第一話「午前三時の検品」
本記録は、nの次元が接続するあらゆる時間軸・あらゆる世界線・あらゆる次元・あらゆる多元宇宙の、あらゆる場所において回収された魂の、最終記録である。
記録者は存在しない。
記録される側だけが、いる。
最初に気づいたのは、レジの釣り銭の重さだった。
百円玉の重さが、ある夜を境に変わった。正確に言うと、硬貨の重さは変わっていない。変わったのは、受け取った瞬間に感じる「引力」の感触だった。床の方に引っ張られる力が、少しだけ強い。一円だけ、重力が余分にかかっているような感じがした。でも三時間後にはそれも忘れて、次の客が来た。
コンビニの深夜シフトは二人体制だ。もう一人は田沼さんという四十代の男で、五年前からここに来ているらしかった。「らしかった」というのは、僕が去年の四月からここで働き始めた時点で、田沼さんはすでに壁の一部みたいな存在感で勤務していたからだ。背が高くて、口数が少なくて、ホットスナックの補充の早さだけが突出していた。人間としての記憶がほとんどない人間、という印象だった。悪い意味ではない。ただ、ここに馴染みすぎていた。
その田沼さんが、ある夜、バックヤードに引っ込んで出てこなかった。
「体調が悪い」と言ったのは二時間前だった。「少し座ってていいですか」という声を最後に、足音が遠ざかった。二時間後に呼びに行くと、段ボールの山の奥に座っていた。床の上に直接、膝を抱えて座っていた。目が開いていた。瞬きもしていた。呼吸もしていた。でも、名前を呼んでも、肩を軽く揺らしても、何も変わらなかった。
目の焦点が、人の目が合う場所より、五センチくらい奥にあった。
壁の向こうを見ている目だった。
僕は一人でレジに戻った。それが正しい判断だったのかどうか、今でも分からない。
異変が本格化したのは、その夜の深夜二時十七分だった。
ガラス扉が開いて、客が入ってきた。
制服姿の女の子だった。黒いワンピース型の制服で、胸のところに小さなバッジが付いていた。金色の「M」の字。バッジはエナメルで塗られていて、厨房の蛍光灯を受けて光っていたが、その光の量が、バッジのサイズに対して少し多すぎた。「いらっしゃいませ」と言ったら、彼女は微笑んだ。
スマイルが、物理的に明るかった。
蛍光灯の光とは別の何かが、笑顔から出ていた。網膜に直接書き込まれるような光だった。それを見た瞬間、レジカウンターの向こうに立っているのが自分だという感覚が、○・五秒くらい消えた。
「確認作業に来ました」と彼女は言った。声は穏やかで、丁寧で、でも感情の温度がなかった。
「確認作業?」
「ええ。このエリアの在庫状況の確認です。問題ありませんか」
「えっと、何の在庫ですか」
「魂の在庫です」
レジの画面を確認するふりをした。手元の釣り銭ケースを見た。百円玉が並んでいた。何も考えることができなかったので、そのまま正直に答えた。
「……僕は今、生きてますが」
「ええ」
「じゃあ在庫じゃないですよね」
「今は、そうですね」
「今は、という言い方ですね」
「ええ」
今は、という言葉の使い方が、引っかかった。でも何を引っかかったのか言語化できなかった。
彼女はレジカウンターに一枚の紙を置いた。A4の白紙に、縦の長い表が印刷されていた。表の中身はほとんど読めなかったが、一番上の項目だけ読めた。太字で、ゴシック体で、印字されていた。
「 回収予定日時:測定不能」
「何ですか、これ」
「業務記録の控えです。お渡しする決まりになっていまして」
「誰への」
「回収対象者への」
「誰が対象なんですか」
「田沼さんです」と彼女は言った。「九百三十七回目の補充申請が、今夜付で受理されました」
その言葉を受け取った瞬間、背後のバックヤードで、何かが倒れる音がした。
振り返ったら、バックヤードへの扉の隙間から、薄い煙のようなものが流れ出ていた。灰色の煙だったが、なぜか甘い匂いがした。揚げたてのフライドポテトの匂いに似ていた。深夜のコンビニにそういう匂いが来るのは少しおかしかったが、それより先に体が動いていた。
扉を開けた。
バックヤードに、田沼さんはいなかった。
床に、田沼さんが使っていたエプロンが畳んで置いてあった。名札も、財布も、スマートフォンも、全部エプロンの上にきれいに並べてあった。財布の中身を確認した。免許証。保険証。千円札が二枚。レシートが一枚。全部あった。
本人だけがいなかった。
出口はバックヤードの非常口しかなく、開けると外のアラームが鳴る仕組みだった。アラームは鳴っていなかった。
振り返って彼女に聞こうとしたら、コンビニの中に彼女はいなかった。ガラス扉が開いた音も聞こえなかった。外を確認したが、駐車場には誰もいなかった。
警察に電話した。
田沼さんの失踪として扱われた。防犯カメラの映像を確認した。午前二時十七分から二時二十三分まで、僕一人が無人の店内に立っている映像だった。その時間帯に田沼さんが映っていないのは、バックヤードにいたからだと思われた。
でも、確認した映像の中に、田沼さんの姿は一秒も映っていなかった。
バックヤードの映像も確認した。田沼さんが「体調が悪い」と言ってバックヤードに入った映像は確認できた。でもその直後から、カメラの田沼さんが映るべき部分に、田沼さんの姿がなかった。エプロンが、段ボールの上に浮いた状態で畳まれていく様子が映っていた。財布が、エプロンの上に移動していく様子が映っていた。スマートフォンが、財布の上に置かれていく様子が映っていた。
それを実行している手が、映っていなかった。
映像を解析に回した。誰も何も言えなかった。
田沼さんが失踪してから一週間が経った。
捜索は続いていたが、手がかりはなかった。捜索と並行して、シフトの穴を埋めるための求人が出た。
三週間後、新しいスタッフが採用された。
四十代の男性で、名前は田南さんといった。五年くらい前からコンビニでのアルバイトを探していたが、なかなか良い職場がなくて、と言っていた。顔つきがよく似ていた。髪の生え方も、目の形も、肩の幅も。でも同じ人間だと言う根拠は何もなかったし、そもそも田沼さんの顔を正確に覚えていなかったことに、その時気づいた。
「よろしくお願いします」と言いながら握手してきた手のひらが、硬貨のような重さをしていた。
「よろしくお願いします」と僕は言った。
ホットスナックの補充の早さが、田沼さんと同じだった。
その夜から、百円玉の重さがまた変わった。
今度は気にしないことにした。
気にしないことにしたのが正しい判断だったのかどうか、今でも分からない。
ただ、なんとなく、田南さんも長く勤めそうな気がしていた。
後から気づいたことが、一つある。
田南さんが初出勤した翌朝、店の防犯カメラの映像履歴を確認する機会があった。
システムの不具合で、過去五年分の映像が全部ロードされてしまった。
流し見をしていたら、止まった。
五年前の映像に、田南さんが映っていた。
田沼さんが初出勤した日として記録されている日付の映像に、田南さんの顔が映っていた。
五年間、一度も会ったことがないはずの人間の顔が、五年前の映像にあった。
田沼さんとして記録されたすべての映像に、田南さんの顔が映っていた。
田沼さんの顔は、どこにも存在しなかった。
五年間、ここにいた人間の顔が、記録上のどこにも存在しなかった。
記憶の中にも、映像の中にも、名札の控えの中にも。
そこにいたのに、いた記録がなかった。
カウンターのレジを確認した。
釣り銭ケースの中に、百円玉が並んでいた。
一枚だけ、重さが違う硬貨があった。
裏返したら、Mの字が刻まれていた。
刻まれた字の周囲が、ほんの少しだけ、金色に光っていた。
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補充記録 No.001
分類:生体部品(歯車型・精密駆動用)
供給先:因果律プレス工場 第七圧縮区画
処理完了時刻:測定不能
備考:対象は記録上、「田沼」として存在した五年間を含め、
当該施設への配属前より補充プロセス下にあった。
後任「田南」の補充申請は既に受理済み。
観測者(大石)の処理については、現時点では留保。
在庫切れ、なし。
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