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第十三話 「楽しければヨシ」


> 視点座標:複数 時代不定 場所不定

> 話者:複数

> 記録取得方法:接触後の神経残存から自動抽出

> 注記:本記録の話者たちは、記録を残せた段階では「まだ残っているものがあった」。

>    残っているものが何もなくなった者は記録を残せない。

>    以下は、残せた者の記録である。




——一「現代 ある国の住宅街 会社員・男性・三十八歳」


猫がいた。


紫と黒の毛色をした猫が、マンションのエントランスの前に座っていた。


大きな目で、こちらを見ていた。


しゃがんで、頭を撫でた。


猫が目を細めた。喉を鳴らした。


甘い匂いがした。


「かわいいな」と思った。


喉の音が、少し大きくなった。


熱くも冷たくもない何かが、手のひらから上がってきた。感触はなかった。でも確かに、上がってきた。


頭の中から、何かが抜けた。


抜けた、という感触はなかった。


ただ、さっきまで考えていたことが出てこなくなっていた。


今日の会議の資料。上司への報告。来月の計画。


全部、出てこなくなっていた。


でも困らなかった。


困るという感覚が、どこかに行っていたから。


猫が喉を鳴らし続けていた。


甘い匂いが、少し濃くなった。




——二「同日 同マンション 隣の部屋 女性・三十五歳」


隣の人がおかしい。


壁越しに声が聞こえる。


笑い声だ。


一人で笑っている。


普通の笑い声ではない。


笑いのトーンが変わっていない。最初から今まで、ずっと同じトーンで笑っている。


笑い始めてから四時間が経つ。


笑い声が止まらない。


心配になってドアをノックした。


返事がなかった。


ドアを開けた。


隣の人が床に座っていた。


笑っていた。


膝を抱えて、壁に背をつけて、笑っていた。


目が開いていた。


焦点が、合う場所より少し奥にあった。


名前を呼んだ。


笑い声が止まらなかった。


肩を揺らした。


笑い声が止まらなかった。


部屋の隅に、紫と黒の毛が数本、落ちていた。


拾おうとした。


拾った瞬間に、部屋の中の温度が変わった。


変わったという感触はなかった。


ただ、さっきまで心配していたことが、出てこなくなっていた。


「楽しければいい」と思った。


なぜそう思ったか分からなかった。


でも、そう思った。


笑い声が、一つ増えた。




——三「翌日 同マンション 管理人・男性・六十一歳」


二〇三号室と二〇四号室から、笑い声が一晩中していた。


入居者への苦情が来ていた。


朝、確認に行った。


ドアをノックした。


返事がなかった。


マスターキーで開けた。


二〇三号室に入った。


男性が床に座っていた。笑っていた。


台所の水が出しっぱなしになっていた。


テレビがついていた。


食べかけの食事がテーブルに置いてあった。


男性を揺らした。


笑い声が止まらなかった。


焦点が合う場所の奥にある目が、こちらを向いた。


でも私を見ていなかった。


二〇四号室に移動した。


女性が床に座っていた。笑っていた。


二人が同じ姿勢で、同じトーンで笑っていた。


救急車を呼もうとした。


スマートフォンを取り出した。


廊下に出た。


廊下の端に、猫が座っていた。


紫と黒の毛色の猫だった。


こちらを見ていた。


目が、大きかった。


喉を鳴らし始めた。


スマートフォンを持ったまま、立ち止まった。


喉の音が、少し大きくなった。


スマートフォンのロック画面に、妻の顔の写真があった。


子どもの顔の写真があった。


写真を見た。


見たのに、名前が出てこなかった。


三秒前まで知っていたはずの名前が、出てこなかった。


猫が、一歩近づいた。急いでいなかった。


スマートフォンが、廊下の床に落ちた。




——四「三日後 同マンション 警察官・女性・二十九歳」


異常通報を受けて来た。


三日間、住人から連絡が取れないという通報だった。


マンションの前に車を止めた。


エントランスに向かった。


エントランスの前に、猫が座っていた。


紫と黒の毛色の猫だった。


大きな目で、こちらを見ていた。


かわいい、と思った。


思った瞬間に、止まった。


かわいいという感情が、今この場所で生まれることがおかしいと思った。


思った瞬間に、止まった。


かわいいという感情が、今この場所で生まれることがおかしいと——


思考が、同じ場所を回っていた。


回っていることに気づいた。


気づいた瞬間に、猫が喉を鳴らし始めた。


思考が止まった。


無線機を手に取った。


何かを言おうとした。


言葉が、出てこなかった。


言葉の使い方を、忘れていた。


猫が一歩、近づいた。急いでいなかった。


ゆっくり、喉を鳴らしながら、近づいてきた。


無線機を、落とした。


笑い声が、また一つ増えた。




——五「一週間後 マンション全体」


マンションから、笑い声がしていた。


一週間前から、笑い声がしていた。


昼も夜も、笑い声がしていた。


笑い声の数が、増えていた。


最初は二つだった。


今は、全部の部屋から笑い声がしていた。


全部の部屋の電気がついていた。


全部の部屋に人がいた。


全員が笑っていた。


マンションの外を、人が通った。


エントランスの前に、猫が座っていた。


人が立ち止まった。


しゃがんだ。


猫が喉を鳴らした。


また一つ、増えた。




——六「二週間後 周辺の街区」


笑い声が、街に広がっていた。





────────────────────────────────

補充記録 No.013

分類:思考停止型・連鎖感染(漸進的猫化)複数個体一括

担当クルー:安寧

供給先:因果律プレス工場 第七圧縮区画


本件の経緯:

 安寧が待機中、入居者一名が接触。

 絶対的安心フィールドの展開を確認。

 以降、連鎖感染が自動的に進行。

 安寧の介入は初回の一名のみ。

 残りは感染した個体が互いに接触することで伝播した。


漸進的猫化の進行段階:

 段階一:思考速度の低下(「楽しければいい」の受容)

 段階二:複雑な概念の消失(名前・計画・心配)

 段階三:身体機能の猫的再編(立ち方の忘却・声の変質)

 段階四:笑い声のみが残存する状態

 段階五:笑い声すら出なくなる状態(回収対象)


現在の段階分布:

 段階四:マンション全入居者(三十七名)および

     関係者(管理人・警察官・その他)十一名

 段階五:〇名(予測:七日以内に初例発生)

 

安寧の現在位置:周辺街区 待機中

次の接触予定:通行人への自然接触(撫でられることで発動)

 

「楽しければヨシ」という認識を受容した個体は

 自発的に他の個体へフィールドを伝播させる。

 安寧が直接接触しなくても、感染は広がる。

 これが安寧の最も効率的な稼働形態である。

 

 笑い声が止まらない理由:

  複雑な感情を処理する機能が停止した後、

  「楽しい」という原始的な信号だけが残る。

  残った信号が、出口として笑い声を選ぶ。

  笑い声が止まるのは、その信号も尽きた時だ。

  その時が、回収の時だ。


安寧の稼働評価:最高効率

介入の必要:なし

安寧は今日も楽しそうにしている。


在庫切れ、なし。

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