下
点滴を引きずってやって来た、色のない部屋。左手に持った小さな花束が、やけに鮮やかに浮かび上がっている。
つながれるコード、静かに鳴り続ける電子音、機械的で清潔な匂い。まるで白雪姫のようにガラスケースの中で眠り続けるのは、ロマンチックには程遠い状態で無理やり命を繋がれている、全てを失った少女だった。
力の入らない拳を握りしめる。身の内で燃え上がる激しい憤りを抑えきれず、手のひらに血がにじんだ。
管だらけの彼女の中で脈打っているのは、機械仕掛けの心臓だ。いつかまた妹の体が不調をきたした時に臓器を渡すことができるよう、彼女は、保存容器として生かされているのだった。
彼女の性質が強欲だとして、それはこの仕打ちに値するか。否。
この世で唯一、自分を正しく評価する少女。病弱な冷泉を、世界を統べる才覚を持った逸材であると認め、愛してくれた存在。自分のために命を賭してくれた彼女を、歪んだナルシズムを持った彼もまた、深く愛していた。
幾人もの人間を踏みつけているのであっても、ただ彼女が微笑むためであれば、その他大勢は搾取という「幸福」を受け入れるべきなのだ。
冷泉は、彼女を覆う透明な繭に手をついた。彼女に言いたいことがたくさんある。だがまず、彼女に起きてもらわなくてはならない。そのために必要なものは何か、彼にはもうわかっていた。
――村上愛花は、自らの姉から不当に搾取したものを返還する義務がある。先に行われた行為を考えると、その取り立てが少々不道徳な方法によって行われるとしても、致し方ない。
ささやかな花瓶に自身が持ってきた花束を活け、冷泉はゆっくりと踵を返した。
後の世をひっくり返す逸材は、自身の明晰な頭脳で彼女に再び会うまでの過程を組み立てながら、まるで棺桶のような白い部屋を後にしたのだった。
「偶然事故に遭ってしまったお姉ちゃんの心臓が私を生かしているなんて、まだ信じられないの……なにより、ずっと一緒だったお姉ちゃんがもういないなんて」
二年前より成長し、儚げな魅力が増した少女は悲しげに言って、涙をいっぱいに溜めた瞳を美貌の青年に向けた。
「でもね、優一郎さん、私、いつでもお姉ちゃんが一緒にいてくれるような気がする。気の弱い私を導いてくれているような、叱っていてくれるような……寧ろ、お姉ちゃんと一つになって、私が完璧になったような気がするの」
冷泉が凪いだ目で見つめる中、少女は愛らしく頬を染めて首を傾げる。恐ろしいことに、庇護欲を掻き立て人心を掴むその姿は、計算などでは全くないのだった。
「私、お姉ちゃんが優一郎さんのことを好きだって前から知ってた。だけど、今は本当にすごくよくわかる。だって、優一郎さんに会うたび、こんなにも早く脈打つんだもの」
涙で彩られた大きな瞳が、おずおずと冷泉を見上げる。まるで小動物のような姿に、冷泉は穏やかに目を細めた。
「お姉ちゃんも、私と優一郎さんが結ばれること、きっと祝福してくれるね。お姉ちゃんがあなたを助けたのも、私に心臓をくれたのも、みんなが幸せになるためだったんだよ」
やわらかく微笑んだ姿は、愛らしく清廉だ。待ち受けている明るい色の未来を語る唇は、軽やかに音を紡ぐ。冷泉は小さく笑って、一歩彼女に近づいた。少女の頬が甘い期待で薔薇色に染まる。だが。
「おれはそうは思わないけどね」
彫刻のような美貌に穏やかな微笑みを浮かべたまま、冷泉ははっきりと愛花を否定した。
「おれとしては、別にみんなが幸せじゃなくたっていいんだ。自分が幸せならそれでいい、そうだろう? おれが不幸だったときだって、みんな幸せだったよね。わかるかな? ……まあそんなことは、どうだっていいんだけど」
青年は、独り言のように淡々と続ける。一度目を伏せて、小さくため息をついてから顔を上げて、真っ直ぐに愛花を見据えた。
「残念ながら、客観的に見て、きみのお姉さんはたいへん不幸だった。今でもそうだ。まあ確かに少し極端な性格をしてはいたけれど、あんな罰を受ける謂れはないだろう? しかもこんなお馬鹿さんのために」
愛花は、まるで責められているかのような態度に困惑する。双子の姉は、舞佳は二年前の事故で死んだはずだった。罰などではない。母も周りの人間も、同じことを言っていた。
「訳がわからないって顔をしているね。まあ当然か、日々健やかに生きているきみは、姉の死にも自分の心臓の経緯にも興味はないだろうし」
「ゆ、優一郎さん、それってどういう……」
「さあ、どういうことだろうね? 胸に手を当てて考えてみたら答えてくれるかもしれない」
愛花は急に怖くなって、脈打つ心臓を抑え込むように手を押し付ける。まさか。姉は、偶然の事故で命を失ったはずだ。
「彼女はおれの唯一の友人で、おれのことを世界で一番好きだと言ってくれた女の子だ。でも、彼女はくだらない多数決で負けて、不当な搾取を受けた。心当たりはあるかな?」
愛花はとっさに首を横に振る。そんな、そんなことは。今までは愛おしいばかりだった青年の笑顔が怖い。自分の胸で生を歌う心臓が、怖い。
「怖がらせてしまったかな、ごめんね。何が言いたいかっていうと、おれが幸せになるには彼女が必要だってことなんだ。きみみたいな紛い物じゃ駄目なんだよ。だからつまり、率直に言うと――」
冷泉は、どこからか取り出した拳銃を愛花へと向ける。悲鳴を上げる暇すらない。底冷えするような視線に僅かに身をすくませると、美しい青年は微笑んだまま、軽い調子で言った。
「きみの心臓をよこせよ、ってことなんだ」
白磁の指が、引き金を引く。銃声はない。しかし、可憐な少女の足には、先ほどまでなかった穴があいていた。焼けつくような痛みが、少し遅れてやってくる。
小さく悲鳴を上げていつかのように倒れこんだ少女は、呆然と許嫁を見上げた。しかし、彼は彼女を見ようともしない。懐から取り出した携帯でどこかに連絡しているようだ。
切れ切れの意識で、少女――愛花は、許嫁へと手を伸ばす。
「あ、ああああああ……!! 痛い痛い痛い! 痛いよ、ゆういちろうさん!」
「ああ、今すぐ手配しろ。予定通り心臓は手に入った。ああそれと、村上の馬鹿女はもう消して構わない。母親? 誰もそんなことは思っていないだろう」
「ま、待っ、て……待って! 行かないで! 私を置いていかないで!」
「そうだな、才覚のない奴らを抱え込むのも面倒だし、村上ごと根絶やしにしてもいい。その点、舞ちゃんのお祖父様はさすがの嗅覚だな、あの子に任せて正解だったんだから」
「ゆ……ゆう、いちろう、さ」
「最近では、馬鹿な娘に乗せられて得体のしれない慈善団体へ金をばらまいていたからな……実質、もう資産なんてほとんどないんだ。もし舞ちゃんが欲しいと言ったら、また新しく作ればいい――端山」
「はい」
「これを頼む。舞ちゃんの心臓が入ってるから、くれぐれも丁重に扱うように」
「はい」
その華奢な手が届くよりも早く、冷泉は歩き出す。彼にはまだやるべきことがある。彼の愛する女の子を貶めた全てのものに、相応の罰を与えなくては気が済まない。
一方「これ」と称された愛花は、痛みと恐怖に震えていた。一体どうなっているのだろう、愛しい許嫁は今やこちらを見向きもしない。冷泉の屋敷にたくさんいるはずの使用人たちも、「当主様の許嫁」とちやほやしていたくせに、誰一人として愛花を助けようとしない。傍に控えていた端山もそうだ。愛花は唇を震わせた。もしかしてこの恐ろしくも冷えた感覚を、人は絶望と呼ぶのだろうか。
誰かに捕まれた右腕に小さく痛みが走って、愛花の意識が急に霞がかったものになる。ふわふわとした感覚に包まれ、足の痛みは感じなくなっていた。視界が黒いものに塗りつぶされていく。
「もうすぐ会えるね、舞ちゃん」
そうか、愛されていたのは、自分ではなかったのか。
開かれた扉の前で許嫁がうっとりと呟いた声を最後に、多くの人々から愛された村上家の双子の妹の意識は、二度と晴れることのない黒い靄に沈んだ。
どうして舞佳に心臓が戻ってきていたのかというお話です。犯人は冷泉でした。
冷泉も別に、完璧に正しいことを言っているわけではないです。
今回は悪役組の完全勝利のような形になりましたが、こういう展開もありだと思います。