道化余話 管理官と豊原の娘たち 前編
小野健一警視庁刑事部管理官の朝は早いはずだった。
文京区白山駅近くのマンションは前藤の紹介で入居したのだが、地下鉄で通勤ができるのが小野にとってはありがたかったのだ。
かつての職場だった九段下交番なら、都営三田線を使えば神保町駅で乗り換えればすぐだし、今の職場である警視庁ならば日比谷駅から散歩ついでに歩いて行ける。
身の回りのものは少ないが、散らかってもいない。
そんな中年男の、部屋で着替え、コンビニで朝食を買って出る――そのいつもの流れが崩壊したのは、マンションの前にとめられた白のセダンとにこやかな笑顔で待っていた女性のおかげだった。
「おはようございます。小野管理官。
今日より配属されました、相馬ナタリアと申します」
小野はその顔を見て、まず時計を確認した。
次に白のセダンを見て、最後にもう一度女を見た。
そこまでしてから、露骨に嫌そうな顔をした。
「……夏目か」
「前藤監察官にもご承認いただいております」
「なお悪い。二人して縛りに来たか?」
「遅すぎた管理です」
ナタリアがセダンの後部ドアを開ける。
そこでドアを無視して歩き出すほど偉くなったつもりもない小野は、セダンの後部座席に乗り込んだのである。
近藤俊作のタクシーを使うなら、知った仲もあるし、話も盛り上がる。
それをこのいきなり現れた美人に言う訳にもいかず、彼の乗ったセダンは朝の渋滞に当然のように巻き込まれる。
「ほらな。電車の方が早い」
「ですよね。わざと渋滞に突っ込みましたので」
「何だと?」
声に怒気が乗る小野がバックミラー越しに見たのは、ナタリアの深い深いため息だった。
別れた女房にもされたが、こういう時の女のため息は怒られるよりたちが悪い。
「管理官。
失礼ですが、昨日何をやらかしたかご存じで?」
「何をっていつも通りに警視庁に出勤しただろうが」
「管理官は10時でいいはずですが、お早いんですね」
「8時の交代前に顔を出しておきたいからな。おかげで、いいネタを掴めた」
「はーーーーーーーーーーーーーっ」
はっきりと分かるような大きなため息。
小野は悟った。地雷を踏んだと。
「その“いいネタ”を掴んだせいで、何人が朝から走り回ったと思っているんですか」
ナタリアは怒鳴らなかった。
怒鳴る代わりに、確認事項を読み上げるような声で続ける。
「まず、8時の交代朝礼に管理官が出た時点で、現場が止まります。
元同僚に、かつての先輩がいるとなれば、現場刑事は“上への報告”ではなく“刑事への引継ぎ”を始めます」
小野は口を挟まなかった。
挟めば負けるとまでは思っていないが、目の前の女がそういう流れを作っているのは分かった。
「そこで樺太筋と香港筋の金の動き、九段下の余波、ガサ入れ候補先――その手の“まだ机に乗っていない話”を貴方が聞いた」
ナタリアはそこで一拍置いた。
ため息を呑み込むための間だった。
「そして、貴方は動こうとした。
『なぁに、責任は俺がとるからどんどんやれ!』と言ったそうですね?
その後の朝礼で、一部始終を聞いた刑事部幹部の顔見ていないでしょう?」
「おう。現場に先に乗り込んで待っていたけど、来やしねえと戻ってみたら偉いさんに叱られた」
「はーーーーーーーーーーーーーーーーーっ」
ナタリアのため息は最初より少し長かったが指摘するほど小野も馬鹿ではなかった。
「刑事部が止める。組対も嫌がる。公安は顔をしかめる。夏目署長は前藤監察官に連絡を入れる。
その結果が、今ここです」
「大げさだな」
小野がぼそりと返す。
だがナタリアは即座に切った。
「お忘れのようですが、九段下の件は『なかったこと』になっているんですよ。
どの容疑でガサ入れをするにしても別件になり、根回しが必要なのです」
バックミラー越しの視線が、真っすぐ小野を射抜く。
「管理官。貴方がやったのは、ただ朝礼に顔を出しただけではありません。
春の人事を前にした次期麴町警察署署長が、現場の未整理情報を拾って、自分の足で動こうとしたんです。
警視庁内部の人間がどれだけ青くなったか、少しは想像してください」
朝の渋滞の中、セダンはのろのろと進む。
小野は窓の外を見たまま、小さく鼻を鳴らした。
「……で、前藤と夏目が、お前さんを寄越したと」
「ええ」
ナタリアはあっさり認めた。
「夏目署長は『先輩は放っておくと確実に動く』と。
前藤監察官は『それなら相馬を付けろ』と。
お二人とも、よくご存じでした」
「余計な気遣いだ」
「ええ。ですが、必要な気遣いでもあります」
ナタリアはそこで、ようやく少しだけ笑った。
にこやかだが、全く甘くない笑みだった。
「本日より、貴方が『うっかり現場の匂いを拾って走り出す』事故を防ぐのが私の仕事です。
どうぞ、諦めてください」
ナタリアは否定もしなければ、肯定もしなかった。
ただ、バックミラー越しに小野を見て、わずかに口元だけで笑う。
「美人さん。あんたも前藤の美人さんと同じ『豊原の娘たち』なのかい?」
「……古い呼び名をご存じなんですね」
「前藤の相方を長くやっていれば、それぐらいはな」
軽口を叩く二人のミラー越しの目は笑っていない。
それでも雑談は淡々と続いてゆく。
「美人さん。蒼水ハンナ警部と同じなら、それ相応の星はつけていると見たが……」
「残念ながら、私は星はつけていません。
あくまで秘書兼ドライバーですので」
「そうかい。
じゃあ、前藤の所の美人さんよりはおとなしいのか」
その言葉に、ナタリアは初めて少しだけ眉を動かした。
嫌そうというほど露骨ではないが、面白くはないという顔。
「蒼水警部は現場向きです。
私は補佐向き。それだけの違いです」
「ずいぶんあっさりしてるな」
「事実ですから。
あの人は前に出るのが上手い。私は、前に出た人間が転ばないように段取りを整える方が向いている」
言葉は淡々としていたが、そこに混じる乾いた響きに小野はなんとなく察する。
仲がいい訳ではない。
かといって、互いの仕事を軽んじている訳でもない。
「なるほど。
互いに水と油だが、相手が使えるのは認めてるって顔だな」
「……管理官は、よく人の顔をご覧になりますね」
「刑事だからな」
ナタリアは小さく息を吐いた。
「蒼水警部から見れば、私は机の後ろで仕事をしたがる古い女でしょう。
私から見れば、あの人は前に出すぎる。
ですが、だからといって無能だと思ったことはありません」
「向こうも同じか」
「ええ。
おそらく、癪ではあるでしょうけど」
そこでナタリアは一度言葉を切り、少しだけ肩をすくめた。
「豊原の娘たち、というのはそういうものです。
好き嫌いと使える使えないは別ですから」
「なるほど。
前藤がお前さんをよこした理由がよく分かった」
「それと、安心してください。管理官を誘惑する趣味はありません」
「そうかい。そいつはありがたい」
「ええ。代わりに、管理官を予定通り麴町警察署署長の椅子に座らせるのが私の仕事です」
「と、いう事は……」
げんなりとした顔で小野がぼやく。
星、つまり警察階級がない理由がようやく理解できたからだ。
「はい。麴町警察署の方にもついていきますので」
そこでセダンが大きく減速した。
朝の都心はどうしようもなく詰まっている。
時計を見ると、渋滞に巻き込まれてなお、警視庁に着くにはまだ早すぎた。
「……まさか、このまま本当に十時まで車の中か?」
「いいえ」
ナタリアはさらりと言う。
当然のようにプランを提示して。
「大手町で降ります。
貴方のような方を朝九時台に警視庁へ入れるのは危険ですので」
「俺は爆弾か何かか」
「昨日の実績を見る限り、それに近いかと」
小野が露骨に嫌な顔をするのを見て、ナタリアは初めて少しだけ楽しそうに微笑んだ。
「ご安心ください。
時間を潰す為に、朝食が取れるこじゃれた店を一軒、もう押さえてあります」
「……前藤と夏目に、ろくでもない女を寄越されたな」
「お褒めにあずかり光栄です」
この頃の警察。
東西冷戦時の警察は戦時体制で動いていたが、冷戦終結と共に平時に移行しようとして95年のオウム事件で戦時体制に戻り、9.11からのテロとの戦いで決定的になる。
ここからこのお話における警察
成田空港テロ未遂事件で自衛隊の治安出動の責任を取らされて戦時現場派閥が粛清され、平時官僚派閥が天下を取ったと思ったら、新宿ジオフロントテロ未遂事件で総理や都知事から三行半をつきつけられて粛清の真っ只中。小野管理官の次期麴町警察署署長というのは、本人の才能よりも完全に転がり込んだ運みたいなものである。




