁を忘れているかどうかは関係ない。
一瞬聞こえただけでも、関係ない。
この記録を読んだ者にも、縁は結合する。
読んだことを忘れても、縁は残る。
集計している者も消えた。
集計は終わらない。
在庫切れ、なし。
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